清史紀事本末天津教案(天津教案)
要約
同治九年夏五月、天津教案が起こり、曾国藩に急ぎ赴いて取り調べさせた。キリスト教は唐の建中二年に大秦景教として入り、元にはヨハネ・高未諾が北京で布教した。明の正徳にルターが新教を創めて旧教が振るわなくなると、ロヨラが耶蘇伊徳社を設け、利瑪竇が万暦八年に広東へ至り、二十八年に北京に入って天主教を唱えた。徐光啓・李之藻はその説を学び、神宗は礼拝堂を許し、湯若望は世祖に欽天監を掌らされた。康熙の初年に信徒は数十万に上ったが、長く中国に居て地を測り情報に通じ、覬覦の心が萌した。乾隆・嘉慶は厳禁し、その勢いは衰えた。道光二十三年の和議で布教が条約に載り、二十五年に各港へ教会堂を設けた。フランス人は天主教の護法をもって自任し、中国では教に味方して我を偵察する機関とし、教会堂の禍はここから始まった。
咸豊八年、西林の知県張鳴鳳が馬神甫を処罰して職を褫奪され、同治元年には湖南・江西の知県が免職・賠償となり、貴州で教士文乃爾らが殺害された事件では巡撫田興怒が流罪に処せられた。四川の二件も賠償させたが、教民の首悪王学鼎らは出頭させられず、覃輔臣が団民二百余名を殺しても取り調べられず、民は憤激した。この年四月、天津に人さらいがあり目をえぐり心臓を割くという噂が伝わり、捕らえた武蘭珍は天主教徒王三に使嗾されたと供述した。崇厚は豊大業と協議して定め、道・府・県の官に武蘭珍を同行させて教会堂を調べさせたが供述と合わず、そのまま連れ帰った。まもなく民人が教会堂で争うと報があり、豊大業は役所で崇厚と知県劉傑に拳銃を放ち従僕を撃ち殺した。民人は群がって豊大業を殴り殺し、教会堂と仁慈堂を焼き壊し、教民と修道女数十人を殺傷し、誤ってロシア商人三名も殺した。
六月、曾国藩は、フランス人が英米と連合して度を越えた要求を突きつけたので、誤殺のロシア商人と英米の講堂の件を先に決着させてフランスの件と混ぜぬよう請うた。崇厚はフランスへの謝罪使とされ、成林が通商事務を扱った。国藩は、王三の供述は定まらず使嗾の証拠もなく、仁慈堂の男女百五十余口も家から送られた者だと調べた。訴状は数百件に及んだが一つも事実を示せず、幼児を失った家もないのに、民間では人の目が甕に満ちて陳大帥が北京へ運んだと言った。国藩は、子どもを薬に調合するのは野蛮な種族すら忍びず、甕に満ちるほどなら目のない者が堂内に千人百人いるはずだと述べた。民が疑ったのは、門が年中閉ざされ地下の穴蔵に幼児が留め置かれ出られないと聞いたこと、洗礼で屍の目を洗い、送られて来る者は入るのが見えて出るのが見えないこと、堂中の区画が多く母子すら一年中顔を合わせないこと、四、五月に死者が多く夜に屍を二、三ずつ一棺に葬ったこと、河東の塚で掘り返された屍が外から腐っていたことの五つであった。
国藩は、檄文の説は謡言だと各省に通達し惑いを解くよう請い、首魁を捕らえ、銘軍三千を静海に駐屯させ、道府県の三員を免職した。毛昶熙・丁日昌が会同し、李鴻章は京畿へ急行した。国藩は和平を保つべきだとして士民の義憤を賞揚せず、焼かれた教会堂を修築しロシア人三名に撫恤を与えた。フランス公使羅淑亜が府・県の官と陳国瑞の命を償えと迫ると、国藩は大きな過ちはないと拒み、丁日昌に銘軍九千で滄州へ進ませた。天津の民は崇厚への怨みを国藩に向け、頑固党は売国賊と呼んで弾劾し、湖広会館では扁額を焼き、崇厚は国藩の病を理由に罷免を請うた。八月、曾国藩を両江総督、李鴻章を直隷総督に転じた。鴻章は、殺戮が過ぎれば外国人の永い患いとなると上書し、衙門も是とした。国藩の続奏は正犯十五人・軍流徒罪二十一人を挙げたが政府の意に逆らい、当て推量で人を事案に当てはめるなと責められた。九月、免職の張光藻・劉傑を黒竜江へ送り、陳国瑞は議を免じ、馮瘸子ら十五名と続捕の劉二ら五名を死刑に、小錐王五ら二十一名と続捕の鄧老ら四名を軍流・徒罪とした。国藩は陛見を命ぜられ、鴻章は天津で鎮撫した。
