清史紀事本末雲南回民の乱の平定(平靖滇回)
要約
咸豊五年冬十二月、雲南の回民杜文秀が蒙化で挙兵して大理府を占拠し、提督の褚永昌は兵潰えて殺された。これより先、漢民が回族の肥沃な田を狙い、官に偽って回民を辺境の外へ追い払わせ、回人は生業を失って苗と連携した。六年十二月、巡撫の恒春に討伐を諭した。地方官は撫慰を主としたが、回民はこれにかこつけ、党首の馬名魁は広西州・邱北・平彝を焼き殺した。大理の紳民が討伐を請うても舒興阿の門番が受理させず、回の勢力は広がり、舒興阿は召還されて恒春が総督を代理した。七年六月、騒乱が三迤に及んで省城に迫ると恒春は妻と縊れ死に、呉振棫が総督、張亮基が巡撫となった。十月、呉振棫は、黄琮らの檄文が回民を憤激させたとして革職を請い、殺掠する漢民も軍法で処断させた。
八年五月、呉振棫は回民二万余が解散したと奏したが、実は張亮基の軍が曲靖に駐屯して回族の家を破ったため、撫慰の名目で誓約書を出したので、張亮基が城外に城を築いて苦しめると回人は彼の甥を殺した。十一月、呉振棫は病で解かれ張亮基が総督、徐之銘が巡撫となり、十年十月には張亮基も病で免ぜられ劉源灝が代わった。徐之銘は、馬椿齢に自尽を迫り雷焱を市にさらし、鄧爾恒を曲靖で殺させながら、病死や盗賊の仕業だと奏し、張亮基を罷めさせた。十一年七月、劉源灝を召して福済を雲貴総督とした。徐之銘は回を頼んで新任の督撫を軟禁させ暗殺させたので、劉源灝は辞し、福済も任地に到らなかった。
同治元年三月、馬起らが省城に迫ると武生の馬如龍が説いて囲みを解かせ、総兵に用いられた。二年二月、雲貴総督の潘鐸が殺された。雲南は大理の杜文秀、曲靖の馬聯陞、省城の馬徳新に分かれ、諸酋長は掌教たる馬徳新に従った。罷免された徐之銘は回に擁護されて居坐り、馬徳新に杜文秀を招撫させ三府を割くことを許した。潘鐸は入城して平南王を望む馬徳新を拒み、馬如龍が臨安の梁士美を勝手に攻めると団練に馬如龍を討たせようとした。徐之銘がこれを洩らすと、馬徳新は懼れて馬栄に二千余を五華山に駐屯させた。潘鐸が五華書院で移屯を説き、輿に乗ろうとしたとき一党が傍らから刺して薨じ、入城して侍郎の黄琮らを殺した。布政使の岑毓英は兵と団練千人で藩司の役所を固守し、勝てねば焼身しようと誓い、離間の策で一党を分断して馬如龍を召した。馬徳新も馬如龍を召し、馬如龍は団練とともに馬栄を大破した。馬栄は武定へ遁げ、徐之銘は革職・逮送を命ぜられたが赴かなかった。
三年九月、岑毓英は尋甸を落として馬栄を、十月には曲靖を落として馬聯陞を磔にした。五年四月、労崇光は馬如龍に西路、岑毓英に猪拱箐・海馬姑を担当させた。前任の督撫は皆おびえて進まなかったが、昆明に至り、単騎で広東に入った自分が叛回に懼れようかと言って入城し、馬如龍は弓矢を納めて迎えた。漢と回の仇討ちは私闘だと公平を示すと、馬如龍らは落ち着いた。六年二月、労崇光が卒し、張凱嵩が総督、劉岳昭が巡撫となり、赴かぬ林鴻年は官を奪われた。七月、岑毓英は猪拱箐を攻めた。陶新春の拠る海馬姑・紅厓・尖山は鉄桶江山と呼ばれた。岑毓英は張保和らに小道から二龍関の背後へ回らせて呉家屯を襲わせ、自ら二龍関を攻めて三隘を落とし、海馬姑の援軍も待ち伏せて破った。敵は巨石に硝石・硫黄を詰めて嶺から落とし二十余営を壊したが、岑毓英は自ら酋長を斬り、坑を掘らせて石を落とさせた。従軍の裸人に歌わせて諭すと一万余が逃げ去り、頭目の大紅袍が降った。斬首二万、陶新春らを生け捕り、攻撃から滅ぼすまで百二十四日、三省の辺境は粛清された。
七年三月、張凱嵩は任を避けて革職され、劉岳昭が雲貴総督、岑毓英が雲南巡撫となった。閏四月、杜文秀は岑毓英の遠征に乗じて数十万で二十余城を陥れ省城は戒厳となったが、岑毓英は道を倍して救い、数十塁を連破した。馬如龍も合流して奮起した。石虎関の塁を破って呈貢・武定・元謀・晋寧・澂江を回復した。八年三月、降っていた澂江の回が嵩明・尋甸の馬周らと結んで府城を襲った。五月、全祖凱が隘路を落として尋甸を回復し、岑毓英は十里鋪から長坡まで六十余里の塁を掃討した。六月に嵩明州と龍陵庁、七月に李家地・老鴉営、八月に易門県城と黒琅の塩井、十月に楚雄・南安・定遠、十一月に昆陽州城、十二月に禄豊県城を落とした。
九年二月、岑毓英らは三路に分かれ、中路は弥渡・賓川、北路は麗江・剣川、南路は緬寧庁城を落とした。五月、威遠庁城を一年余の力戦で落として南路が粛清され、姚州や竹園の営塁数十も抜いた。八月に新興州城、十月に永北・鶴慶・鎮南、十一月には楊玉科が浪穹・鄧川と鳳羽を抜いて大理の北路が粛清され、十二月に張保和が竹園の本拠を抜いた。十年二月、一年囲んだ澂江府城と江那を落とし、四月に賓居を抜いて雲龍州の趙炳南が降り、十一月に館駅などを回復して迤東・迤南が粛清された。十一年四月、永平・雲南県と曲洞・漾濞を抜き、劉岳昭は呉奇忠らに貴州の興義府城を回復させた。五月、趙州・蒙化庁を落として大理城下に迫り、十月には周達武らが新城県城を落とした。十二月、大理が落ちた。杜文秀は十八年拠って五十三城を陥れ、西は四川、東は貴州に及んだ。楊玉科らは十一月から城下に至り、坑道で外城を爆破し、土城も地雷で破って禁城を囲んだ。杜文秀は妻妾と毒を飲み、蔡廷棟が屍を献じたがまだ息があり、楊玉科は首を斬った。城中は降を乞いながら地雷を仕掛けたので、岑毓英は表向き許して決死の士二百に降を受けさせ、城外の大兵と挟み撃ちに一万余を穴埋めにし、杜文秀の子女らを磔にした。十二年二月、段瑞梅は激戦十日で営・碉三十二を破り、楊玉科が錫臘を落とすと、段瑞梅は橋頭山などの営・木塁・碉八十余を削り取り、両人で順寧府城を回復した。四月に雲州城、五月に騰越庁城を落として雲南全省が粛清された。回は咸豊五年の大理の変から十九年で平定され、後の小さな反覆は大害をなさなかった。
