清史紀事本末アヘン厳禁の諭旨(諭禁鴉片之厳厲)
要約
光緒二年秋八月、罌粟の栽培を厳禁する条例を定めた。阿片煙の禁令は雍正年間に始まるが当初は薬品用のみで、イギリス商人が内地に売って洋薬と称した。道光の初めに風習が盛んになり、インドから雲南に伝わって南土が興り、四川の川土、甘粛の西土ができ、貴州・陝西・山西に及んだ。この一、二十年来、田を廃して罌粟を植え、西洋からの輸送も年ごと増え、人は生業を失い廃疾者同然となった。西洋の人士が公館を設けて禁止を勧め、中国人も恥じて言路の上疏が相次いだゆえの挙だが、章程ばかりで実事は無く笑われた。
三年春二月、駐英公使郭嵩燾が阿片を厳禁する方法を請うたが、回答は無かった。ロンドンで貴族シャフツベリーら五十余人が禁煙を勧めに来、議員アシュバリーの写真で中国人の吸食する有様が笑われ、嵩燾は恥じた。上疏にいう、阿片はインドに産するが暹羅も日本も厳禁するのに中国だけが流通させ、毎年の課税は数千万に達しイギリス人の収入の一大項目である。三年の期限を示して督撫に責め、断つ薬を配らせ、期限を過ぎて断てぬ官吏は弾劾罷免、生員・挙人は資格剥奪、吸食する士子は受験を停め、栽培は二十年の期限で改めさせよ、と。
三月、再度上疏し、阿片の害は五、六十年に及んで溺れる者は十のうち四、五、道光十九年の厳禁は海疆の禍を激成しながら吸食はいよいよ多く、咸豊九年に条例の禁も解かれたと論じ、人民に自ら禁制を行わせ廉恥と天良を奮い起こさせれば積年の弊は除かれるとし処理の方法六箇条を陳べ、各将軍・督撫に下して議奏させた。
四年春二月、工部右侍郎閻敬銘と山西巡撫曾国荃が罌粟栽培の旧禁の明示を奏して許された。敬銘は秦晋の工振を督弁し、晋省が痩せた土地に罌粟を植え、凶作に遭えば餓死する有様を見た。族長・甲長に責めて引き抜かせ五穀に植え替えさせ、畝税を徴る官吏は弾劾罷免し、各省も同じ章程で厳禁させた。秋七月、陝甘総督左宗棠は甘粛で勧諭して禁じ、力を尽くさぬ李宗賓らへの革職・開缺・撤任の処分と尽力した喩光容らの賞を請うて認可された。九月、国荃は編修李用清から罌粟の地が十のうち六、七減ったと告げられ、両江の栽培地畝を没収する章程にならうことを請うて許された。
八年夏六月、山西巡撫張之洞が厳法で禁令を申し明かすことを奏して許された。晋の民は罌粟を好み、盛んな所は二十余の庁州県、無い県はほとんど無く、丁・戊の大飢饉の禍もここに当たる。痩せた晋の地は罌粟に奪われて蓄えが空しく、垣曲は阿片の産も餓死者も最多である。乏しい水利を罌粟に向けて地力を消耗し、吸う悪癖は官吏から婦人女子に及んで村里で十のうち六、城市で十のうち八を占め、内地で禁じねば外国の販売も禁じえぬ。これが禁ずべき四つの理由である。禁じられぬのは禁令の朝令暮改と官吏が畝税を利とするからで、肥沃な地から砂地へ、内地から辺境へ順に及ぼし、郷保に責めて種蒔きの前に食い止めよ、と。報聞とされ、随時調査して犯す者は懲らしめよと命じられた。
三十一年春正月、戸部が洋薬・土薬の害に年を分けて禁ずる法を定めるよう奏して従われた。阿片の禍は極点に達し、販売・吸食・栽培の禁はみな無効で、近年は財政の乱れから土捐・膏捐が各直省にできたが、洋関の則例に妨げられて重く徴収できず、税は無いに等しかった。西洋人は五経の毒と阿片の毒を除かねば治まる日は無いと譏り、許珏は阿片専売を陳べて土薬の整頓を請い、袁世凱は膏税を戸部に籌議させよと覆奏したが、諸条陳は徴税をもって禁止とするばかりで、関所が密なほど迂回が多く、無税の土薬が満ちあふれた。部の臣は禁煙の策で害を除くがよいとし、日本の台湾の禁煙法にならい、官が阿片膏を煮て吸食と購入を許す権を握る法を奏して許された。三十二年秋八月、阿片を禁ずる諭が出て十年以内に害を絶ち尽くすとし、会議政務処は栽培の制限、鑑札の分与、阿片窟と阿片店の取り締まり、処方薬の製造、戒煙会の設立、官員の吸食厳禁、洋薬輸入禁止の交渉など十箇条を覆奏して頒行した。