年表
同治九年(1870年)、天津で人さらいと目をえぐり心臓を割くという噂が広まり、フランス領事の豊大業が崇厚と知県劉傑に拳銃を放ったことから民衆が蜂起し、豊大業を殴り殺して教会堂・仁慈堂を焼き壊し、ロシア商人やイギリス・アメリカの講堂までも巻き添えにした事件を述べる。唐代の景教伝来から道光の条約による布教公認、各地の教案の累積までを前史として記す。病中の直隷総督曾国藩が調査に当たり、目をえぐるという説は謡言であると奏し、民が疑いを抱いた五つの理由を挙げたが、和平を主張したため売国賊と罵られた。曾国藩は両江総督へ転じ、李鴻章が直隷総督として引き継ぎ、知府張光藻・知県劉傑を黒竜江に送り、二十人を死刑、二十五人を軍流・徒罪とし、崇厚をフランスへ謝罪の使者として派遣して決着した。
年表(1件)
- 西暦1870年 穆宗同治九年天津の民がフランス領事を殴り殺し教会堂を焼き、曾国藩が調査に赴く
現代語訳全文
西暦1870年 穆宗同治九年
- 夏五月、天津の人民がフランス領事を殴り殺し、教会堂を焼き壊した。曾国藩に命じて急ぎ赴いて取り調べさせた。
- キリスト教は唐の建中二年にはじめて中国に入った。いわゆる大秦景教(底本は「大秦景」に作り、「教」の字を脱するか)である。元の至元二十七年になって、ローマ教徒のヨハネ・高未諾(ヨハネ・モンテコルヴィノ)が元に使いして来り、元の朝廷の許可を得て、北京で布教し、礼拝堂を建てた。
- 明の正徳十二年に至って、ゲルマン人のルターが新教を創立し、これを「耶蘇教」といった。ローマ教を奉じていた者の多くは、たちまち翻ってこれに従った。中土(底本は「中上」に作る。「中土」の誤りか)に流行していた教会は、その勢いもこれによって振るわなくなった。
- そのときスペイン人のロヨラという者があり、旧教(底本は「舊都」に作る。「舊教」の誤りか)が中途で衰えるのを目のあたりにして、同志を結び合わせ、耶蘇伊徳社(イエズス会)を設け、東洋に転じ入って力を尽くして布教し、旧教を中国において再興しようとした。
- そこでイタリア人の利瑪竇(マテオ・リッチ)が海を渡って東に来り、万暦八年に広東に至り、二十八年に北京に入って、天主教を唱えた。朝廷の官の徐光啓・李之藻らはその説を学び、またこれに従って『乾坤体義』『幾何原本』『測量法義』の諸書を訳し受けて世に行った。これによって神宗に重んじられ、京師の内外で礼拝堂を建てることを許された。
- 利瑪竇が死ぬと、ドイツ人の湯若望(アダム・シャール)が継いで来り、その業を承け、明の朝廷は天を司る任に当たらせた。
- 明の鼎が革まると、若望は命を新朝に帰し、世祖は手厚く礼遇して、欽天監を掌らせ、「通玄教師」と尊んだ。暦を治める以外に、およそ外交の通訳および国土の測量の事は、ことごとくこれに任せ、あわせて京師に堂を設けて、自ら布教することを許した。
- そのため康熙の初年に至って、天主教は一時きわめて盛んになり、全国の信徒は数十万を下らなかった。ところがこの輩は長く中国に居り、図を描いて地を測り、情報に通じていたので、ついに覬覦の心が次第に萌した。
- 乾隆・嘉慶の両朝になって、たびたび詔を下して厳しく禁じ、その勢いは次第に衰えた。
- 道光二十三年、白門(南京)の和議が成ってから、布教が条約に載せられた。二十五年には、さらにフランス人の請いに従い、通商の各港にみな天主教の教会堂を設けた。内地に入って布教する者は、地方官がみな優遇し保護した。
- これより、フランス人は天主教の護法をもって自任した。自国においてはこれを逐い、政教分離の説を主張しながら、中国においてはこれに味方し、我が政治と風俗を偵察し、我が利益を攫み取る機関としたのである。中国における教会堂の禍は、ここから始まった。