年表
雲南で漢民と回民の土地争いから起きた回民の大乱と、その十九年にわたる鎮圧の経緯を記す。咸豊五年(1855年)に杜文秀が蒙化で挙兵して大理を占拠し、全省は大理の杜文秀・曲靖の馬聯陞・省城の馬徳新に分かれた。徐之銘が回勢を頼んで雲南の政権に居坐り、鄧爾恒・潘鐸ら総督級が殺されるなど官側は長く無策だったが、布政使の岑毓英が藩司の役所を固守して反撃に転じ、総督労崇光の来任で東西の用兵方針が定まる。岑毓英・馬如龍・楊玉科らが猪拱箐から各城を順次回復し、同治十一年(1872年)に大理が陥ちて杜文秀は自尽、同治十二年(1873年)の騰越攻略で全省が平定された。
年表(17件)
- 西暦1855年 文宗咸豊五年回民の杜文秀が蒙化で挙兵して大理を占拠し提督褚永昌が死ぬ
- 西暦1856年 咸豊六年巡撫恒春に討伐を命じるが受理を妨げられ回勢がいよいよ広がる
- 西暦1857年 咸豊七年恒春が夫妻で縊死し呉振棫が総督となり張亮基が巡撫に任じられる
- 西暦1858年 咸豊八年呉振棫が回民帰順を奏上するが実情は悪化し張亮基が総督に代わる
- 西暦1860年 咸豊十年徐之銘が鄧爾恒を殺させ張亮基を追い落とし劉源灝が総督となる
- 西暦1861年 咸豊十一年新任の総督巡撫が徐之銘に阻まれ赴任できず福済も任地に到らず
- 西暦1862年 穆宗同治元年馬如龍の説得で省城の囲みが解け総兵として用いるよう命じる
- 西暦1863年 同治二年総督潘鐸が馬栄の一党に殺され岑毓英が藩司を固守して馬栄を破る
- 西暦1864年 同治三年岑毓英が尋甸と曲靖を落とし馬栄・馬聯陞を捕えて磔にする
- 西暦1866年 同治五年労崇光が入城して人心を鎮め東を先に西を後とする用兵方針を定める
- 西暦1867年 同治六年岑毓英が百二十四日で猪拱箐と海馬姑を抜き陶新春を斬る
- 西暦1868年 同治七年省城に迫った杜文秀軍を岑毓英が撃退し馬如龍が合流して大局が転じる
- 西暦1869年 同治八年岑毓英が尋甸・楊林・易門・楚雄・昆陽など省城周辺を次々回復する
- 西暦1870年 同治九年三路に分かれて麗江・威遠・姚州・新興・浪穹などを攻め落とす
- 西暦1871年 同治十年澂江府城を一年の囲みの末に落とし迤東・迤南が粛清される
- 西暦1872年 同治十一年大理が陥ちて杜文秀は毒を飲んで自尽し全郡が粛清される
- 西暦1873年 同治十二年騰越庁城を落として十九年に及んだ雲南の回の乱が平定される
現代語訳全文
西暦1855年 文宗咸豊五年
- 冬十二月、雲南の回民杜文秀が蒙化で挙兵し、大理府を襲って占拠し、提督褚永昌がこれによって死んだ。これより先、雲南省の漢民が永昌の回族の肥沃な田を狙い、悪辣な胥吏と結託して地方の官吏に事実を偽って稟申し、回民をすべて辺境の外へ追い払わせた。回人はその生業を失い、しばしば貴州の苗族と連携して辺境沿いで騒擾を起こし、報復をとげようとした。ここに至って杜文秀を渠帥(首領)に推し、大理府城を占拠した。褚永昌は兵を率いて迎え撃ったが、兵が潰え、彼らに殺されるに至った。
西暦1856年 咸豊六年
- 冬十二月、雲南巡撫の恒春に、雲南の回民を討伐するよう諭した。雲南の回民が事を起こしてからこのかた、地方官は非が漢民の側にあることを知っており、また回衆の勢力が大きいことから、意向はもっぱら撫慰を主とした。回民は撫慰を求めるのにかこつけて奸計をとげた。その一党で省城にいる者は訓導の明賡颺を内応とし、尋甸・東川ではまた困難を畏れて目先の安きをむさぼる知県の潘偕・汪之旭が庇い立てするのに頼った。こうして群れをなして大理に赴き、永昌を攻め取ろうと図った。その党首である武進士の馬名魁が最も凶悍で、広西州・邱北・平彝などの県を次々に破り、焼き殺すありさまはことに惨たらしかった。大理の紳士・人民は省城に赴いて討伐を請うたが、総督の舒興阿は門番の陳喜を信任し、陳喜は巡捕の施嘉瑞と内外呼応して奸悪をはたらき、訴えを受理させなかったため、回の勢力はいよいよ広がった。事が朝廷に聞こえ、恒春に速やかに掃滅を計るよう命じ、ついで舒興阿を京師に召し、恒春を雲貴総督の代理とした。
西暦1857年 咸豊七年
- 夏六月、恒春が自殺し、呉振棫を雲貴総督に転任させた。当時、回の騒乱の気は雲南三迤(迤東・迤西・迤南)のほぼ全域に及び、さらに省城に迫っていた。恒春は防ぎ守る計略が尽きて甚だしく懼れ、夜に妻の博禹特氏とともに役所で縊れ死んだ。呉振棫に四川の兵を統率して赴くよう命じ、また前任の山東巡撫張亮基に軍を率いて引き続き進ませた。ついで張亮基に雲南巡撫を授け、湖南按察使の徐之銘を雲南按察使に転任させた。
- 冬十月、雲南に在籍する侍郎の黄琮、御史の竇垿の官職を革めた。総督の呉振棫は命を受けて雲南に入る途中、道すがら回と漢が争いを起こした事情を調査し、その責めを雲南の紳士である黄琮らが檄文を配り布告を出して回族殲滅を唱え、回民を疑い畏れさせ憤激させたことに帰した。そして黄琮らを免職して回民の冤罪をすすぐよう請い、漢民のうち団練の名を借りてほしいままに殺戮掠奪をはたらく者は、そのまま軍法に照らして処断するよう求めた。詔してことごとくこれに従った。これを聞いた者は皆、黄琮らのために無実を訴えた。
西暦1858年 咸豊八年
- 夏五月、呉振棫が、回民が撫慰に服し省城の戒厳を解いたと奏上した。呉振棫の上疏には、城外に屯集していた回民二万余はみなすでに解散し、地方は粛清されたと称していた。だが実際は、回人が巡撫張亮基の軍が曲靖に駐屯して回族の家をしきりに破ったことから、撫慰を受けるという名目で、永く騒ぎを起こさないという誓約書を出して願い出たのであった。張亮基は入城の後、城外に別に一つの城を築いて彼らを苦しめたが、回人はさらに張亮基の甥を誘い出して殺した。これより雲南の情勢はますますどうにもならなくなった。