三十三年秋九月、睿親王魁斌・荘親王載功・陸宝忠・陳名侃らの吸食が明白として職務を官員に署理させ、断てば復職を許した。三十四年春二月、外務部は、前年十月にイギリス公使と協議した、洋薬の逓減、カルカッタへの官員派遣による発送数の監視、洋薬税の倍額徴収、香港からの阿片膏搬入の厳禁、租界内の阿片窟の取り締まり、モルヒネ禁止の六箇条を覆奏した。のちインドの洋薬は五万一千箱を定額に年ごと五千百箱を逓減するなど六節を議定し、仏・葡・蘭にも転送輸入を厳禁させた。三月、景星・丁振鐸を禁煙の大臣とし、秋七月、内閣学士文海・載昌は病癖を登録でごまかしたとして革職された。宣統元年に処理方法を重ねて諭し、十二月に禁煙条例を頒行した。二年秋八月、吉林・黒竜江・河南・山西・福建・雲南・新疆などの一律粛清の奏報は事実でないと度支部の調査で判明し、各督撫を部に下して処分を議させ、以前の保挙も取り消された。十二月、禁令を重ねて厳しくし、三年夏四月、イギリス公使と条件を継続して定め、各省に栽培・吸食・運搬の禁止を整頓させた。
年表
清朝末期の阿片禁令の強化を、光緒二年(1876年)の罌粟栽培厳禁条例から宣統三年(1911年)の禁煙条件継続協定まで追う篇。駐英公使郭嵩燾が西洋人からの嘲笑を恥じて禁煙法の建言を重ね、閻敬銘・曾国荃・左宗棠・張之洞ら地方大吏が罌粟栽培の禁止と官吏の懲罰奨励を進めた。光緒三十一年に戸部が日本の台湾統治にならう年限漸減の禁煙法を立て、翌年には十年以内の根絶を期す禁煙十箇条が頒行された。光緒三十四年には外務部がイギリスと洋薬輸入の年ごと逓減など六箇条を協定し、睿親王魁斌や内閣学士文海ら吸食する高官も革職・署理交代の処分を受けた。宣統年間には禁煙条例が頒行されたが、吉林など諸省の一掃は徹底せず督撫が処分を受けた。
年表(11件)
- 西暦1876年 徳宗光緒二年秋八月、罌粟栽培を厳禁する条例が定められるが章程のみで実効がない
- 西暦1877年 徳宗光緒三年駐英公使郭嵩燾が二度上疏して阿片厳禁の方法を条陳し各省に議覆が下される
- 西暦1878年 徳宗光緒四年閻敬銘・曾国荃が山西で罌粟禁令を申し明かし、左宗棠も甘粛で懲罰奨励を奏請する
- 西暦1882年 徳宗光緒八年山西巡撫張之洞が罌粟の害を四点にわたり論じ厳法による禁令申明を許される
- 西暦1905年 徳宗光緒三十一年戸部が徴税による禁止を退け、年を分けて禁ずる統一の禁煙法を立てる
- 西暦1906年 徳宗光緒三十二年十年以内の根絶を期す禁煙の詔が出され、政務処が禁煙十箇条を覆奏する
- 西暦1907年 徳宗光緒三十三年睿親王魁斌・荘親王載功ら吸食の高官が職務を署理に委ねられる
- 西暦1908年 徳宗光緒三十四年外務部がイギリスと洋薬逓減など禁煙六箇条を協定し各省に奉行を命じる
- 西暦1909年 末帝宣統元年春に禁煙の処理方法を重ねて諭し、冬十二月に禁煙条例を頒行する
- 西暦1910年 末帝宣統二年吉林など諸省の阿片一掃が名ばかりと判明し当該督撫が処分に付される
- 西暦1911年 末帝宣統三年イギリスと禁煙条件を継続協定し各省督撫に栽培・吸食・運搬の禁止整頓を命じる
現代語訳全文
西暦1876年 徳宗光緒二年
- 秋八月、罌粟の栽培を厳禁する条例を定めた。阿片煙の禁令は雍正年間に始まるが、その当初は薬品に充てるだけのものであった。イギリス商人がこれを内地に販売輸送し、洋薬と称した。そのため民間で吸食する者はきわめて少なかった。道光の初めに至って、その風習がはじめて盛んになり、ほどなくインドから雲南に伝わった。そして南土(雲南産の阿片)が興り、次々と伝わって四川に至って川土ができ、さらに甘粛に伝わって西土ができ、そこから貴州に至り、そこから陝西・山西に至った。この一、二十年来、田を廃して罌粟を植え、年ごとにその侵蝕が広がり、西洋から中国へ販売輸送される量もまた年ごとに増加した。栽培が日ごとに盛んになれば、吸食する者も日ごとに多くなる。その勢いは、中国じゅうの人間がことごとく生業を失い、首は枯れ顔は黄ばみ、息も絶え絶えにかろうじて生きているという、廃疾者と変わらぬ有様に至ろうとしていた。