- 咸豊八年、広西西林の知県張鳴鳳がフランスの布教者である馬神甫を処罰したところ、領事が北京に訴え出て、鳴鳳の職を褫奪された。
- 同治元年、湖南・江西で教会堂が壊されたときには、各知県が免職となり、あわせて期限を切って賠償して修復させ、首謀者を厳しく懲らしめさせた。同じころ、貴州で教士の文乃爾らを殺害したときには、巡撫の田興怒(田興恕の誤りか)が流罪に処せられるまでになった。
- 六年および八年に、四川で教士の馮弼楽・李国を殴り殺した二つの事件では、いずれも犯人を懲らしめ銀を賠償させた(底本は「賞銀」に作る。「償銀」の誤りか)。ところが教民が平民を殺し、また姦淫・掠奪・放火・殺害を行った首悪の王学鼎・張添興らは、すでに罪を議定していながら、ついに出頭させられなかった。その司鐸である覃輔臣は徒党を糾合して団民の趙永林ら二百余名を殺したが、地方官は取り調べることができなかった。民人はますます憤激し、教を仇とする事件が、こうしてつぎつぎに起こった。
- この年四月、天津に人さらいをする悪者があり、あわせて目をえぐり心臓を割くというような事があるとの噂が伝わった。捕らえた犯人武蘭珍の供述によれば、天主教の信徒である王三に使嗾されたという。
- そのとき崇厚は天津にあって通商を取り扱っており、フランス領事の豊大業(フォンタニエ)らと協議して定め、道・府・県の官に武蘭珍を同行させて教会堂に赴かせ、通ってきた場所や家屋を指し示させて調べさせたが、もとの供述と合わず、そのまま犯人を連れて帰った。
- まもなく民人が教会堂で口論して殴り合っているとの報があり、まさに人を派遣して鎮撫に向かわせようとしていた(底本のこの箇所は文字に乱れがあるか)。ところが突然、豊大業が勢い猛にして役所の中に来り、崇厚に向けて拳銃を撃ち放ち、あわせて知県の劉傑にも銃を放ち、知県の従僕一名を撃ち殺した。
- そこで民人が奮い立ち、群がって豊大業を殴り殺し、あわせて教会堂を焼き壊し、仁慈堂などを取り壊し、教民および修道女数十人を殺傷した。また誤ってロシアの商人三名を殺し、誤ってイギリス・アメリカ両国の講堂を各一か所ずつ壊した。
- 天津は大いに騒擾した。直隷総督の曾国藩はそのとき病気の休暇中であったが、朝廷は天津に急行して取り調べるよう命じた。
- 六月、曾国藩が天津教案を処理する状況について奏上し、誤って殺したロシア商人および誤って壊したイギリス・アメリカ両国の講堂の件は、先に議して決着させたいと請い、これに従った。
- そのときフランス人は事にかこつけて要求を突きつけ、イギリス・アメリカと連合して政府に迫り、その欲するところははなはだ度を越していた。国藩はフランス人が道理で説き伏せにくいことを知り、もし四国が協力して我を図るなら、いっそう対応が難しくなると考え、そこでロシア商人およびイギリス・アメリカの講堂に関する各項の交渉は、先に方法を設けて議し決着させ、フランス人の件と混ぜないようにと請うたのである。詔して崇厚と会同して適切に協議処理し、もつれを生じないようにさせた。
- 崇厚に命じてフランスに出使させ、成林に通商事務を取り扱わせた。そのときイギリス・フランスの水師提督はすでに大沽にあって本国の君主に指示を仰いでおり、北京政府はこれを聞いて、決裂をはなはだ恐れ、特に崇厚を派遣してフランスの都に赴かせ、謝罪の使者としたのである。
- 曾国藩が奏上して、天津の事件のおおよその事情を調べ明らかにしたところ、目をえぐり心臓を割くという説は多くが根も葉もない誣告であるとし、旨を下して各省にあまねく通達し、人々の疑いを解くよう請うた。これを許した。
