清史紀事本末鉄道の敷設(興辦鉄路)

要約

光緒二年秋九月、イギリス人が上海から呉淞に築いた鉄道を李鴻章が磋商し二十八万五千両で買い切った。実用に適さぬと軌条は壊され、汽車は打狗湖に投げ込まれた。

六年冬十一月、劉銘伝が鉄道は漕務・商務・鉱務に利し用兵にはとりわけ急で、十八省が一体となり兵権も餉権も朝廷に帰するとして清江から京までを請い、李鴻章・劉坤一も賛成したが、張家驤・劉錫鴻が阻止を奏して行われなかった。

十年冬十一月、徐致祥が鉄道をやめ河工を修めよと奏請し、誹謗を咎められて三級を降された。三年に開平煤礦局が唐山から胥各荘に築き六年に大沽まで延ばしたのを、利権を外国人に授けると騒がれたのである。

十三年春二月、海軍衙門は夏秋の泥濘で砲車が進まず開平の石炭は水師の命脈だとして、大沽から天津に至る鉄道を奏請し許された。

十五年春正月、各省の将軍・督撫に鉄道の興辦を議させた。天津・通州接続に御史らが三害を挙げたのを奕譞・世鐸らが弁駁した。秋八月、張之洞の案で蘆溝橋から漢口に至る路を定め両端から着工した。のちこの路はベルギーが管理したが実は露仏の資本。

二十二年夏四月、フランス人に龍州鉄道を許した。外国人が自ら敷設するのはこれに始まる。秋八月、許景澄が華俄道勝銀行と東三省鉄路公司の契約十二条を訂立し、九月、鉄路総公司を設けて盛宣懐を督辦とした。日清戦争ののち政府は南北の鉄道を謀り、天津・唐山、唐山・山海関の路が成った。宣懐は之洞の鉄廠の空費を繕い鉄道の才と保薦され、時論は六百万金の奏摺と言った。

二十四年、膠澳租借でドイツ人に青済鉄道を、ロシア人に東青鉄道を許して沿線の護兵も認め、鉄路鉱務総局を京師に設け、イギリス人に蘇杭甬鉄道を許し、胡燏棻に津鎮の路を督辦させた。十一月、総理衙門は蘆漢・粤漢などを宣懐に、津鎮と山海関の内外を燏棻に請け負わせ、他の支線は許さぬとした。

二十五年春二月、イギリス人に広州から九竜に至る九広鉄道を許し、百五十万ポンドを借りて路を抵当とした。冬十月、フランスの求めで赤安鉄道を認めた。

二十七年秋九月、王文韶・瞿鴻禨に内外京楡鉄道を督辦させた。イギリスの出資と管理に帰し、これで露仏を制した。冬十二月、関内外鉄道は袁世凱が接収し、二十八年には津鎮鉄道も督辦した。宣懐は正太鉄道の借款に調印したが実はフランスの資本。

二十九年夏四月、フランス人に滇越鉄道を許すと人民は阻んで蜂起した。五月、滬寧鉄道のイギリス借款契約を許し、秋七月、路鉱総局を商部に併せた。三十年夏六月、張之洞に粤漢鉄道を督辦させた。アメリカの会社が請け負ったのに露仏が株券の過半を買収したので、湖南の官紳は条約違反として廃約・買い戻しを唱え、学生も争い、政府は之洞に処理させた。

三十一年冬十二月、商部に全国の路鉱産表を編纂させた。三十三年秋九月、外務部にイギリス人と蘇杭甬借款鉄道の章程を商訂させ、冬十二月、呂海寰を督辦津浦鉄道大臣とした。三十四年春三月、滬杭甬鉄道の契約二十四条の調印を許した。江蘇・浙江の紳商の自辦が進むのに公使ジョルダンが借款を強いたので、鄔剛は血を噴いて死に湯緒も絶食し、人心は憤って巨款を集め、政府は輿論に押され自辦を許した。秋九月、郵伝部が滙豊銀行から五百万を借り、冬十月、京漢鉄道を買い戻した。