- 冬十一月、呉振棫が病により任を解かれ、張亮基を雲貴総督、徐之銘を雲南巡撫とした。当時、呉振棫は回人に押さえつけられ、張亮基も入城の後は回人に見張られて出入りともに思うにまかせなかった。朝議は呉振棫を軟弱(底本は「懦蔥」に作る。「懦葸」の誤りか)と見て解任を命じ、張亮基をこれに代え、徐之銘を張亮基の後任の巡撫とした。
西暦1860年 咸豊十年
- 冬十月、張亮基が病で免ぜられ、貴州巡撫の劉源灝を雲貴総督に転任させた。当時、張亮基は上疏して徐之銘を弾劾していた。徐之銘は、道員の馬椿齢と通海県知県の雷焱が、撫慰に服した回が再び叛いて城を襲った時に、迎え撃つべきでないのに迎え撃ったとして、馬椿齢に自尽を迫り、雷焱を処刑して市にさらし、みだりに回の怒りを鎮めようとした。また昇任して陝西巡撫となった布政使の鄧爾恒が雲南にいた時に回の討伐を主張したのをねたみ、鄧爾恒が曲靖に宿るのを待って、ひそかに副将の何有保を使ってこれを迎え撃ち殺させた。詔を下して徐之銘に回答を奏上させたが、徐之銘は、回民が撫慰にかこつけて城を襲ったのであり、馬椿齢は道中で病死し、雷焱は傷を負って死に、鄧爾恒は曲靖に宿った際に盗賊に殺されたのだと奏上し、あわせて張亮基と回の事務の処理について意見が合わないと自ら陳述した。帝はこのために張亮基を罷免し、劉源灝をこれに代えた。
西暦1861年 咸豊十一年
- 秋七月、劉源灝を京師に召し、安徽巡撫の福済を雲貴総督に昇任・転任させた。当時、徐之銘は回人に利用され、そのまま回を頼みにして自分の地位を固めていた。およそ新任の総督・巡撫で雲南に入る者があれば、徐之銘は皆ひそかに回人をそそのかして軟禁させ、あるいは暗殺した。劉源灝はそこで四川の境にとどまって進もうとせず、そのうえ病と称して辞職を願った。そこで劉源灝を京師に召し還し、福済をこれに代えた。福済もまた任地に到らなかった。
西暦1862年 穆宗同治元年
- 春三月、徐之銘が省城の囲みが解け回民が撫慰に服したと奏上した。これより先、回人の馬起らが衆を率いて雲南省城に迫った。武生の馬如龍が、自分の力で解散させられると申し出て、みずから各塁に赴いて説得することを請い、徐之銘がこれを許した。省城の囲みはたちまち解け、あわせて占拠していた各城からも退出した。事が朝廷に聞こえ、詔して馬如龍を賞め、総兵として用いるよう命じた。
西暦1863年 同治二年
- 春二月、雲貴総督の潘鐸が回衆に殺された。雲南は回の変乱以来、全省が分裂していた。大理に拠る者を杜文秀、曲靖に帰する者を馬聯陞、省城に居坐る者を馬徳新という。馬徳新は回教のなかで掌教(底本は「掌殺」に作る。「掌教」の誤りか)の輩行として最も上であり、諸酋長は皆その号令に従った。当時、徐之銘はすでに罷免されていたが、新たに巡撫に任じられた賈洪詔が雲南に入ろうとせず、徐之銘は諸回に擁護されて、交代する者がいないのだと言い立てて地位に居坐り、従来どおり奏事していた。馬徳新はますます徐之銘を手中にして傀儡とした。
- 徐之銘は馬徳新に杜文秀を招撫させ、大理・永昌・麗江の三府の地を割いて与えることを許した。馬徳新はそこでみずから姚州に至って和を議した。杜文秀は布告を出し、馬復初はすでに迤西の地を分け与えることを承知したのだ、と言った。総兵の馬如龍もまた回のなかの渠魁(首領。底本は「渭魁」に作る。「渠魁」の誤りか)であり、すばしこく獰猛で戦いを好んだ。当時、潘鐸はすでに滇を総督する命を受け、毅然として入城し、力を尽くして威権を振るい回と漢を安んじ転換させようとしたが、馬徳新と馬如龍は驕り高ぶって手綱を受けつけず、はなはだ手のつけようがなかった。馬徳新は平南王に封ぜられたいという意を示したが、潘鐸は厳しくこれを拒んだ。馬如龍もまた迤東の諸郡を併呑しようとした。臨安の土豪梁士美が服さず、衆を糾合して険阻を守った。馬如龍がこれを討伐することを請うたが潘鐸は許さず、馬如龍はそのまま自分の部隊を率いて攻めに行った。潘鐸は梁士美に固守せよと檄を飛ばし、また他郡の団練のうち馬如龍と仇をなす者に檄を飛ばして、梁士美と合して馬如龍を討つよう図らせた。
- 徐之銘は潘鐸が功を立てるのをねたみ、その計略を馬徳新に洩らした。馬徳新は潘鐸が自分まで併せて図るのを懼れ、ひそかに回の武弁である馬栄を召して一党二千余を率いて入城させ、五華山に駐屯させた。街々は騒然として、みな馬栄が反すると言った。馬栄はかねて潘鐸に信任されていたので、潘鐸は最後まで馬栄が自分に背かないと思い、馬栄もまた潘鐸に対して忍びず、あえて事を起こさなかった。しかしその手勢は日ごとに出て騒ぎ掠奪した。潘鐸はみずから五華書院に出向き、説き諭して城外へ移屯させようとした。馬栄はすでに承諾した。まさに輿に乗ろうとした時、馬栄は会釈して見送ったが、その一党が矛で傍らから潘鐸を刺した。馬栄は駆け寄って護ったが、潘鐸はすでに薨じていた。住民は驚き乱れ、回の一党が次々と入城し、あわせて在籍の兵部右侍郎黄琮らを殺した。
- 当時、布政使の岑毓英は兵と団練千人で藩司の役所を固守していた。按察使以下は皆避けてそこに入った(底本は「皆避入馬」に作る。「馬」は「焉」の誤りか)。岑毓英は衆に語って言った。「今、賊が城に入ったとはいえ、私は死戦してこれを破るつもりだ。もし勝てなければ、諸君と役所を閉じて焼身しても遅くはない」。そこで血をそそいで誓いを立てて出陣し、兵を分けて東門と南門を守り、離間の策を用いてその一党を分断し、ひそかに使者をやって馬如龍を召し入援させた。総督が殺された時、徐之銘は馬徳新を迎えて総督の役所に住まわせ、一切を号令させた。馬徳新もまたひそかに馬如龍を召し、ともに馬栄を討って、自分が叛いたのではないことを示そうとした。馬如龍は初め省城が陥ちたと聞き、総督府・藩司の役人は皆すでに殺されたと思ったが、藩司の役所がまだ失われていないと知るに及び、軍を返して馳せて省城に入った。諸紳士・人民が団練を率いて至り、城内で馬栄を撃って大いに破った。馬栄は武定へ遁げ帰った。徐之銘はなお総督を代理し、馬如龍は提督の事を代理した。事が朝廷に聞こえ、徐之銘を免職して京師に逮送し、林鴻年を巡撫、労崇光を総督に転任させた。しかし徐之銘は結局回を頼りにして赴かず、朝廷はこれを処置することができなかった。