- 国藩は天津に到着したのち、教民が人をさらったという一件を取り調べた。王三は武蘭珍に薬を授けたと供述してはいるものの、供述したり翻したりして定まらず、また教会堂が使嗾したという確かな証拠もなかった。仁慈堂については、男女百五十余口を調べ出し、一人ずつ訊問して供述させたが、みなその家から堂に送られて養われているのであって、さらわれたという事情はまったくないと述べた。
- 目をえぐり心臓を割くという件については、国藩がはじめて天津の郡に入ったとき、士民が輿を遮って訴状を差し出したものが数百件を下らなかったが、自ら問い詰めてみると(底本は「親加推問地」に作る。「地」は衍字か)、一つとして事実を指し示せる者はなかった。天津の城内外に問い合わせても、幼児を失って訴え出た家はなかった。それでいて民間ではしきりに、人の目が甕に満ちるほどあり、陳大帥が自ら持って北京に入ったのだと言っていた。大帥とは、俗間で陳国瑞のことをこう呼ぶのである。彼はそのとき記名提督として、召しを奉じて北京に入り、神機営を統領していた。また崇厚の専使の役人が北京に着いたときにも、総理衙門に向かってこの説を述べ(底本は「稱連是說」に作る。「稱述是說」の誤りか)、さらに天津の民が教会堂を焼いたところ、堂内から人の目・人の心臓などの物が出てきて、崇厚に呈して受け取らせたが、いまはすでに処分されてしまったと聞いている、と奏する者もあった。
- ところが国藩は、子どもを殺して屍を損ない、生きた者を採って薬に調合するなどということは、野蛮で凶悪な種族ですらなお忍びないことであるのに、ヨーロッパの文明諸国がこのような残忍な行いをあえてするなどというのは、道理で判断すれば、必ずそのような事はないと述べた。まして目玉が甕に満ちるほどであれば、堂内には必ず千人百人の目のない者がいるはずなのに、どうして一人も現に見当たらないのか。かりに殺害したというなら、その死骸はまたどこへ行ったのか。そもそも仁慈堂の設けは、その初めの意図もまた中国の育嬰堂・養済院とほぼ同じで、もっぱら窮民を収容し救うことを主としており、毎年費やす銀両ははなはだ多い。彼らは仁慈を名としながら、かえって残酷だという謗りを受けているのであるから、憤懣やるかたないのももっともである、と。
- 人民が疑いを生じて憤った理由については、五つある。
- 一つには、堂の門が年中閉ざされていて、あまりに秘密めいており、外の人はその内実をうかがい測ることができない。また堂中にはどこも地下の穴蔵があり、天津の民はそれを目にしたことがないまま、ただ地下の穴蔵が深いこと、幼児たちがその中に閉じ込められ、往々にして留め置かれて出られないと聞くばかりであった。前任の江西進賢知県魏席珍の娘である賀魏氏が、娘を連れて堂に入り病を治療させたところ、久しくして帰らず、その父が来て穏やかに家へ帰るよう勧めても、かたく承知しなかったので、薬があって本心を惑わし失わせているのだと言われた。
- 一つには、仁慈堂は身寄りのない子女および病んで死にかけている人を収容し、しかもかの教には洗礼という説がある。洗礼というのは、その人がすでに死んだのち、教主が水をその額に注いでその目を封じ、天堂に昇ることができるとするものである。天津の民は、堂が死にかけた人まで収容するのを見、みずから新しい屍の目を洗うと聞いて、すでに不審に堪えなかった。また他の土地から車や船で天津に送られてくる者が、たちまち数十人・百人にもなり、入るのは見えるが出るのは見えず、どういうわけか分からなかった。
- 一つには、堂中には建物の区画がすでに多く(底本は「院落即多」に作る。「即」は「既」の誤りか)、経を唱える者、書を読む者、雇われて働く者、病を治療する者と、種類を分けて住まわせているので、母子のあいだでさえ往々にして一年中互いに顔を合わせないことがあった。
- 一つには、この年の四、五月のあいだ、堂中で死ぬ者があまりに多く、その埋葬もまた多くは夜に行われ、二つの屍、三つの屍が一つの棺に入っていることもあった。