年表

清末における鉄道の創始と、その利権が列強に分割されていく過程を、光緒二年(1876年)から三十四年(1908年)までにわたって述べる。イギリス人が築いた上海・呉淞間の鉄道は買い戻されて撤去され、劉銘伝の鉄道建設の議は張家驤・劉錫鴻らの反対で挫折し、徐致祥も鉄道停止を奏して処分された。やがて海軍衙門が大沽・天津間の建造を奏請し、張之洞の創議で蘆溝橋から漢口に至る幹線が定まる。日清戦争後は盛宣懐を督辦とする鉄路総公司が置かれる一方、フランスの龍州・赤安・滇越、ドイツの青済、ロシアの東青、イギリスの九広・蘇杭甬などの敷設権が次々に与えられ、粤漢や滬杭甬では紳商・学生の反対運動が起こり、光緒三十四年に京漢鉄道が買い戻された。

年表(15件)

現代語訳全文

西暦1876年 徳宗光緒二年

  • 秋九月、イギリス人が築いた上海から呉淞に達する鉄道を買い戻した。
  • はじめ、同治五年、イギリス商人の請いに従って、上海・江湾の間に鉄道を築いた。線路の長さは十里であった。この年、呉淞まで延ばし、十四英里を加えた。路が完成すると住民は大いに動揺し、両江総督の沈葆楨に請求し、イギリス領事に照会して阻止させたが、承知されなかった。都署(「都署」は「總署」=総理衙門の誤りか)からも駐京イギリス公使ウェード(威妥瑪)と商議したが、やはり承知されなかった。のちにウェード公使が天津で用務のあったとき、直隷総督の李鴻章に詔して再三磋商させ、二十八万五千両で買い切り、存続させるか廃止するかは中国の随意に任せることとした。ほどなく実用に適さないとして、その軌条を壊し、汽車を台湾の打狗湖の中に投げ込んだ。

西暦1880年 徳宗光緒六年

  • 冬十一月、前直隷提督の劉銘伝が鉄道の試行を奏請したが、実行されなかった。
  • 銘伝は前年に病気休暇で郷里に帰っていたが、この年七月、ロシア人が伊犁を返還する『伊犁条約』の交渉が途中で変じ、ロシア人が兵を派して遼海を封鎖するという説があったため、銘伝に病を押して入覲するよう詔した。
  • 銘伝は京に至り、鉄道の開設・建造を条陳して言った。「時局は日ごとに困難であり、中国は速やかに鉄道を開かなければ、とうてい自強することはできません。そもそも鉄道が漕務・賑務・商務・鉱務、ならびに釐捐や旅客の通行に利するところは、述べ尽くせないほどです。そして用兵の一事においては、とりわけ急を要して緩めることのできない計画です。鉄道が造り上がれば、呼吸は通じ、声勢は連絡し、兵を裁いて餉を節し、あわせて精鋭の部隊とすることができます。銃砲・軍火を転運すれば、朝に発して夕べには至り、十八省が一体となり、一兵で数兵の用に当たります。将来は兵権も餉権もことごとく朝廷にあり、地方の大臣に牽制されません。まず清江から京に至る一帯から興すことをお願いします。」
  • 疏が入ると、北洋大臣の李鴻章、南洋大臣の劉坤一に議奏するよう詔した。ほどなく覆奏し、いずれも銘伝の議のとおりに行うことを請うた。そこで京中の議論は紛々とし、大敵が来ようとしているかのようであった。当時、清議を主持すると自任していた者、たとえば侍講の張佩綸、庶子の張之洞は、心中ではその有益であることを知りながら、あえて公然と賛成を唱えなかった。そして都察院左副都御史の張家驤、通政司参議の劉錫鴻が次々に起って阻止を奏し、その議はついに取りやめとなった。