西暦1864年 同治三年
- 秋九月、岑毓英が尋甸を攻め落とし、馬栄を捕えて磔にした。
- 冬十月、岑毓英が曲靖を落とし、馬聯陞を捕えて磔にした。
西暦1866年 同治五年
- 夏四月、労崇光が、馬如龍にもっぱら西路の回の一隊を担当させ、岑毓英に猪拱箐・海馬姑などの地の攻撃を指揮させることを奏請し、これに従った。徐之銘が回を頼んで自重し雲南の中枢に居坐り、回をほしいままにさせて鄧爾恒・潘鐸を殺させて以来、前後して新たに任じられた総督・巡撫、たとえば劉源灝・福済・賈洪詔・林鴻年のような者は、皆おびえて(底本は「畏蔥」に作る。「畏葸」の誤りか)進もうとしなかった。労崇光は雲貴総督の命を拝してから道を急いで昆明に到着した。属僚たちはためらって進退を待ち、あるいはその出入りを阻もうとした。労崇光は言った。「私はかつて単騎で広東に入ったが、島の民は万を数えるほどいても、これを取るに足らぬものと見た。どうして叛いた回に懼れようか」。そこで入城した。諸回は驚愕した(底本は「駮愕」に作る。「駭愕」の誤りか)。馬如龍は回の武弁を率い、弓矢を袋に納めた姿で迎え入れた。労崇光は衆に語って、漢と回の仇討ち殺しは私闘の事件であって軍務ではない、と言い、ますます誠意を開き公平を示して不安に揺れる者たちを安んじた。馬如龍らの気持ちはこれではじめて落ち着いた。労崇光は岑毓英の言を用い、用兵は先に東、後に西として牽制を受けないようにすることとし、そこで馬如龍に大理の一隊を担当させ、岑毓英に猪拱箐の一隊を討伐させることを請い、旨を得て許可された。
西暦1867年 同治六年
- 春二月、労崇光が卒し、張凱嵩を雲貴総督、劉岳昭を雲南巡撫とした。当時、徐之銘はすでに死に、林鴻年は四川の境にとどまって赴かなかったので、詔して官職を奪い、劉岳昭を巡撫に補した。
- 秋七月、岑毓英が猪拱箐の回の巣窟を攻め(底本の「攻援」は「攻抜」の誤りか)、進んで海馬姑の諸塁を平らげ、三省の境界がことごとく平定された。岑毓英は鎮雄州城を攻め落とし、陣中で回の酋長李開甲・漆維新らを斬って以後、さらに進んで猪拱箐を討伐した。初め陶新春は海馬姑・紅厓・尖山に拠っていた。山は壁のように切り立って険しく断ち切れ、大河がその前面を帯のように巡り、鳥しか通れぬような一筋の道を攀じ登るほかなく、一人が険に拠れば万人も進めない。敵のなかではこれを「鉄桶江山」と呼んでいた。一党はしだいに増えて山の狭隘な地では収容しきれず、陶新春はさらに分かれて猪拱箐に拠った。その地は雲南・貴州・四川の三省の境目にあたり、八つの山が環をなして合わさり三面は切り立ち、ただ青松梁の一面だけが往来の道であった。絶頂の孤峰は天空を凌ぐ勢いで、三つの泉が下に注いで山麓で合わさり河となる。敵は山の険阻を分かれて拠り、山の下の肥沃な土地を呉家屯という。屯には間道があって海馬姑に達することができた。その外には二龍関・大丫口・小丫口の三つの隘路があり、堅固な塁が密に配され、出ては掠め退いては守り、自在に操っていた。ただ大溜口の一隘だけは道が険しく人目につかない。岑毓英は部将の張保和・林守懐に二千人を率いさせ、夜に大溜の小道から二龍関の背後に回り込ませて呉家屯を急襲させ、自分は三千人を指揮して二龍関を攻めた。夜明けに敵は巣を傾けて出て防ぎ、戦いがたけなわとなった時、にわかに後方の軍の砲声が天を震わせるのを聞いた(底本は「悤開」に作る。「忽聞」の誤りか)。敵は驚いて引き返し救おうとし、両軍が挟み撃ちにして三つの隘路はみな落ちた。そのまま呉家屯を奪い、斬り獲るところは数えきれなかった。海馬姑の敵勢が援けに来たが、岑毓英は途中で待ち伏せて撃ち大いに破り、みな潰え走った。また部将の蔡標・劉重慶に軍を分けて海馬姑を包囲討伐させ、その紅厓・尖山も落とした。敵の援けが断たれ、そのまま猪拱箐の本拠に迫った。敵は千余斤の巨石をうがち、硝石・硫黄・松脂を詰め、へたに火を引いて山の嶺から落とし、また牛馬を駆って突撃させ(底本は「衝異」に作る。「異」は「突」の誤りか)、二十余りの陣営を損壊した。岑毓英はみずから格闘して獰猛な酋長を斬り、敵ははじめて退いて山の中腹に陣を退げた。岑毓英は陣の前に深い坑を掘らせ、敵が前と同じ手で攻めて来ると石はことごとく坑の中に落ち、兵士に傷つく者はなかった。敵は計略が尽き、塁を守って出なくなった。敵の一党には「保人」「裸」の習俗の者が多く、袂を連ねて足を踏み鳴らして歌い、互いに唱和していた。岑毓英は従軍している裸人に山じゅうを巡って歌わせ、それとなく諭して解散させた。敵のなかで歌を聞いて逃げ去る者は一万余人。裸の頭目である大紅袍が降ってきた。岑毓英はその者の計略を用いて敵を破り、斬り取った首は二万、その大元帥の陶新春らを生け捕りにした。四川総督の駱秉章は勝報を聞いて人を遣わして軍をねぎらい、敵の屍を検めて築き上げ京観(戦勝記念の屍の塚)とした。この戦いは、両軍の戦いぶりを語る者が皆舌を巻いた。そのまま合わせて海馬姑を討伐し、陶新春を斬り、ことごとくその塁を平らげ、三省の辺境は粛清された。数えると猪拱箐の攻撃から敵を滅ぼすまで、わずか百二十四日であった。
西暦1868年 同治七年