- 一つには、ある日、河東の群がった塚で、犬に掘り返されたものがあり、一つの棺に二つの屍が入っていた。天津鎮中営の游撃である左宝貴らがかつて目撃したところでは、死人はみな内側から先に腐るものであるのに、これだけは外側から先に腐っており、胸と腹がただれ爛れ、腸や腹わたが外に露出していた。
- これによって根拠のない噂が大いに起こり、そのうえ日ごろから各地の檄文や貼り紙の言葉を聞き慣れていて、すでにそれを事実と信じており、さらにこうしたさまざまな疑わしい点が積み重なって、人々はみな怒りと恨みを抱いていた。そこへ人さらいの悪者が教会堂に関わり、府・県の官が堂に赴いて取り調べ、領事が官に向かって銃を放つに及んで、衆人の怒りはもはや抑えられなくなったのである。
- 国藩は以上の根源を調べ明らかにしたうえで、そこで奏請して、はっきりと諭旨を下して各省にあまねく通達し、従来の檄文や貼り紙のいう、教民が目をえぐり心臓を割き、生民を害するという説は、いずれも謡言であることを知らせ、天下に布告してみな聞き知らせ、一つには教会堂の冤を雪ぎ、一つには士民の惑いを解くようにと請うた。あわせて天津の人が疑いを抱くに至った点を、一つ二つ示し明らかにするよう請うた。凶行を働いた首魁の各犯人および機に乗じて略奪した者どもについては、すでに属僚に命じて捕らえ厳しく懲らしめさせており、あわせて保定の銘軍三千人を調えて静海に駐屯させ、鎮圧の力とした。別紙で道・府・県の三員を免職して罪に問うよう奏請し、いずれも旨を奉じて許可された。あわせて神機営統領・記名臬司の陳中瑞(陳国瑞の誤りか)に、天津に赴いて取り調べを待つよう命じさせた。
- 毛昶熙に命じて天津に赴かせ、曾国藩と会同して事件を取り調べさせ、丁日昌に補佐して協議させ、李鴻章には手勢を適宜率いて、京畿一帯に急行して駐屯させた。
- はじめ、国藩は教案のことを聞いたときから(底本は「聞始教案」に作る。「始聞教案」の誤りか)、崇厚とともに謗りを分かち合う覚悟を決め(底本は「興崇厚」に作る。「與崇厚」の誤りか)、士民の義憤を賞揚しなかった。それは粤匪(太平天国)と捻軍の乱が平らいだばかりであるから、和平の局面を堅く保つべきで、隣邦と争いの端を構えるべきではないと考えたからである。また四国が連合して条約を破り、事変が予測できないものとなって、京師が震え驚くことを憂え、そこで力を尽くして平和に処理することを主張し、教会堂のために目をえぐり心臓を割くという誣告をすすいで、その心を安んじようとした。焼き壊された各国の教会堂や公館については、改めて金を出して修築し、ロシア人で誤って傷つけられた三人には、いずれも撫恤を与えた。
- ところがフランス公使の羅淑亜(ロシュシュアール)はほしいままに要求を突きつけ、犯人若干人を懲らしめるほかに、府・県の官および陳国瑞の三人を命に当てて償わせよと迫った。国藩は力を尽くしてこれを拒み、疏して言った。府・県の官には実際に大きな過ちはなく、刑部に送った時点ですでに法が重く情が軽いのである。陳国瑞に至っては事に与っていないのに、それでもなお曲げて請いに従い、北京に来て質問に備えるよう命じた。彼らがもし決裂しようと腹を決めているのであれば、百たび請うのに百たび従ったとしても、事なきを保証しがたい。しかも外国は強弱を論じて是非を論じないのであるから、もし中国に備えがあれば、和議は定まりやすいはずである。すでに記名臬司の丁日昌に命じて張秋の銘軍九千人を統率させ、滄州に進ませて防禦の力とし、あわせて書を送って陝西の援軍を督して差し向けることを協議した。湖広総督の李鴻章は適宜郭松林らを率い、日を限って京畿一帯に急行して駐屯しております(底本は「抌紮」に作る。「駐紮」の誤りか)。国藩はあわせて疏して、和平の局面をよく全うすることが民を保つ道であり、不虞に備えることが国を立てる本であると述べた。