西暦1884年 徳宗光緒十年

  • 冬十一月、内閣学士の徐致祥が、鉄道の開設をやめて急ぎ河工を修めることを奏請した。詔して、その口任せの誹謗を咎め、部に交して議処させた。
  • これより先、三年に、開平煤礦局が河道による石炭輸送が困難であったため(「艱陰」は「艱阻」の誤りか)、唐山から胥各荘に至る鉄道を築いた。六年に至って(「泊」は「洎」の誤りか)、また駐米公使の伍廷芳の請いを許し、引き続き建造して、炭鉱から直接大沽に達するようにし、イギリス人に監造させた。李鴻章は実際にその議に賛成した。そこで言論はまた騒がしくなり、鉄道の利権を外国人に授けるものだと言い、当事者たちを漢奸とそしった。致祥の疏の争う言葉はとりわけ激しく、旨はその妄を斥け、ほどなく部議によって三級を降して調用とした。

西暦1887年 徳宗光緒十三年

  • 春二月、総理海軍事務衙門が、大沽から天津に至る鉄道の建造を奏請し、これを許した。
  • 疏の中でおおよそ言う。「山海関から洋河口一帯までは、沿岸百数十里、水は深く波は広い(「浪潤」は「浪闊」の誤りか)。大沽口は山海関から約五百余里を隔て、夏秋には海浜の泥濘に阻まれ、砲車は一日に二、三十里しか進めず、しかも陸路の通じない所もある。にわかに警報があっても、遅くて急に間に合わない。しかも南北の防営はあまりに少なく、やはり手薄の嫌いがある。もし鉄道が相通じていれば、警報に遭っても朝に発して夕べには至る。また北洋の兵船が用いる石炭は、まったく開平の鉱産に頼っており、とりわけ水師の命脈の繫がるところである。大沽から天津までの百余里の路を、次第に建造し、軍旅と商賈の両方に益するようにしたい。」疏が入り、旨を得て許可・施行された。

西暦1889年 徳宗光緒十五年

  • 春正月、各省の将軍・総督・巡撫に鉄道の興辦を議するよう命じた。これより先、総理海軍衙門が天津から通州に至る鉄道の接続工事を奏請したが、御史の余聯沅・屠守仁・洪良品らが前後して阻止を奏し、鉄道の害には三つあるとして、敵に資すること、民を騒がすこと、民の生計を奪うことを挙げ、ただちに停止するよう請うた。いずれも海軍衙門に軍機処と会同して妥当に議するよう諭令した。醇親王奕譞・礼親王世鐸らが覆奏し、逐条これを弁駁し、なお沿江・沿海の各将軍・総督・巡撫に交して、それぞれ意見を述べさせ、速やかに覆奏させるよう請うた。これを許した。
  • 秋八月、蘆溝橋から漢口に至る鉄道の興辦を定めた。これより先、各省の将軍・総督・巡撫が鉄道の件を覆奏したが、多くは偏った成見や、時事に通じない言であった。ただ台湾巡撫の劉銘伝は津沽から京師まで開くことを望み、江蘇巡撫の黄彭年はまず辺防と漕運の路を行うことを望み、湖広総督の張之洞は蘆溝橋から起こして河南を径行し、湖北の漢口鎮に達する案を創議し、とりわけ詳尽であった。海軍衙門に詳議を命じ、ここに至って議定し、まず両端から試みに着工することとし、南は漢口から信陽州まで、北は蘆溝橋から正定府までとし、李鴻章・張之洞を派して海軍衙門と会同し、開設を妥当に籌らせた。のちにこの路はフランス・ベルギー両国の出資により、ベルギー国が管理したが、実際はみなロシア・フランスの資本であった。