- 春三月、張凱嵩が任を避けたことにより免職され、劉岳昭を雲貴総督に抜擢し、岑毓英を雲南巡撫とした。
- 夏閏四月、岑毓英が石虎関の回の塁を次々に破り、呈貢・武定・元謀・禄勧・羅次・晋寧・澂江などの城を回復した。これより先、迤西の回の首領杜文秀は、岑毓英が兵を指揮して遠出したのに乗じ、巣を傾けて攻め下り、その勢は数十万、二十余城を次々に陥れ、省城は戒厳となった。岑毓英は猪拱箐から凱旋して曲靖にいたが、急報を聞いて道を倍して救援に来た。そこでこの年の二月、大石壩・小石壩・小板橋・古庭庵・金馬寺の数十の塁を連破し、進んで響水関に駐屯して各方面に呼応した。馬如龍が来て合流し、諸回が自分を売ったことを深く悔いて、恥じ入り落ち着かなかった。岑毓英は誠意をもって慰め励まし、ともに力を尽くして敵を滅ぼすことを約した。馬如龍は感激奮起し、これより大局にはじめて転機が生じた。岑毓英はやがて楊林攻撃を指揮し、諸将に四方へ出て分かれて討伐するよう命じ、みずから行き来して戦いを督し、そのまま石虎関(底本は「石処関」に作る。「石虎関」の誤りか)の敵塁を次々に破り、あわせて呈貢などの地を攻め返した。
西暦1869年 同治八年
- 春三月、雲南の澂江の回が再び叛いて府城を襲い占拠した。澂江の回衆は前年にすでに(底本は「案已」に作る。「業已」の誤りか)投降していたが、ここに至って再び嵩明・尋甸の諸回の首領馬周らと結託し、楊林から山道を越えて(底本は「由楊林統越山路」に作る。「統」は「經」の誤りか、または衍字か)府城を襲い占拠した。
- 夏五月、劉岳昭が尋甸を回復した。劉岳昭は前年の冬に尋甸を攻めて敗れていたが、ここに至って総兵の全祖凱が要害の各隘路を攻め落とし、回の頭目馬添順・李芳沅らが前後して投降し、そのまま尋甸を回復した。岑毓英が省城東方の回の塁を粛清し、楊林・団山などの地を攻め落とした。省城東方の諸回は十里鋪などの地に居坐っていた。岑毓英は部将の李維逑らを遣わして道を分けて進攻させ、まず蕭家山の敵の柵を焼き払った。敵は省城北方の馬村一帯へ狂奔した。十里鋪・小徧橋から長坡まで六十余里の堅固な塁を一律に掃討した。その楊林・団山などの地に拠る回も、また岑毓英の弟である道員岑毓宝らに討ち破られ、楊林・富民の全域が粛清された。
- 六月、岑毓英が嵩明州および龍陵庁・白塩井などの地を落とした。
- 秋七月、岑毓英が省城に近い李家地・老鴉営などの地の回の塁を次々に破った。
- 八月、岑毓英が易門県城および黒琅などの地の塩井の回の巣窟を攻め落とした。雲南の省城近くの回衆は各地の塩井を頼みにして軍費にあてていた。岑毓英は李維述・田仲興・岑毓宝らに道を分けて進撃討伐させ、順次に易門県城および黒琅などの地の塩井を回復し、あわせて海口・八街などの地の回の巣窟を攻め破った。
- 冬十月、岑毓英が楚雄などの城を攻め落とした。岑毓英は将を遣わして楚雄・南安・定遠の三城を分けて攻め、いずれもこれを下した。
- 十一月、岑毓英が昆陽州城を回復した。これより先、馬如龍が軍を指揮して昆明(「昆陽」の誤りか)を攻めたが落とせなかった。岑毓英はさらに総兵の張保和を遣わして至らせ、厳重な包囲を設けてこれを苦しめた。城内の守将楊振鵬が夜に城を開いて遁げたが、張保和は伏兵を設けてこれを捕え、あわせて馬聯魁・馬生龍らを捕獲した。
- 十二月、岑毓英が省城近くの土塁に拠る回の砦を粛清し、あわせて禄豊県城を攻め落とした。この戦いで回の首領馬得良・劉和らは皆捕えられた。
西暦1870年 同治九年
- 春二月、岑毓英らが麗江などの城および馬街などの地の回の巣窟を攻め落とした。これより先、岑毓英は総督の劉岳昭・提督の馬如龍と軍を三路に分けていた。ここに至って、中路は弥渡・賓川および紅厓・馬街の各回の塁を回復し、北路は麗江・剣川を回復し、南路は緬寧庁城を攻め落とした。
- 夏五月(底本は「夏」の字を前の記事の末尾に置く)、岑毓英らが威遠庁城を回復し、南路が粛清された。威遠は普洱府の管轄で、久しく回の首領馬標に占拠され、たびたび攻めても落ちなかった。岑毓英は諸軍に土着の団練と合同して道を分けて進攻させ、力戦すること一年余り、はじめて庁城を攻め落とし、あわせて四塁厓一帯(底本は「四壘厓一帶」に作る。「四壘」と「厓一帶」に切る読みもあるが、地名か数量かを確定できない)の回の巣窟を破り、南路が粛清された。岑毓英が姚州城を攻め落とした。岑毓英は将の李維述・楊玉科らを指揮して、姚州の堅城および澂江・竹園の龍潭・校場・蘿蔔村・西山村一帯の陣営・碉楼数十を攻め抜いた。その竹園城の回もまた張保和らに陣営・碉楼二百余りを攻め破られ、東西両山の苗の集落は風を望んで帰順し、竹園・下壩の地方が粛清された。
- 八月、岑毓英らが新興州城を回復した。この戦いでは提督の馬如龍が軍を指揮して王枕山・灰寨および城に近い諸塁を次々に破り、そのまま州城を攻め落とした。
- 冬十月、岑毓英らが永北などの庁・州の城を攻め落とした。岑毓英は将の李維述らを遣わして永北・鶴慶・鎮南の三城を分けて攻め、これを落とした。
- 十一月、岑毓英らが鄧川・浪穹の両城を攻め落とし、あわせて前後して鳳羽・白米荘・長邑村・錬鉄橋の各回の巣窟を攻め抜いた。この戦いでは提督の楊玉科が兵を指揮して迫り、浪穹を落としてから勝ちに乗じて鄧川を攻めてたちどころに下し、その後さらにみずから鳳羽・白米荘・長邑村・錬鉄橋の各回の巣窟を攻め、傷を包んで力戦し、いずれもこれを抜いた。大理の北路は一律に粛清された。
- 十二月、岑毓英らが竹園の回の巣窟を攻め落とした。弥勒県管轄の竹園は敵が久しく拠って落ちなかった。岑毓英は張保和を遣わしてこれを攻めさせ、上壩・下壩の各巣窟を次々に破り、館駅などの地の援兵を撃退し、たちどころに竹園の本拠を抜いた。岑毓英はさらにみずから軍を率いて澂江(底本は「激江」に作る。「澂江」の誤りか)付近の敵の陣営数十を攻め落とした。