- 詔してこれを嘉して受け入れた。ところが天津の民はこの趣旨を理解せず、崇厚を怨む気持ちをそのまま国藩に向けて怨み、内には政府の頑固党から攻撃され、売国賊と呼ばれ、弾劾の上奏が入り乱れ、国中が殺そうとするありさまであった。北京に寓する湖広会館では、国藩の扁額を引き抜いて打ち砕き焼くまでした。そこで崇厚は事の決裂を懼れ、国藩の病状がはなはだ重いと奏して罷免を請い、鴻章をこれに代えようとした。詔して鴻章に速やかに京畿へ赴くよう促し、あわせて長江沿い・沿海の各総督・巡撫に諭を寄せて、厳重に警戒させた。
- 八月、曾国藩を両江総督に、李鴻章を直隷総督に転任させた。そのとき曾国藩の天津事件の処理はすでに目鼻がついており、この月の二十三日に先に奏して決着させようとしていた。ところが鴻章は保定の旅次から上書して言った。「天津で騒動を起こした各犯人は、死刑に処する者八人、あわせて罪を議する者二十余人で、処置は重くないとは言えません。もし殺戮が過ぎれば、実に外国人にとって永遠の患いとなり、とりわけ各国が中国の百姓を厚く遇する心にもかないません」云々。総理衙門は大いにこれを是とし、そこで鴻章に速やかに天津の任に赴かせるよう奏請した。
- ちょうど国藩の続きの奏上が届いた。その中に「この事件は厄介な点がはなはだ多く、通常の例をそのまま守ることが難しく(底本は「礙敷據守」に作る。「礙難據守」の誤りか)、臨機に処理せざるをえません。現在取り調べの明らかになった各犯人のうち、正犯として処置する予定の者は十五人、軍流・徒罪として処置する予定の者は二十一人です。将来の第二回の奏上による決着では、あるいはさらに首犯・従犯それぞれ数名を処置するか、あるいはフランス人と償いに当てる実数を取り決めるかであり、総理衙門が査定して通知されるように……」などの語があった。疏が奏上されると、大いに政府の意に逆らい、旨が下って、そのかたくなさを責め(底本は「責具拘泥」に作る。「責其拘泥」の誤りか)、「この事件は情状を量って罪を定めるのであって、ただ供述と証拠を拠りどころとすべきであり、無実の者を罰したり罪ある者を逃したりしないことを期すのである。どうしてあらかじめ当て推量で決め、人を無理に事案に当てはめることができようか」と言った。ついで旨が下り、鴻章に速やかに天津に赴き、国藩・崇厚と会同して監督処理するよう命じた。
- 九月、天津で防備を怠って民と教徒の争いを起こしたことにより、免職となった知府の張光藻、知県の劉傑を、黒竜江に送って力を尽くして罪をあがなわせた。騒動を起こした人犯二十人を死刑に処し、二十五人を軍流・徒罪とした。
- 光藻らが北京に逮送されたのち、刑部は軍台に流すことを擬して奏したが、上は重きに従って黒竜江に改め送るよう命じた。陳国瑞は取り調べて天津の事件と関わりがないとして、議を免じた。騒動を起こした人民の馮瘸子ら十五名、および続いて捕らえた劉二ら五名は、ただちに死刑に処し、小錐王五ら二十一名、および続いて捕らえた鄧老ら四名は、それぞれ配所に送って置いた。曾国藩は事件の処理を終えたのち、ただちに北京に来て陛見するよう命じられ、李鴻章はなお天津に駐在して、鎮圧・撫綏の各事宜を籌画するよう命じられ、崇厚はただちに期を限って洋に出て、フランスに赴き、遺憾の意を表明するよう命じられた。
原文(底本)