- 西洋の人士は阿片の害の激しさと中国の受けている害の深さとを知り、互いに公館を設け、栽培と販売の禁止を広く勧めた。そこで中国人もこれを恥じ、言路(言論を担う官)から次々と上疏が出され、吸食を厳禁し、あわせて罌粟の栽培を禁じるよう請うた。そうしたわけでこの挙(栽培厳禁の条例制定)があったのである。しかしこれもまた章程があるばかりで、実際の事業は何も無く、外国人にひそかに笑われるのを免れなかっただけであった。
西暦1877年 徳宗光緒三年
- 春二月、駐英公使の郭嵩燾が、方法を立てて阿片煙を厳禁するよう請う上奏をしたが、回答は下されなかった。嵩燾は命を奉じてイギリスに使いし、初めてロンドンに至ったとき、イギリスの世襲貴族シャフツベリー、議政院のマーガス・クールド、宣教師リグデル、ラルダンナビなど五十余人が面会に来て、中国が方法を立てて阿片を禁じるよう力を込めて勧めた。またその議員アシュバリーは各国を遊歴し、行く先々の風土人情をすべて写真に撮って記録していたが、中国の男女が横たわって阿片を吸食する有様については、みなで回し見て笑いものにしていた。嵩燾はこれを恥じた。
- この年の正月、嵩燾はさらに広東の紳士唐徳峻の至るに接拠し(「至」の下に字の脱落があるか)、総理衙門に咨して転奏するよう請うた。その後もしばしばイギリスの士紳が阿片煙の害を取り除こうと力を尽くし、それが真心から発しているのを見た。また広東の紳士桂文燦・温有渓ら二(底本は「等二」に作り、その下に脱字があるか)を受け取った。
- ここに至って、上疏して申し上げ、方法を立てて人民の吸食を厳禁するよう請うた。おおよそ次のようにいう。「阿片はインドで産出するが、南洋に近い暹羅(シャム)も、東洋の日本も、みな厳しい禁令があって吸食する者がいない。ひとり中国だけが販売輸送し流通させており、毎年の課税は数千万に達して、イギリス人の収入の一大項目となっております。しかもその地の士紳の会議はなおも熱心に、阿片の土が中国に毒を及ぼしていると言い、それを自らの罪として、禁止を唱えております。中国の人民はほしいままに吸食して、いささかの悔悟もありません。その情勢は、総督・巡撫の処分を厳しく定めて州県を督率させるのでなければ、好転を望むことはできません。朝廷が堅くこれを持し、寛く期限を与えられますよう請います。三年の期限を示し、総督・巡撫に責任を負わせて各州県に分けて命じ、阿片を断つ処方薬を多く製造し、配布して諭し勧めさせます。満三年を期限とし、期限を過ぎても断てない者は、官吏ならば弾劾して罷免し、生員・監生・挙人ならば資格を剥奪し、長官で摘発しなかった者は同罪とします。また、およそ文科の試験を受ける士子は、例として五人の童生が互いに保証を立てますので、阿片煙を第一の禁制とし、隠しかばった者は一括して除名すべきです。童生で阿片煙を吸食(「吸住」は「吸食」の誤りか)する者は、みなまず受験を停止し、みだりに試験場に入った者は、廩生の保証人が罷免の処分を受けるものとします。廩生で阿片を吸う者は、みなまず保証人となることを停止し、みだりに保証した者は教官が罷免の処分を受けるものとします。そして各省で罌粟を栽培する件については、有司が紳士・人民に諭し勧め、所属の地方を整頓し、次第に感化してゆくこととし、さらに二十年の期限をかけて、人民をあげて改めさせるべきであります。」上疏は差し出されたが、顧みられなかった。