西暦1871年 同治十年
- 春二月、岑毓英が澂江府城を攻め落とし、あわせて開化府管轄の江那の土城を回復した。岑毓英はみずから率いて澂江を囲むこと一年、ここに至ってこれを落とし、あわせて江那などの地を抜いた。
- 夏四月、岑毓英らが賓居の回の巣窟を攻め落とし、雲龍州城を回復し、あわせて茂克の各巣窟を抜いた。楊玉科らが賓川州管轄の賓居の各堅固な巣窟を攻め抜き、雲龍州の回の頭目趙炳南はそのまま州城をもって降った。
- 冬十一月、岑毓英らが臨安府管轄の館駅・婆兮・田心・曰者郷の各回の塁を回復した。この戦いでは岑毓英が将の何秀林・張保和らを指揮して道を分けて包囲攻撃し、順次にこれを落とした。迤東・迤南が粛清された。
西暦1872年 同治十一年
- 夏四月、岑毓英らが永平・雲南県の城を攻め落とした。この二つの邑は大理にごく近く、迤西の回衆は頼みにして犄角(互いに支え合う勢い)としていた。岑毓英は楊玉科・李維述らを遣わし、永昌府城を攻め落とした後、道を分けて進攻させ、前後して(底本は「先從克之」に作る。「從」は「後」の誤りか)これを落とし、あわせて曲洞・漾濞の各敵の巣窟を抜いた。
- 劉岳昭が将の呉奇忠らを遣わして境を越えさせ、貴州の興義府城を攻め落とした。これより先、回衆が興義および新城を占拠し、久しく雲南・貴州両省の辺境の患いとなっていた。劉岳昭は呉奇忠らを遣わして貴州の軍と合してこれを攻め、そのまま興義府城を回復した。
- 五月、岑毓英らが趙州・蒙化庁の城および大理の上下両関を攻め落とした。岑毓英は楊玉科を遣わして趙州を攻めさせ、李維述に蒙化庁を攻めさせ、いずれもこれを落とした。これより大理へ長駆し、道すがら敵の援軍を撃退し、まっすぐ大理城下に迫った。
- 冬十月、貴州提督の周達武らが新城県城を攻め落とし、貴州省上流域が粛清された。
- 十二月、岑毓英らが大理を落とし、杜文秀は自殺し、全郡が粛清された。大理は東に洱海に臨み、西に蒼山に倚る。杜文秀が占拠してから十八年、五十三城を攻め陥れ、西は四川に及び東は貴州に及んだ。禁城を築き、城の内外を土の垣で護り、城は堅くしかも厚かった。提督楊玉科らの軍は十一月の初旬(底本は「初甸」に作る。「初旬」の誤りか)より城下に到り、坑道を掘って東南の外城を爆破して陥れ、兵士を率いて破れ口から突き入った。敵は土城に拠ってなお死にもの狂いで防いだが、また地雷でこれを破り、さらに五千人を増派してその禁城を取り巻いて攻めた。杜文秀は勢い窮まり、子女を大司衡の楊栄・大経略の蔡廷棟(底本はここと後文で「廷楝」、別の箇所で「廷棟」に作る。「棟」の誤りか)の家に分けて預け、妻妾とともに毒を飲んで自尽した。蔡廷棟が屍を担いで献じたが、息はまだ続いていた。楊玉科はただちに佩刀を抜いてその首を斬り、馳せて省城に送った。当時、岑毓英も至って撫慰の事務を配置した。城中は表向きは降伏を乞うと称しながら、内実は宿舎に地雷を仕掛けていた。岑毓英は三日以内に武器を納めるよう命じたが、(城中は)半年を期限とするよう求めた。岑毓英はその偽りを悟り、こちらも表向きはこれを許しておいて、ひそかに楊玉科に命じて決死の士二百を選ばせ、同知で太和県を兼ねる譚席珍を率いて入城し降伏を受けさせ、城外に大兵を厳重に配置し、期日を定めて挟み撃ちにし、敵一万余を穴埋めにした。三つの城をあわせて落とし、杜文秀の子女である杜宗揚(底本は「社宗揚」に作る。「杜」の誤りか)・賽揚・成揚らおよびその大蒙宰の馬仲山、ならびに楊栄・蔡廷棟らを捕え、皆これを磔にした。大理は粛清された。
西暦1873年 同治十二年
- 春二月、岑毓英らが順寧府城および錫臘(底本はここを「鍚臘」、後文を「錫臘」に作る。「錫」の誤りか)などの地の回の巣窟を攻め落とした。大理がすでに回復され、楊玉科らは勝ちに乗じて順寧に迫った。到着しないうちに城内の敵兵が先に出て、大中山・小中山の各陣営を分かれて襲った。ちょうど提督の段瑞梅(底本は「叚瑞梅」に作る。「段」の誤りか)の軍が至り、激戦(底本は「塵戰」に作る。「鏖戰」の誤りか)すること十日、敵の陣営・碉楼三十二を次々に破った。楊玉科は錫臘を回り込んで攻め、これによって敵を牽制し、錫臘を落としてから、段瑞梅はさらに橋頭山などの地の敵の陣営・木の塁・碉楼八十余りを削り取って残さず、あわせて鳳山・虎山を攻め抜いてまっすぐ城下に迫りこれを囲んだ。楊玉科が至り、段瑞梅らと各門を分けて攻め、一つ一つ掃討した。この月二十五日、そのまま順寧府城を回復した。
- 夏四月、岑毓英らが雲州城を攻め落とした。楊玉科は順寧を攻め落としてから進んで雲州を囲み、総兵の蔡標とともに力戦すること一月余り、ここに至ってこれを落とした。
- 五月、岑毓英らが騰越庁城を攻め落とし、雲南全省が粛清された。雲州が回復されてから、岑毓英は諸将を指揮して騰越を攻めた。提督の和耀曾が小猛統および烏士寨・馬家村の各堅固な巣窟を攻め落とした後、総兵の李維述、提督の段瑞梅・蒋宗漢・徐聯魁らの軍と合流して騰越を取り巻いて攻め、これを落とした。雲南の回は咸豊五年に大理で変を唱えてから、時を経ること十九年、ここに至ってはじめて平定を成し遂げた。後に小さな反覆はあったものの、もはや大きな害をなすことはできなかった。
原文(底本)