西暦1896年 徳宗光緒二十二年

  • 夏四月、フランス人が龍州鉄道を築くことを許した。外国人が自ら鉄道を敷設することは、これから始まった。海口から龍州に至ったのち、さらに南寧府および北海まで広げた。
  • 秋八月、駐露公使の許景澄が華俄道勝銀行と東三省鉄路公司を訂立し、契約十二条を結んだ。
  • 九月、鉄路総公司を設立し、四品京卿の盛宣懐を督辦とした。はじめ、光緒二十年以前は、国人は鉄道の利を知らず、それを唱える者があっても大いに反対が起こった。日清戦争ののち、みな北方の省の兵が敗れたのは南方の省が速やかに援助できなかったためだとし、政府は軍事上の失利によって、はじめて南北の鉄道を順次修築することを謀った。前年に天津・唐山の路が成り、この年に唐山・山海関の路が成った。のちに京城・天津間、京城・漢口間の諸路を築くことが議された。
  • 宣懐はそのとき津海関道に任じていたが、事によって罪を得て解任され、南洋・北洋に交して査辦させられた。朝旨は厳しく、咎は予測しがたく、宣懐は北洋大臣の王文韶にとりなしを乞い、許された。さらに南洋大臣の張之洞に援助を乞うた。之洞は湖広総督のとき鉄廠を営み、六百万を空費しながら成果がなく、部の責めは甚だ急であった。宣懐は資を出してこれを取り繕った。之洞は喜び、覆奏して宣懐のために前の一件を洗い清め、あわせて宣懐を鉄道の才として保薦した。時論はこれを六百万金の奏摺と言った。ここに至って、ついに盛宣懐を四品京堂侯補(「侯補」は「候補」の誤りか)として督辦鉄路総公司大臣に授けるという命があった。
  • 冬十二月、吏部右侍郎の許景澄を派して、黒竜江・吉林の境界の鉄道公司の事宜を総辦させた。

西暦1898年 徳宗光緒二十四年

  • 春二月、ドイツ人が青済鉄道を築くことを許した。このとき山東の曹州教案の和約が成立したため、ドイツ人は膠澳を租借し、あわせて青鳥(「青島」の誤りか)から済南、青州から沂州に至る鉄道の建設権を得て、その経営に帰した。
  • 三月、ロシア人が東青鉄道を築くことを許した。シベリアからハルビンを経てウラジオストクに至り、さらにハルビンから長春に至る。およそ鉄道の通る所は、ロシア国が兵を派して保護することを許した。政府はすでに青済鉄道をドイツに許していたので、ロシア人のこの請いも許し、ことごとくその経営に帰した。
  • 夏六月、鉄路鉱務総局を京師に設けるよう命じ、戸部尚書の王文韶、侍郎の張蔭桓を派して管理させた。
  • 秋九月、イギリス人が蘇杭甬鉄道を請け負って修めることを許した。この路は蘇州から杭州を経て寧波に至る。
  • 冬十月、侍郎の胡燏棻を派して天津から鎮江に至る鉄道を督辦させ、四品京堂の張翼をその副とした。のちにこの路は□(底本欠字)、イギリス・フランスの款によって営まれた。
  • 十一月、総理各国事務衙門が鉄道の緩急の順序を分別して奏した。蘆漢・粤漢の要幹線、および寧滬・蘇浙・浦信・広九などの幹線に近い要支線は、いずれも総公司の盛宣懐に請け負わせ、津鎮および山海関の内外は胡燏棻に責任を持たせて処理させる。太原から柳林までは山西商務局が請け負い、広西から龍州までは提督の蘇元春が請け負う。このほか、すでに各国と成議のあるもの、および幹線に近い要路で、距離が百里を過ぎず、款が百万を出ないものは、停辦の例には当たらない。そのほか、およそ中国・外国の各商人が請け負いを願い出る各支線は、この時はいっさい許可しない、というものであった。これを許した。

西暦1899年 徳宗光緒二十五年

  • 春二月、イギリス人が九広鉄道を請け負って修めることを許した。広州の省城からイギリス租借地の九竜の境界までで、イギリス人の経営に帰し、あわせてイギリス金貨百五十万ポンドを借り、額面の九四掛けで受け取り、年息五厘を納め、この路を抵当とし、二十年を期限満了とした。
  • 冬十月、フランス人が赤安鉄道を築くことを許した。フランス人は遼東返還の報酬としてロシア・ドイツの得たものが多いことを口実に、鉄道敷設権の増与を要求した。ここに至って蘇元春に命じてこれと『広州湾租界約章』を訂立させ、その第七款でフランス国が雷州半島を横断して赤安鉄道を築くことを認め、赤坎から安鋪港に至らせ、広州湾と東京湾との軍事上の連絡の便を図った。