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三月、郭嵩燾が上奏し、阿片が中国に害をなしているので、方法を立てて禁止したいと請うたところ、各将軍・府尹、各直省の総督・巡撫に下して議して上奏させることとなった。嵩燾は再度の上疏で次のように述べた。「臣は光緒三年二月初八日に、方法を立てて阿片を厳禁することについての一摺を差し出しましたが、今に至るまで批諭を頂戴しておりません。ひそかに思いますに、国家が利を興し弊を除くのは関わるところが重大で、軽々しく整頓を議論できるものではありません。阿片煙が中国に害をなして五、六十年、各省の人民でその中に溺れている者を通計すれば、おおよそ十のうち四、五にのぼります。その害は日ごとに広がり、その毒もまた日ごとに深くなっております。道光十九年、特に詔して厳禁したところ、ついに海疆の禍を激成するに至り、しかも吸食する者はいよいよ多くなりました。咸豊九年に至っては、条例の禁がすでに解かれ、さらに何の遠慮も無くなりました。臣がこの時期に改めて阿片煙禁止の議を立てれば、誰もが行い難いことと思うでありましょう。しかし臣が事の道理に照らし、人心に験してみますに、ひとりこれをきわめて易しいことと考えます。思うに、国家が科条を設け、地方官に責任を負わせて禁じさせれば、ただ百姓を煩わせ苦しめるばかりで、その結末は必ず禁じれば禁じるほど開けてゆくことになります。人民に自ら禁制を行わせ、その廉恥を奨励し、その天良(生まれながらの良心)を奮い起こさせるならば、詔旨の一言二言で人心はおのずと振るい、積年の弊もまたおのずと除かれることでしょう。」あわせて処理の方法数箇条を陳べた。
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一、人情を斟酌し、それによって期限を定めること。
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二、栽培を厳禁し、それによって蔓延の害を除くこと。
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三、ゆすりを厳しく防ぎ、それによって胥吏の煩わしさを除くこと。
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四、紳員を選んで派し、それによって取り締まりの責任を重んじること。
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五、章程を明らかに定め、それによって勧善懲悪の意義を示すこと。
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六、阿片窟を禁じ廃し、それによって伝染の害を絶つこと。
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上奏が差し出されると、各当該将軍・府尹、各直省の総督・巡撫に下して、斟酌のうえ妥当に議して上奏せよとの諭が出された。もとの上奏は抄録して配布された。
西暦1878年 徳宗光緒四年
- 春二月、工部右侍郎の閻敬銘・山西巡撫の曾国荃が、罌粟栽培の旧来の禁令を改めて明示することを上奏し、これを許可された。郭嵩燾が再度の上疏で阿片禁止の方法を条陳し、旨を奉じて各省に下して議覆させることになって以来、久しく、依然として何の音沙汰も無かった。この年、敬銘は秦(陝西)・晋(山西)の工振(工事による賑済)を督弁していたため、山西において、晋省は土地の半ばが痩せていて産する穀物がもともと多くなく、そのうえ畝ごとに力を尽くして耕さず、ひそかに罌粟を栽培しており、民間にはもとより貯蔵の穀物が少ないので、ひとたび凶作に遭えばことごとく餓死者となってしまう有様を見た。そこでとくに国荃と相談し、布告を出して諭し、民間に対して今後は必ず方針を改め、力を尽くして農作に励み、国産が充ち足り、凶作や飢饉に備えがあるようにせよと勧めた。罌粟を栽培している者はすべて、族長・甲長に責任を負わせて引き抜かせ、五穀に植え替えさせ、違反する者は取り調べて処罰する。官吏がひそかに罌粟の畝税を徴収していれば、ただちに弾劾して罷免する、とした。ここに至って上疏して奏聞し、議したとおりに行えとの諭が出され、あわせて各省にもこの章程に照らして、一様に厳禁するよう命じられた。