穆宗同治九年,夏五月,天津人民毆斃法國領事,焚毀教堂。命曾國藩馳往查辦。基督教自唐建中二年始入中國,所謂大秦景者也。及元至元二十七年,羅馬教徒若望·高未諾來使於元,得元廷許可,布教北京,建禮堂。迨明正德十二年,日耳曼人路得創立新教,曰『耶穌教』,奉羅馬教者,多幡然從之。其流行中上之教會,勢亦因之不振。時有西班牙人羅耀拉,目覩舊都中衰,結合同志,設耶穌伊德社,欲轉入東洋,力為傳布,以再興舊教於中國。於是義大利人利瑪竇泛海東來,以萬厯八年至廣東,二十八年入北京,倡天主教。朝官徐光啟、李之藻輩習其說,又從之譯受《乾坤體義》、《幾何原本》、《測量法義》諸書行世,以是見重於神宗,令得於京師內外,崇建禮堂。利瑪竇卒,德意志人湯若望繼至,承其業,明廷使當司天之任。明鼎革,若望歸命新朝,世祖優禮之,使掌欽天監,尊為『通玄教師』。自治暦之外,凡外交通譯及測量境土事,悉以任之,並許其設堂京師,自為傳教。故至康熙初年,天主教盛極一時,全國信徒不下數十萬。而此輩久居中土,繪圖測境,消息靈通,遂萌覬覦之漸。及乾嘉兩朝,屢次下詔嚴禁,其勢漸微。自道光二十三年,白門和議成,傳教載入條約。二十五年,復狥法人之請,通商各口,皆設天主教堂。入內地傳教之人,地方官皆優待保護。自是,法人以天主護法自居。在本國則逐之主政教分立之說,在中國則袒之,以為偵探我政俗,攫取我利益之機關,而中國教堂之禍,從此始矣。咸豐八年,廣西西林知縣張鳴鳳處治法國傳教之馬神甫,領事訴於北京,禠鳴鳳職。同治元年,湖南、江西拆毀教堂,各知縣革職,並勒限賠修及嚴懲倡首之人。同時,貴州殺害教士文乃爾等,巡撫田興怒至於遣戍。六年及八年,四川毆斃教士馮弼樂、李國兩案,皆懲犯賞銀,而教民殺死平民,及姦擄焚殺首惡王學鼎、張添興等雖已議罪,終不到案。其司鐸覃輔臣糾眾殺斃團民趙永林二百餘名,地方官不能查辦,民人愈加忿激,仇教之事,遂紛然以起。是年四月,天津有匪人迷拐人口,並傳言有挖眼剖心等事。據獲犯武蘭珍供,為天主教民王三所使。時崇厚在津辦理通商,與法領事豐大業等商定,令道、府、縣帶同武蘭珍赴堂,指勘所厯地方房屋,與原供不符,亦即帶犯歸。旋聞有民人在教堂口角爭,毆正在派並前往彈壓。忽豐大業洶洶來署中,向崇厚施放手槍,並向知縣劉傑放槍。擊死知縣僕從一名。於是民人奮起,群毆豐大業致死,並焚毀教堂,拆毀仁慈堂等處,殺傷教民及貞女數十人,又誤殺俄國商人三名,誤毀英美兩國講堂各一所。天津大擾,直隸總督曾國藩時在病假,朝命馳赴天津查辦。 六月,曾國藩奏籌辦天津教案情形,請將誤斃俄商及誤毀英美兩國講堂,先行議結,從之。時法人籍端要挾,聯英美以迫政府,其欲甚奢。國藩知法人難以理喻,倘四國協以謀我,更難於對付,因請將俄商及英美講堂各項交涉,先行設法議結,不與法人牽混。詔令會同崇厚妥為商辦,以免轇轕。 命崇厚出使法國,以成林辦理通商事務。時英法水師提督已在大沽請示國主,北京政府聞之,深恐決裂,特派遣崇厚前往法都為道歉使。 曾國藩奏,查明津案大概情形,所有挖眼剖心之說,多屬虛誣,請旨通飭各省以釋群疑,允之。國藩抵津後,研訊教民迷拐人口一節,王三雖經供稱授藥與武蘭珍,然尚時供時翻,亦無教堂主使確據。至仁慈堂,查出男女一百五十餘口,逐一訊供,均稱其家送至堂中豢養,並無被拐情形,至挖眼剖心,當國藩初入津郡,士民攔輿遽稟,不下數百餘起,及親加推問地,無一能指實者。詢之天津城內外,亦無遺失幼孩控告之家,而民間紛紛言有眼盈罈,由陳大帥自帶進京。大帥者,俗間稱陳國瑞之名也,時以記名提督,奉召入京,統領神機營,又崇厚專弁到京,亦向總理衙門稱連是說,並有人奏津民焚燬教堂,由堂內起有人眼人心等物,呈交崇厚收執,且聞現已消滅等語。而國藩則謂殺孩壞屍,採生配藥,野番兇惡之族尚不忍爲,而謂歐西文明各國肯出此殘忍之行,以理決之,必無是事。況眼珠若至盈罐,則堂內必有千百無目之人,何無一人見在?即云殘害,其屍具又將何歸?即仁慈堂之設,其始意亦與中國育嬰堂、養濟院略同,專以收卹窮民爲主,每年所費銀兩甚鉅。彼以仁慈爲名,而反受殘酷之謗,宜其忿忿不平也。至人民之所以猜疑生憤,其原因有五:一堂門終年扃閉,過於祕密,外人莫能窺測底蘊。又堂中皆有地窖,津民未經目覩,但聞地窖深邃,各幼孩幽閉其中,往往被留不出。