西暦1901年 徳宗光緒二十七年

  • 秋九月、大学士の王文韶、外務部尚書の瞿鴻禨に内外京楡鉄道を督辦するよう命じ、なお張翼をその副とした。この路は天津から山海関・営口へ越えて至り、イギリス国の出資と管理に帰した。イギリス人はこれによってロシア・フランスを制したのである。
  • 冬十二月、王文韶を派して督辦路鉱大臣に充て、瞿鴻禨・張翼をその副とした。関内外鉄道は、署直隷総督の袁世凱に改めて派して接収・督辦させた。

西暦1902年 徳宗光緒二十八年

  • 春正月、張翼を派して路鉱の事宜を総辦させた。
  • 秋七月、袁世凱に津鎮鉄道の督辦を命じた。これより先、許景澄・張翼を派して、ドイツの徳華銀行、イギリスの滙豊銀行と借款契約を訂立させていたが、ここに至って路線の勘測が終わったので、改めて世凱を派して詳細契約を議させた。
  • 九月、盛宣懐が華俄銀行と正太鉄道の借款契約に調印した。この路は正定から太原までで、ロシア国の経営に帰したが、実際はフランスの資本であった。

西暦1903年 徳宗光緒二十九年

  • 夏四月、フランス人が滇越鉄道を築くことを許した。老開から直接に雲南の箇旧の地に達するものである。人民が起ってこれを阻み、ついに竿を掲げて蜂起した。
  • 五月、外務部が、張之洞・盛宣懐らの定めた滬寧鉄道のイギリス借款の詳細契約を奏し、議したとおりに処理することの許可を請い、これを許した。この路は上海から蘇州・南京に至る。
  • 秋七月、路鉱総局を裁撤し、商部に併合した。

西暦1904年 徳宗光緒三十年

  • 夏六月、張之洞に粤漢鉄道の督辦を命じた。漢口から広東に至るものである。
  • はじめ蘆漢鉄道の局面が定まると、南幹線の地域が議され始めた。盛宣懐はもともと江西を経由して広東に達し、萍郷の石炭の転運に便ならしめようとした。当時、陳宝箴が湖南を巡撫し、湖南・広東を通す議を主持し、京郷(「京卿」の誤りか)の黄遵憲を才ありとし、また遵憲は広東籍で、平素から南洋および米州の諸富商に敬服されているので、彼に路の事を任せれば資本が集めやすいとした。之洞は強く不可を主張し、これを宣懐に属させた。
  • その始めはアメリカの会社が出資して請け負い造ったが、ロシア・フランス両国がベルギー人を使ってニューヨークで株券の過半を買収した。湖南の官紳は大いに騒ぎ、アメリカ会社は二十七年六月の条約中のいわゆる「権利を他国に譲ることを許さず」の一条に違反したと言い、そこで条約廃棄・路線買い戻しの議を起こした。会社は種々の難問題を提出して抵抗し、宣懐はまたこれを助けて国人を困らせた。そこで人情はますます大いに憤り、留米・留日の学生が各当局に電報を送って争った。政府は条約廃棄が厄介であることを知り、之洞に処理させることを奏した。

西暦1905年 徳宗光緒三十一年

  • 冬十二月、商部に全国の路鉱産表を編纂するよう命じた。

西暦1907年 徳宗光緒三十三年

  • 秋九月、外務部に、人員を派してイギリス人と蘇杭甬借款鉄道の章程を商訂させるよう命じた。
  • 冬十二月、外務部尚書の呂海寰を派して督辦津浦鉄道大臣に充てた。この路は津鎮路の改名で、天津から浦口に至る。