- 秋七月、陝甘総督の左宗棠が、罌粟栽培の禁止に力を尽くさなかった者と実際に尽力した者とを、それぞれ懲罰し奨励するよう請う上奏をし、これに従われた。宗棠は甘粛にあって、司道を督励し、方法を立てて罌粟の栽培をやめるよう勧諭して禁じ、かなりの成果をあげていた。ここに至って、取り締まりに力を尽くさなかった者と尽力した者への懲罰・奨励を請う上奏をした。旨を奉じて次のとおり認可された。取り締まりに力を尽くさなかった儘先道の寧夏府知府李宗賓、候補直隷州知州で寧夏県知県を代理する胡韻蘭、霊州知州の孫承弼、両当知県の任懋修、碾伯県知県の邵杜寧、朔県知県の賀昇運らは、免職・開缺・撤任と、それぞれ差をつけて処分された。取り締まりにとりわけ尽力した寧霊庁同知の喩光容には知府の銜を賞与し、中衛県知県署理の劉然亮を寧夏府知府署理とし、張家槐を平羅県知県署理とし、呂恕を寧夏県知県代理とし、李日乾を霊州知州代理とし、徳蔭を甘粛寧夏鎮総兵署理とし、馮南斌らはみな部に下して優れた叙任を行わせた。
- 九月、曾国荃が上奏し、晋省での罌粟禁止について、両江にならい、罌粟を栽培した地畝を公に没収する章程によって処理したいと請い、これを許可された。国荃は以前、閻敬銘とともに罌粟栽培の旧禁を重ねて申し明かすことを奏聞したが、その後、ちょうど編修の李用清が賑済の調査で山西に来たので、ついでに晋省の各庁州県で罌粟を栽培している場所を視察したところ、一年前と比べて十のうち六、七が減っていた。そこで書簡で国荃に告げ、この大凶作で穀物が高値の時に乗じて民に転業を勧めれば、半分の労力で倍の効果を期待できるとした。国荃は続いて両江の罌粟禁止を調べたところ、地畝を公に没収する章程があり、これが最も民間の畏れ憚るところであった。ここに至って、それにならって処理することを請う上奏をし、あわせて地方官で取り締まりの厳しくない者と、力を尽くして禁じながら村里を煩わせ苦しめなかった者とを、それぞれ罷免・弾劾し、また奨励するよう請うた。議したとおりに行えとの諭が出された。
西暦1882年 徳宗光緒八年
- 夏六月、山西巡撫の張之洞が「民間の罌粟栽培は良質の穀物の妨げとなっているので、厳しい法をもって禁令を申し明かしたい」と上奏し、これを許可された。之洞の上疏に次のようにいう。「晋の民は罌粟を植えることを好み、最も盛んなところは二十余の庁州県、その他も多少の差はあれ、ほとんど無い県が無いほどであります。土地を空しくして農を損ない、そのため畝には棲糧が無く(「棲糧」は「餘糧」の誤りか)、家には貯えの粟がありません。丁・戊の年の未曾有の飢饉は、その禍が実にここに当たっておりました。しかるに轍を踏み重ねるばかりで、迷いから立ち返ることを知りません。議論する者は禁ずるべきでないという説を持つ者もありますが、おおむね一つには目先しか見ていないことにより、一つには困難を畏れることによります。しかし臣は、土地から見ても時勢から見ても、禁じないわけにはゆかない理由が四つあると申します。晋の地は痩せていて、産する穀物は多くなく、旱魃の年はもとより他省からの援助を頼みとしております。ところが罌粟に土地を奪われてからは、蓄えはいよいよ空しくなり、先のあの大凶作のとおりであります。垣曲は阿片の産出が最も多く、餓死者もまた最も多くありました。