前任江西進賢知縣魏席珍之女賀魏氏帶女入堂治病,久而不返,其父至婉勸回家,堅執不允,因謂其有葯迷喪本心。一仁慈堂收留無依子女及疾病將死之人,又彼教有施洗之說。施洗者,其人已死,教主以水沃其額而封其目,謂可升天堂。津民見其收及將死之人,聞其親洗新屍之眼,已堪詫異。又由他處車船致送來津者,動輒數十百人,但見其入而不見其出,不明何故。一堂中院落即多,或唸經,或讀書,或傭工,或醫病,分類而處,雖母子之間往往終年而不相見。一是年四五月間,堂中死人過多,其掩埋又多以夜,或有兩屍三屍共一棺者。一日河東叢塜,有為犬所發者,一棺二屍,天津鎮中營游擊左寶貴等曾經目覩死人皆由內先腐,此獨由外先腐,胸腹糜爛,腸肚外露,由是浮言大起,加以平日熟聞各處檄文揭帖之言,已信為實,而又積此種種疑竇,羣懷恚恨。迨至拐匪牽涉教堂,府縣赴堂查訊,領事對官放槍,眾怒乃不可遏矣。國藩既查明以上根源,遂奏請明降諭旨,通飭各省,俾知從前檄文揭帖,所稱教民挖眼剖心、戕害生民之說,均係謠傳,布告天下,咸使聞知,一以雪教堂之冤,一以解士民之惑,並請將津人致疑之端,宣示一二,其行凶首要各犯,及乘機搶奪之徒,已飭屬捕拏嚴懲,並調保定銘軍三千人,駐紮靜海,以資彈壓。另片奏請將道府縣三員革職治罪,均奉旨照準,並飭令神機營統領記名臬司陳中瑞,赴津聽候查問。 命毛昶熙前往天津,會同曾國藩查辦事件,丁日昌幫同商辦,李鴻章酌帶所部,馳赴近畿一帶駐紮。初,國藩聞始教案,立意興崇厚分謗,不獎士民義憤。蓋以粵捻初平,宜堅持和局,不宜與鄰邦構釁。又慮四國合縱敗約,變不測,京師震驚,於是力主和平辦理,為教堂昭雪挖眼剖心之誣,以平其心。其焚毀各國教堂公館,復提款興修,俄國誤傷三人,均給與撫卹。而法使羅淑亞肆意要挾,除懲犯若干人外,必令府縣官及陳國瑞三人議抵,國藩力拒之,疏言府縣官實無大過,送交刑部已屬法重情輕。至陳國瑞不在事中,仍復曲狥所請,飭令來京備質。彼若立意決裂,雖百請百從,難保無事。且外國論強弱,不論是非,若中國有備,和議當易定。已令記名臬司丁日昌統帶張秋銘軍九千人,拔赴滄州,以資防禦。並函商督辦陝西援師。湖廣總督李鴻章酌帶郭松林等,剋日馳赴近畿一帶抌紮,並疏言善全和局,以為保民之道;備禦不虞,以為立國之本。詔嘉納之,而津民不知此義,遂以怨崇厚者怨國藩,內之又為政府頑固黨所掊擊,呼為賣國賊,白簡紛紜,舉國欲殺。旅京湖廣會館,且將國藩匾額,拔除摧燒之。於是,崇厚懼事決裂,奏國藩病勢甚重,請罷免,而以鴻章代之。詔促鴻章迅赴京畿,並寄諭沿江沿海各督撫,嚴行戒備。 八月,調曾國藩為兩江總督,李鴻章為直隸總督。時曾國藩辦理津案,已有眉目,擬於是月二十三日先行奏結。而鴻章自保定行次上書,言:「天津滋事各犯,正法八人,與議罪二十餘人,辦法不為不重。若殺戮太過,實為外人永遠之患,尤非各國厚待中國百姓之心」云云。總理衙門大韙之,於是奏請飭鴻章迅赴津任。適國藩續奏至,中有:「此案棘手甚多,礙敷據守常例,不得不變通辦理。見訊明各犯,擬辦正犯者十五人,擬辦軍徒者二十一人。將來第二批奏結,或再辦首、從犯各數名,或與法人訂定扺償實數,由總理衙門覈定行知……」等語。疏入,大忤政府意,有旨責具拘泥,謂:「此案衡情定罪,惟當以供證爲憑,期無枉緃豈能豫爲懸擬,強人就案?」隨有旨,飭鴻章迅速赴津,會同國藩、崇厚督飭辦理。 九月,以天津疏防民敎起釁,革職知府張光藻、知縣劉傑,發往黑龍江効力贖罪。正法滋事人犯二十人,軍徒二十五人。光藻等逮京後,刑部擬以遣戍軍臺奏,上命從重改發黑龍江。陳國瑞訊與津案無干,著免議,其滋事人民馮瘸子等十五名,及續獲之劉二等五名,卽行正法。小錐王五等二十一名,及續獲之鄧老等四名,分別發配安置。曾國藩辦案歸結後,卽著來京陛見;李鴻章著仍駐天津,籌辦彈壓、撫綏各事宜;崇厚著卽剋期放洋,前往法國,表明惋惜。
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