西暦1908年 徳宗光緒三十四年

  • 春三月、外務部・郵伝部が、イギリスの会社と滬杭甬鉄道の契約二十四条を議定して調印することを奏請し、これを許した。
  • この路は、イギリス人が引き延ばして測量しなかったので、盛宣懐は滬寧契約の調印のときに、これを廃棄とすべきだと責めた。三十一年に至り、江蘇・浙江の紳商が前後して自辦に帰すことを請い、これを許した。三十三年八月、浙江の路線の江干から湖墅までの一段はすでに軌が通じ、江蘇の路線の上海から松江までの一段も竣工しようとしていたが、イギリス公使ジョルダン(朱爾典)が突然正式契約の締結を促し、百五十万ポンドの借款を強いた。そこで政府は江蘇・浙江の総督・巡撫に、何の款を抵当に指定するかを問うた。士民は大いに驚いた。浙江路線の業務にあたっていた学生の鄔剛は血を噴いて死に、副技師の湯緒もまた絶食して死に、人心はいよいよ憤って大いに反対が起こり、自ら巨額の款を集め、死んでも借款を認めないことを議定した。ここに至って政府は輿論に押され、はじめて江蘇・浙江両省の自辦に改めることを許し、イギリスの款は部が借りて部が返すこととした。
  • 秋九月、郵伝部が、滙豊銀行からイギリス金五百万を借り、京漢鉄道の買い戻しの用途に充てることを奏した。調印を命じた。
  • 冬十月、京漢鉄道を買い戻した。
原文(底本)
德宗光緒二年,秋九月,收還英人所築上海達吳淞鐵路。初,同治五年,狥英商之請,築鐵路於上海江灣間,線長十里。是年展至吳淞,加長十四英里。路成,居民大震,請求江督沈葆楨,照會英領事阻止,不允。由都署商之駐京英使威妥瑪,亦不允。後威使有事於天津,詔直督李鴻章,與磋商再四,乃以二十八萬五千兩買斷,行止聽中國自便。尋以不適用,毀其軌,以汽車投之於臺灣打狗湖中。

六年,冬十一月,前直隸提督劉銘傳奏請試辦鐵路,不果行。銘傳於上年病假回籍,是年七月,因俄人歸還《伊犁條約》中變,俄人有派兵封閉遼海之說,詔銘傳力疾入覲。銘傳至京,條陳開造鐵路,言“時局日艱,中國非速開鐵路,萬不能自強,蓋鐵路之利於漕務、賑務、商務、礦務,以及釐捐行旅者,不可殫述。而於用兵一道,尤爲急不可緩之圖。鐵路造成,呼吸靈通,聲勢聯絡,裁兵節餉,併成勁旅。轉運槍礮軍火,朝發夕至,十八省合爲一氣,一兵可抵數兵之用。將來兵權、餉權,盡在朝廷,不爲疆臣所牽制。請先由清江至京一帶興辦。”疏入,詔北洋大臣李鴻章、南洋大臣劉坤一議奏。尋覆奏,均請如銘傳議行,於是京中議論紛紛,若大敵之將至者。一時以主持清議自命者,如侍講張佩綸、庶子張之洞。雖心知其有益,而未敢昌言贊成。而都察院左副都御史張家驤、通政司參議劉錫鴻,紛起奏阻,其議遂罷。

十年,冬十一月,內閣學士徐致祥奏請罷開鐵路,急修河工。詔以其信口詆訐,交部議處。先是三年,開平煤礦局因河道運煤艱陰,築由唐山至胥各莊鐵路。泊六年,復允駐美使臣伍廷芳之請,繼續興造,由煤礦直達大沽,以英人監造之。李鴻章實贊成其議,於是言論復譁,謂以鐵路利權授之外人,詆當事諸人爲漢奸,致祥疏爭語尤激,旨斥其妄,旋部議降三級調用。

十三年,春二月,總理海軍事務衙門奏請,興造大沽至天津鐵路,允之。疏中略謂:「由山海關至洋河口一帶,沿岸百數十里,水深浪潤。大沽口距山海關約五百餘里,夏秋海濱泥淖所阻,礮車日行不過二三十里,且有旱道不通之處。猝然有警,緩不濟急。且南北防營太少,究嫌空虛,如有鐵路相通,遇警則朝發夕至。又北洋兵船用煤,全恃開平礦產,尤爲水師命脈所繫,請由大沽至天津百餘里之路,逐漸興造,於軍旅商賈兩有裨益。」疏入,得旨允行