近ごろ阿片を植える土地では交城が最も盛んですが、穀物の値もまた交城が最も高くなっております。民を損ない作物を害することには、確かに明らかな証拠があります。今この時にさらにその流れを食い止めなければ、かりに一部の地に災害があったとしたら、どうして想像に堪えましょうか。これが必ず禁ずべき第一であります。晋省は山地の農民が多く、水利が少なく、罌粟を植え付ける手間は野菜や草花の倍もかかります。たまたま山あいの渓流や水辺で灌漑に利用できるものがあれば、ことごとくそれを罌粟に向けてしまいます。この植物は最も地力を消耗させ、数年ののちには、改めて他の穀物を植えても、やはり実りません。このわずかな得がたい水利しか無いのに、この民を毒する植物を養っているのです。これが必ず禁ずべき第二であります。晋省の阿片を吸う悪癖は、官吏・士民・下級武官や兵卒・胥吏や下役、それに婦人女子に至るまで、みな染まっているとはいえ、おおむね村里の辺鄙な土地ではその十のうち六、城市ではその十のうち八を占めております。人はみな痩せ衰え、家はみな朝寝をし、怠惰でだらしなく、少しも生気がありません。官にある者はその職務を務めず、働いて食う者はその生業に励みません。このまま続けて止まなければ、貧しい者はますます貧しくなり、弱い者はますます弱くなります。数十年ののち、晋は危ういことでありましょう。ただ植える者が多いからこそ、吸うのに便利なのです。これが必ず禁ずべき第三であります。洋薬税は海関の大口の財源であり、今日まさに重く徴収し、それによって外国からの販売を禁じ、民を防ぎ(「坊」は「防」の誤りか)風俗を正す方策としようと議しております。もし内地で禁じず、その繁殖するに任せるならば、どうして遠来の人の口を塞ぐことができましょうか。これが必ず禁ずべき第四であります。晋省で罌粟を禁じることができないでいる理由を調べますに、一つには上官の禁令が緩んで一定せず、朝に命じて夕べに改めることにより、一つには官吏がこれを利益の源とみなし、畝税の徴収を図ることによります。この二つの弊害を取り除けば、必ず見るべき成果があるでしょう。臣が愚かにも思いますに、禁じるには方法があり、行うには順序があります。まず肥沃な土地から始めて後に痩せた砂地に及び、まず内地から始めて後に辺境の庁に及び、これを郷保に責任を負わせ、いたずらに吏胥に委ねてはならず、これを種蒔きの前に食い止め、いたずらに花が咲いた後に毀ち捨てるだけにしてはなりません。苛酷な煩わせを力を尽くして禁じ、考課の成績を厳しく定め、誠意をもって民を感化すれば、動かされない者はありません。たちまち根株を絶つことはできないにしても、一畦の罌粟が減ればそれだけ一人分の余分の食糧が増えるのです。官紳や将卒については、臣はすでに多方面から勧め戒めており、今、李鴻章が天津に設けた戒煙局にならい、医者を招き薬を購入して、広く重い病を癒すことを期しております。属官で嗜好にふけって職務を廃している者は、それぞれ任を解き委任を停め、期限を切って断つよう強い、自ら改めることを許します。下級武官や兵卒には期限を切って断つよう強い、改めない者は淘汰し罷免します。学校の諸生については、学臣が随時に監督し戒め、次第に感化し感じ取らせることによって、ゆるやかに風俗を移し変える効を収めることを期しております。」上疏が差し出されると報聞(上奏を受理し、それを知らせるにとどめる処置)とされ、なお随時に調査し、犯す者があれば必ず懲らしめよと命じられた。
西暦1905年 徳宗光緒三十一年
- 春正月、戸部が、洋薬・土薬が人を害し財を損なっているので、年を分けて禁ずる法を厳しく定め、処理の方法を統一したいと上奏し、これに従われた。中国の阿片の禍は、蔓延してすでに極点に達していた。初めは販売を禁じ、吸食を禁じ、栽培を禁じたが、結局は無効に終わった。近年は財政が乱れたために、逆さまのことを行い、臨機の措置という口実を借りて、いくらか税を課し、購入を容易でなくすれば吸食する者はおのずと少なくなるとした。そこで各直省の中の土捐・膏捐が、至るところにできた。ところがまた洋関の則例に妨げられて重く徴収することができず、土薬の販路を阻害するので、税があっても税が無いのと同じであった。