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=18646&page=13&by_title=%E6%B8%85%E5%8F%B2%E7%B4%80%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E6%9C%AB 文宗咸豐五年,冬十二月,雲南回民杜文秀起蒙化,襲據大理府,提督褚永昌死之。先是,滇省漢民覬覦永昌回族腴田,於是句結姦胥,朦稟地方官吏,所有回民,一律驅逐徼外。回人失其故業,往往聯結黔苗,沿邊滋擾,以逞報復。至是,推文秀爲渠帥,佔據大理府城。永昌提兵迎擊,兵潰,致爲所戕。 六年,冬十二月,諭雲南巡撫恆春剿办滇回。自滇回起事,地方官知曲在漢民,又因回衆勢大,意專主撫,回民籍求撫以售姦謀。其黨在省城者,以訓導明賡颺爲內援,尋甸東川又倚畏難苟安之知縣潘偕汪之旭之徇庇於是麇赴大理進規永昌黨首武進士馬名魁最爲兇悍連破廣西州邱北平𢑴等縣焚殺尤慘大理紳民赴省請剿總督舒興阿任信門丁陳喜與廵捕施嘉瑞表裏爲奸不予准理致回勢愈張事上聞命恆春迅籌掃滅尋召舒興阿赴京以恆春代爲雲貴總督 七年,夏六月,恆春自殺調吳振棫爲雲貴總督時回氛幾遍三迤復偪近省城恆春堵禦計窮懼甚夜與其妻博禹特氏在署自縊死命振棫統帶川兵前往復命前任山東廵撫張亮基率師繼進尋授亮基雲南廵撫調湖南按察使徐之銘爲雲南按察使 冬十月革雲南在籍侍郎黃琮御史竇垿職總督吳振棫受命入滇沿途調查回漢起釁情形歸咎於滇紳黃琮等散帖吿示倡議滅回致回民疑畏憤激而成請將琮等革職昭雪回民之冤其漢民有藉團練爲名肆行殺掠者卽以軍法從事詔悉從之聞者皆爲琮等稱屈 八年,夏五月,吳振棫奏回民就撫省城解嚴振棫疏稱屯集城外之回民二萬餘咸巳解散地方肅淸實則回人因廵撫張亮基駐軍曲靖累破回家藉名受撫出具永不滋事甘結以請亮基入城後於城外別築一城以困之復誘殺亮基之姪自是滇事愈不可爲矣。 冬十一月,吳振棫因病解任以張亮基爲雲貴總督徐之銘爲雲南廵撫時振棫受制回人亮基入城後亦爲回人看守出入均難自主廷議以振棫懦蔥命解任以亮基代之而以之銘繼亮基爲廵撫。 十年,冬十月,張亮基以病免調貴州廵撫劉源灝爲雲貴總督時亮基疏叅徐之銘以道員馬椿齡知通海縣雷焱於撫回復叛襲城時不應迎擊偪令椿齡自盡棄焱於市妄意以平回怒復因升任陜撫布政使鄧爾恆在滇時意主剿回嫉之俟爾恆行次曲靖陰使副將何有保截殺之詔下之銘回奏而之銘則奏稱回民假撫襲城椿齡係在途次病故焱係被傷身死爾恆係行次曲靖被盜戕殺並自陳與亮基辦理回務意見不合帝爲之罷免亮基以源灝代之。 十一年,秋七月,召劉源灝來京以安徽巡撫福濟調升雲貴總督時徐之銘爲回人所利用亦遂挾回以自固凡新任督撫入滇者之銘皆陰嗾回人軟禁之或暗殺源灝遂逗留川境不敢進且稱病乞休乃召源灝還京以福濟代之福濟亦不扺任 穆宗同治元年,春三月,徐之銘奏省城解圍回民就撫先是回人馬起等率衆進偪雲南省城有武生馬如龍呈稱力能解散請親赴各壘勸導之銘許之省圍立解並退出所據各城事聞詔嘉獎如龍命以總兵用 二年,春二月,雲貴總督潘鐸爲回衆所戕雲南自回變以來全省分裂其據大理者曰杜文秀歸曲靖者曰馬聯陞踞省城者曰馬德新德新爲回敎中掌殺行輩最先羣酋皆聼號令時徐之銘雖已罷斥而新授廵撫賈洪詔不敢入滇之銘爲諸回擁護託言無人接替踞位奏事如故德新益挾之以爲傀儡之銘使德新招撫文秀許割大理永昌麗江三府地予之德新遂親至姚州議和文秀出示謂馬復初(德新宇)已允分給迤西之地矣總兵馬如龍亦回中渭魁而慓悍好鬬時潘鐸旣受命督滇毅然入城欲力振威權安轉回漢而德新如龍驕懌不受羈勒頗難措手德新示意欲封平南王鐸嚴拒之如龍亦欲兼幷迤東諸郡臨安土豪梁士美不服糾衆守險如龍請剿之鐸不許如龍徑率所部往攻鐸檄士美固守又檄他郡團練中之與如龍爲仇者使與士美合圖如龍之銘忌鐸立功故洩其謀於德新德新懼鐸並圖已宻召回弁馬榮率黨二千餘入城駐五華山道路洶洶皆言榮反榮夙爲鐸所信任故鐸終以榮不負已榮亦不忍於鐸未敢發然其衆日出騷掠鐸親詣五華書院開諭令移屯城外榮己諾矣方登輿榮揖送其黨以矛旁刺鐸榮趨護鐸已薨居民驚亂回黨絡繹入城並戕在籍兵部右侍郎黃琮等時布政使岑毓英以兵練千扼守藩署臬司以下皆避入馬毓英因語於衆曰今賊雖入城吾當死戰破之如其不勝與公等閣署自焚未晚也於是瀝血誓師分兵守東南門用閒離其黨而陰使使召如龍入援方總督之被戕也之銘迎德新入居總督署號令一切德新亦密召如龍欲與共討榮以示己非叛如龍初聞省城陷以爲院司皆己戕比知藩署未失還軍馳入省諸紳民率團練至擊榮於城內大破之榮遁回武定之銘仍署總督如龍署提督事聞之銘革職逮京以林鴻年爲廵撫調勞崇光爲總督之銘卒倚回不行朝廷莫能治也 三年,秋九月,岑毓英攻克尋甸擒馬榮磔之。 冬十月,岑毓英克曲靖擒馬聯陞磔之。 五年,夏四月,勞崇光奏請以馬如龍專辦西路回股以岑毓英督攻豬拱箐海馬姑等處從之自徐之銘倚回自重盤踞滇中縱回戕殺鄧爾恆潘鐸於是前後新授督撫如劉源灝福濟賈洪詔林鴻年皆畏蔥不敢進崇光自拜滇督之命兼程抵昆明僚屬徘徊俟進止或尼其出入崇光曰吾嘗單騎入廣東島人萬計視之蔑如也豈懾叛回哉遂入城諸回駮愕如龍率回弁櫜鞬迎入崇光語於衆曰漢回仇殺乃械鬬案非軍務也益開誠布公以安反側如龍等意始安崇光用毓英言用兵先東後西以免牽制因請以如龍辦大理一股毓英剿豬拱箐一股得旨報可 六年,春二月,勞崇光卒以張凱嵩爲雲貴總督劉嶽昭爲雲南廵撫時徐之銘已死林鴻年逗遛川境不行詔奪職以嶽昭補廵撫。 秋七月,岑毓英攻援豬拱箐回巢進平海馬姑諸壘三省邊界悉平毓英自攻克鎮雄州城陣斬回酋李開甲漆維新等之後復進剿豬拱箐初陶新春據海馬姑紅厓尖山山壁立斗絕大河帶其前鳥道一線攀援而登一夫扼險萬人莫進敵中呼爲鐵桶江山黨類日衆山隘不能容陶新春復分據豬拱箐其地界滇黔川三省之交八山環合三面嶄然惟靑松梁一面爲往來之徑絕頂孤峯勢凌霄漢三泉下注滙山麓爲河敵人分據山險山下沃壤曰吳家屯屯有閒道可達海馬姑外有二龍關大丫口小丫口三隘堅壘密布出掠退守操縱自如惟大溜口一隘徑路險僻毓英令部將張保和林守懷領二千人夜由大溜小徑抄出二龍關後掩襲吳家屯自督三千人攻二龍關質明敵傾巢出拒戰方酣悤開後軍礟聲震天敵驚回救兩軍夾擊三隘皆下遂奪吳家屯斬獲無算海馬姑敵衆來援毓英要擊於中逄大破之皆潰走又令部將蔡標劉重慶分軍圍剿海馬姑亦克其紅厓尖山敵援斷遂逼豬拱箐老巢敵鑿千餘斤巨石實硝磺松脂引火於蔕自山領墜下又驅牛馬衝異損壞二十餘營毓英親搏戰斬悍酋敵始𨚫退營山半毓英令於營前掘深坑敵用前法來攻石盡落坑中軍士無所傷敵計窮𡑅守不出敵黨多保人裸俗連袂蹈歌相唱和毓英令裸人之從軍者徧山環歌諷以解散敵中聞歌而逸者萬餘人裸目大紅袍來降毓英用其計破敵斬馘二萬生擒其大元帥陶新春等川督駱秉章聞捷使人犒師點檢敵屍築爲京觀是役也談兩軍戰狀者皆咋舌遂合剿海馬姑斬陶新春盡平其壘三省邊境肅淸計自豬拱箐至滅敵僅百二十四日耳 七年,春三月,張凱嵩以規避革職擢劉嶽昭爲雲貴總督岑毓英爲雲南廵撫。 