十五年,春正月,命各省將軍督撫議興辦鐵路。先是,總理海軍衙門奏請接修天津至通州鐵路,御史余聯沅、屠守仁、洪良品等,先後奏阻,言鐵路之害有三:曰資敵、曰擾民、曰奪民生計,請即停辦。均諭令海軍衙門會同軍機處妥議。醇親王奕譞、禮王世鐸等覆奏,逐條辯駁,仍請交沿江沿海各將軍督撫,各抒意見,迅速覆奏。允之。 秋八月,定興辦蘆溝橋至漢口鐵路。先是各省將軍督撫覆奏鐵路事,多偏執成見,及不達時事之言,惟臺灣巡撫劉銘傳欲由津沽開至京師,蘇撫黃彭年欲先辦邊防漕路,而鄂督張之洞創議自蘆溝橋起,徑行河南,達於湖北之漢口鎮,尤爲詳盡。命海軍衙門詳議,至是議定,先從兩頭試辦,南由漢口至信陽州,北由蘆溝橋至正定府,派李鴻章、張之洞會同海軍衙門妥籌開辦,後是路由法、比兩國出資,比國管理,實則皆俄、法資本也。

二十二年,夏四月,允法人築龍州鐵路,許外人自辦鐵路自此始。自海口至龍州而後,又推廣至南寧府及北海。 秋八月,駐俄使臣許景澄與華俄道勝銀行訂立東三省鐵路公司,合同十二條。 九月,設立鐵路總公司,以四品京卿盛宣懷爲督辦。初,光緒二十年以前,國人不知有鐵路之利,故有言之者,亦大起反對。自中日戰後,羣以北省兵敗,由於南省之不能迅速援濟,政府因軍事上之失利,乃始謀次第修築南北鐵路。上年,天津、唐山之路成;是年,唐山、山海關之路成。後議築京城、天津間,京城、漢口間諸路。宣懷時任津海關道,以事得罪,著解任,交南北洋查辦。朝旨嚴厲,咎且不測,宣懷乞緩頰於北洋大臣王文韶,許之,復乞援於南洋大臣張之洞,之洞任鄂督時辦鐵廠,縻費六百萬,而無成效,部責甚急,宣懷爲出資彌縫之。之洞喜,覆疏爲宣懷洗刷前案,並保薦宣懷路才。時論謂之六百萬金之奏摺,至是,遂有盛宣懷以四品京堂侯補,授爲督辦鐵路總公司大臣之命。 冬十二月,派吏部右侍郎許景澄總辦黑龍江、吉林交界鐵路公司事宜。

二十四年,春二月,允德人築青濟鐵路。時因山東曹州教案和約成,德人租膠澳,並得青鳥至濟南、青州至沂州之鐵路建設權,歸其經營。 三月,允俄人築東青鐵路。由西伯里亞經哈爾濱至海參崴,復由哈爾濱至長春。凡鐵路所經,許俄國派兵保護。政府既以青濟鐵路許德,故亦允俄人是請,悉歸其經營。 夏六月,命設鐵路礦務總局於京師,派戶部尚書王文韶、侍郎張蔭桓管理。 秋九月,允英人承修蘇杭甬鐵路,是路由蘇州經杭至寧波。 冬十月,派侍郎胡燏棻督辦天津至鎮江鐵路,以四品京堂張翼副之,後是路𪜵英法欵營辦。 十一月,總理各國事務衙門奏分別鐵路緩急次第。蘆漢、粵漢要幹,及寧滬、蘇浙、浦信、廣九等近幹要枝,均由總公司盛宣懷承辦,津鎮及山海關內外,責成胡燏棻辦理。太原至柳林,由山西商務局承辦;廣西至龍州,由提督蘇元春承辦。此外已與各國定有成議:及近幹要路,地不過百里,欵不出百萬,不在停辦之例外。凡華、洋各商請辦各枝路,此時概不准行允之。