- 当時、西洋人は中国の風俗を譏り、その五経の毒・阿片の毒を取り除かなければ、ついに治まる日を望めないと言った。一時、臣工はみなこれを恥じ、次々と禁煙の処理方法を条奏した。たとえば駐イタリア公使の許珏はイタリア国の阿片専売の大略を上奏して陳べ、まず土薬について整頓を試行するよう請い、直隷総督の袁世凱は、膏税の徴収は事柄が煩雑で重大なので、戸部に籌議して処理させるよう請う上奏の覆奏をした。前後して部に下されたが、諸々の条陳の処理方法はみな徴税をもって禁止とすることを主張し、多く取り立てても虐政ではないと言うが、その実は徴収するだけのことで、禁じることはできていなかった。まして局や関所が密になるほど、迂回して通る者は多くなり、脇道は取り締まりが容易でなく、無税の土薬がそのために満ちあふれ、禁じようとして禁じられないばかりか、徴収しようにも徴収のしようが無い。
- 部の臣はこれを見て取り、徴税の方法を求めても税はやはり盛んにならないのであれば、禁煙の策を行って害を永久に除ける方がよいとした。そこで日本が台湾を治めるにあたっての禁煙法にならい、官が阿片膏を煮て、吸うことを許し買うことを許す権限を握ることとし、年を分けて禁ずる法を定め、一つの処理方法を立てて上奏したところ、議したとおりに行えとの諭が出された。
西暦1906年 徳宗光緒三十二年
- 秋八月、阿片を禁ずる諭が出た。十年以内を期限と定め、洋薬・土薬の害を一律に取り除いて絶ち尽くすこととし、政務処に吸食を厳禁し、あわせて罌粟の栽培を禁ずる章程を妥当に議するよう命じた。ほどなく会議政務処の大臣が禁煙の処理方法十箇条を立てて覆奏した。一、罌粟の栽培を制限して根株を絶やすこと。二、鑑札を分け与えて新たな吸食者を防ぐこと。三、期限を切って中毒を軽減させ、長患いを癒すこと。四、阿片窟を禁止して巣窟を一掃すること。五、阿片店を調査して取り締まりの助けとすること。六、官が処方薬を製造して治療に便ならしめること。七、戒煙会の設立を許して善挙を広めること。八、地方に責任を負わせて紳董を督率させ、実行を期すこと。九、官吏の吸食を厳禁して模範を正すこと。十、洋薬の輸入禁止を交渉して供給源を食い止めること。上疏が差し出されると、旨を奉じて頒行された。
西暦1907年 徳宗光緒三十三年
- 秋九月(底本は「三十三,年秋九月」に作る)、睿親王魁斌・荘親王載功・都御史陸宝忠・副都御史陳名侃らが阿片を吸食していることが明白であるとして、その就いている職務については、規定どおりまず官吏を派して署理させることとした。速やかに断つことができれば、なお従来どおり職に就くことを許すとした。
西暦1908年 徳宗光緒三十四年
- 春二月、外務部が覆奏して、禁煙について籌議し、各国と処理方法六箇条を協定したことを陳べ、民政部・度支部に速やかに会同して稽核の章程を定め、考課の成績を厳しく定め、直省に広く頒布し、各総督・巡撫に責任を負わせて力を尽くして奉行させるよう命じることを請い、これに従われた。前年十月のうちに、外務部はイギリス公使と禁煙の処理方法六箇条を妥当に協議していた。一、洋薬は年を分けて逓減し、五年以内の輸入数(「疑数」は字の誤りか)を折衷して定額とし、一千九百七年以後は年ごとに一割を減らし、十年で絶ち尽くす。一、インドのカルカッタは洋薬の集散地であるから、中国から官吏を派遣して赴かせ、競売と梱包を監視させ、発送される洋薬の実数を知るようにする。一、土薬税は一担あたり現在すでに百十五両にまで加徴しているが、洋薬の力は土薬の倍であるのに、もとからの釐税と併せて徴収してもわずか百十両である。