夏閏四月,岑毓英連破石虎關回壘克復呈貢武定元謀祿勸羅次晉寧澂江等城先是迤西回首杜文秀乘毓英督兵遠出傾巢下犯衆數十萬連陷二十餘城省城戒嚴毓英自豬拱箐凱旋曲靖聞警倍道來接於是年二月連破大小石壩小板橋古庭庵金馬寺數十壘進駐響水關策應各路馬如龍來會深悔羣回之賣已忸怩不安毓英推誠慰勉約共竭力滅敵如龍感奮由是大局始有轉機毓英旋督攻楊林飭將四出分剿躬自往來督戰遂疊破石處關敵壘並攻復呈貢等處 八年,春三月,雲南澂江回復叛襲據府城澂江回衆上年案已投誠至是復勾結嵩尋諸回首馬周等由楊林統越山路襲據府城。 夏五月,劉嶽昭收復尋甸嶽昭自上年冬攻尋失利至是經總兵全祖凱攻克要險各隘回目馬添順李芳沅等先後投誠遂收復尋甸岑毓英肅淸省東回壘攻克楊林團山等處省東諸回𥂟踞於十里鋪等處毓英遣部將李維逑等分路進攻先將蕭家山敵栅焚燒敵向省北馬村一帶狂奔自十里鋪小徧橋至長坡六十餘里堅壘一律掃蕩其楊林團山等處踞回復爲毓英弟道員岑毓寳等剿破楊林富民全境肅淸。 六月,岑毓英克嵩明州及龍陵廳白鹽井等處。 秋七月,岑毓英連破附省李家地老鴉營等處回壘。 八月,岑毓英攻克易門縣城及黑琅等處鹽井回巢雲南附省回衆恃各處鹽井以資軍用毓英令李維述田仲興岑毓寶等分路進剿次第收復易門縣城及黑琅等處鹽井並攻破海口八街等處回巢。 冬十月,岑毓英攻克楚雄等城毓英遣將分攻楚雄南安定遠三城皆下之。 十一月,岑毓英收復昆陽州城先是馬如龍督軍進攻昆明未下毓英復遣總兵張保和至設重圍以困之城內守將楊振鵬夜開城遁保和設伏擒之並弋獲馬聯魁馬生龍等。 十二月,岑毓英肅清附省土堆回壘並攻克祿豐縣城是役回首馬得良劉和等皆被獲。 九年,春二月,岑毓英等攻克麗江等城及馬街等處回巢先是毓英與總督劉嶽昭提督馬如龍分軍三路至是中路克復彌渡賓川及紅厓馬街各回壘北路收復麗江劍川南路攻克緬寧廳城夏。 五月,岑毓英等克復威遠廳城南路肅淸威遠爲普洱府屬久爲回首馬標佔據屢攻未下毓英令諸軍會同土練分路進攻力戰年餘始將廳城克復並破四壘厓一带回巢南路肅淸岑毓英攻克姚州城毓英督將李維述楊玉科等攻拔姚州堅城及澂江竹園之龍潭校塲蘿蔔村西山村一帶營碉數十其竹園城回亦爲張保和等攻破營碉二百餘東西兩山苗寨望風歸附竹園下壩地方肅淸。 八月,岑毓英等收復新興州城是役提督馬如龍督軍連破王枕山灰寨及附城諸壘遂將州城克復。 冬十月,岑毓英等攻克永北等廳州城毓英遣將李維述等分攻永北鶴慶鎮南三城克之。 十一月,岑毓英等攻克鄧川浪穹兩城並先後攻拔鳳羽白米莊長邑村鍊鐡橋各回巢是役提督楊玉科督兵進偪旣克浪穹乘勝攻鄧川立下復親搏鳳羽白米莊長邑村鍊鐡橋後各回巢裹創力戰皆拔之大理北路一律肅淸。 十二月,岑毓英等攻克竹園回巢彌勒縣屬之竹園敵人久據不下毓英遣張保和攻之連破上壩下壩各巢擊退館驛等處援兵立拔竹園老巢毓英復親將攻克激江附近敵營數十 十年,春二月,岑毓英攻克澂江府城並收復開化府屬之江那土城毓英自將圍澂江一年至是克之並拔江那等處。 夏四月,岑毓英等攻克賓居回巢收復雲龍州城並拔茂克各巢楊玉科等攻拔賓川州屬之賓居各堅巢雲龍州回目趙炳南遂以州城降。 冬十一月,岑毓英等收復臨安府屬之舘驛婆兮田心曰者鄉各回壘是役毓英督將何秀林張保和等分道圍攻次第克之迤東迤南肅清 十一年,夏四月,岑毓英等攻克永平雲南縣城二邑密邇大理迤西回衆恃爲犄角毓英遣楊玉科李維述等攻克永昌府城後分道進攻先從克之並拔曲洞漾濞各敵巢 劉嶽昭遣將吳奇忠等越境攻克貴州興義府城先是回衆佔據興義及新城久爲滇黔兩省邊患嶽昭遣奇忠等會黔軍攻之遂將興義府城克復 五月岑毓英等攻克趙州蒙化廳城並大理之上下兩關毓英遣楊玉科攻趙州李维述攻蒙化廳皆克之自是長驅大理沿途擊退敵援直薄大理城下。 冬十月,貴州提督周達武等攻克新城縣城黔省上游肅清。 十二月,岑毓英等克大理杜文秀自殺全郡肅淸大理東臨洱海西倚蒼山自文秀佔據十有八載攻陷五十三城西及四川東及貴州築禁城城中外護以土垣城堅且厚提督楊玉科等軍自十一月初甸抵城下穴地道轟陷東南外城率軍士乘缺口衝入敵據土城猶死拒復以地雷破之更增調五千人環攻其禁城文秀勢蹙以子女分寄其大司衡楊榮大經略蔡廷楝家而與妻妾飲毒自盡廷棟舁屍以獻氣息猶屬玉科卽拔佩刀割其首馳送省城時毓英亦至部署撫事城中陽稱乞欵而陰設地雷於行館毓英令三日內繳軍械以半年爲期毓英悟其詐亦陽許之而密令玉科選死士二百率同知太和縣譚席珍入城受降嚴布重兵城外定期夾擊坑敵萬餘三城並克獲文秀子女社宗揚賽揚成揚等及其大蒙宰馬仲山並榮廷楝等皆磔之大理肅淸。 十二年,春二月,岑毓英等攻克順寧府城並鍚臘等處回巢大理旣復楊玉科等乘勝進偪順寧未至城內敵兵先出分撲大小中山各營會提督叚瑞梅師至塵戰十日連破敵營碉樓三十二玉科繞攻錫臘以牽制之旣克錫臘瑞梅復將橋頭山等處敵營木壘碉樓八十餘剗削無遺並攻拔鳳山虎山直偪城下圍之玉科至與瑞梅等分攻各門節節掃蕩是月二十五日遂將順寧府城收復。 夏四月,岑毓英等攻克雲州城楊玉科旣攻克順寧進圍雲州與總兵蔡標力戰月餘至是克之。 五月,岑毓英等攻克騰越廳城雲南全省肅淸自雲州克復毓英督諸將進攻騰越提督和耀曾攻克小猛統及烏士寨馬家村各堅巢後會合總兵李維述提督叚瑞梅蔣宗漢徐聯魁等軍環攻騰越克之滇回自咸豐五年倡變大理厯時十有九年至是始克底定後雖小有反覆不復能爲大害矣。
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