二十五年,春二月,允英人承修九廣鐵路。由廣州省城至英租地九龍邊界歸英人經營,並借英金百五十萬鎊,照虛數九四折,納年息五釐以本路作抵押,二十年爲期滿。 冬十月,允法人築赤安鐵路。法人藉口還遼報酬,俄德所得較多,要求請益鐵路敷設權。至是命蘇元春與之訂《廣州灣租界約章》,其第七款准法國横截雷州半島,興築赤安鐵路,自赤坎至安鋪港,以圖廣州灣與東京灣軍事上聯絡之利便。

二十七年,秋九月,命大學士王文韶、外務部尙書瞿鴻禨督辦內外京榆鐵路,仍以張翼副之。是路由天津越至山海關營口,歸英國出資及管理。英人以此制俄法也。 冬十二月,派王文韶充督辦路礦大臣,瞿鴻禨、張翼副之。關內外鐵路改派署直督袁世凱接收督辦。

二十八年,春正月,派張翼總辦路礦事宜。 秋七月,命袁世凱督辦津鎮鐵路。先是派許景澄、張翼與德國德華銀行、英國滙豐銀行訂立借欵合同,至是因勘路事竣,改派世凱與議詳細合同。 九月,盛宣懷與華俄銀行訂立正太鐵路借欵合同簽押。是路自正定至太原歸俄國經營,實則法國資本也。

二十九年,夏四月,允法人築滇越鐵路,由老開直達雲南箇舊地方。人民起而阻之,致揭竿起事。 五月,外務部奏張之洞、盛宣懷等所定滬寧鐵路籌借英欵訂立詳細合同,請准如所議辦理,允之。是路由上海至蘇州、南京。 秋七月,裁撤路礦總局,歸倂商部。

三十年,夏六月,命張之洞督辦粵漢鐵路,由漢口至廣東。初蘆漢鐵路既定局,始議南幹線之地域。盛宣懷本欲取道江西以達廣東,便萍鄉煤之轉運,時陳寶箴撫湘,主持湘粵之議,以京鄉黃遵憲才,又粵籍素爲南洋及美洲諸富商所敬服,以之任路事則資本易集。之洞力持不可,以屬宣懷,其始由美公司出資承造,俄法兩國使比人在鈕約買收股票過半。湖南官紳大譁,謂美公司違反二十七年六月條約中所謂權利不許讓與他國之一條,乃爲廢約贖路之議。公司提出種種之難問題以相抵抗,宣懷復助之以難國人,於是人情益大憤,留美留日學生致電各當道以爭,政府知廢約棘手,奏以之洞辦理。

三十一年,冬十二月,飭商部編纂全國路礦產表。

三十三年,秋九月,命外務部派員與英人商訂蘇杭甬借欵鐵路章程。 冬十二月,派外務部尙書吕海寰充督辦津浦鐵路大臣。是路卽津鎮路改名,由天津至浦口。

三十四年,春三月,外務部郵傳部奏請與英國公司議訂滬杭甬鐵路合同二十四條簽押,允之。是路英人延不測勘,盛宣懷於滬寧合同簽押時,責其應作廢棄。至三十一年,蘇浙紳商先後請歸自辦,准之。三十三年八月,浙路之江干至湖墅一段既通軌,蘇路之上海至松江一段亦將竣工,而英使朱爾典忽催訂正約,勒借百五十萬鎊,政府因詢蘇浙督撫,將指何欵作抵?士民大駭,浙路業務學生鄔剛至以噴血死,副工程師湯緒亦絕食死,人心愈憤,大起反對,議定自集鉅欵,死不認借。至是政府狃於輿論,始准改爲由江浙兩省自辦,英欵由部借部還。 秋九月,郵傳部奏借滙豐銀行英金五百萬,爲贖京漢鐵路之用。命畫押。 冬十月,收還京漢鐵路。

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