もとの定めの税数に照らして倍額を徴収し、徴収をもって禁止とすべきである。一、香港は洋薬の膏を煮る土地であるから、香港総督の協力により、阿片膏が中国の境内に運び入れられないよう厳禁すべきである。一、租界内の阿片店・阿片窟および各々の阿片を吸う場所、ならびに各商店の阿片道具の販売については、その調査と禁止の計画は、中国の地方官の処理方法に照らして一律に取り扱う。一、モルヒネおよびモルヒネ注射器の害を、方法を立てて禁止することは、すでに中英・中米の新条約に載せてあるが、ただし条約のある各国が同意して実行することを必要とし、そうしてはじめて実施できる。
- その後、双方で議定した。第一節、インドの洋薬は輸出五万一千箱の数を定額とし、年ごとに五千百箱を逓減し、一千九百八年を実行の始まりとする。第二節、中国からインドへ派遣する官吏はただ発送される洋薬の実数を調べるだけで、他の権限に干渉しないことを申し明かす。第三節、洋薬の税釐の加増は、土薬の統捐および土薬の価格の調査が明確になるのを待って、あらためて協議を続ける。第四節、香港の阿片膏は輸出して中国に入れることを禁止し、あわせて阿片膏が中国から香港に入る貿易も禁止することを声明する。第五節、中国の官が各種の租界外で阿片窟および阿片を吸う場所の禁止を実行する場合には、各開港場の租界内の工部局は中国の官の要請を待たず、自ら方法を立てて取り扱う。第六節、モルヒネおよびモルヒネ注射器の運び入れを禁止することは、条約のある各国がすべて同意しだい、ただちに実行する。
- その後、外務部から照会して、フランス・ポルトガル・オランダ三国の公使に、ベトナム・マカオ・南洋の諸島から洋薬を転送して輸入することを厳禁させた。ただしペルシアは条約の無い国であるので、部から税務処に咨文を送って総税司に転達させ、処理方法を立てさせた。モルヒネ・モルヒネ注射器の中国への搬入禁止も、部から各国に照会して同意を得た。ここに至って奏聞し、上疏が差し出され、議のとおりとされた。
- 三月、恭親王溥偉・協弁大学士鹿伝霖を資政院事務の協弁に派し、景星・丁振鐸を禁煙処理の大臣に充てた。
- 秋七月、内閣学士の文海・載昌が久しく阿片の病癖がありながら、登録に際してごまかして申告したとして、いずれも免職とされた。
西暦1909年 末帝宣統元年
- 春二月、禁煙の処理方法を重ねて諭した。
- 冬十二月、禁煙条例を頒行した。
西暦1910年 末帝宣統二年
- 秋八月、吉林など諸省で阿片栽培の一掃が徹底していないとして、当該総督・巡撫をいずれも部に下して処分を議させた。これより先、各省の地方長官が禁煙の年限を臨機に変更するよう請う上奏をしたため、政府は各省の上奏報告が事実でないことを恐れ、度支部に命じて官吏を各省に派遣し内密に調査させた。ここに至って復命して、吉林・黒竜江・河南・山西・福建・雲南・新疆などの省はいずれも一律に粛清したと奏報しているが、実際には絶ち尽くしてはいないと述べた。各総督・巡撫はいずれも部に下して処分を議させた。山西・吉林・雲南などの省の以前の保挙の案件は、いずれも取り消された。
- 冬十二月、阿片の禁令を重ねて厳しくした。
西暦1911年 末帝宣統三年
- 夏四月、外務部がイギリス公使と禁煙の条件を継続して定めたことにより、各省の総督・巡撫に、栽培禁止・吸食禁止・運搬禁止の各事項を速やかに真剣に整頓するよう命じた。
原文(底本)
德宗光緒二年,秋八月,定嚴禁栽種鶯粟例。鴉片煙之禁,始自雍正時,其初但充藥品。英商以之販運內地,稱洋葯,故民間吸食者極少。至道光初,其風始熾,尋由印度傳之雲南。而南土興,輾轉傳至四川而有川土,又傳至甘肅而有西土,由是而至貴州,由是而至陝西、山西。一二十年來,廢田而種鶯粟,歲益侵廣,而西洋販運中國,亦歲益增多,蓋開種日繁,即吸食者日衆,勢將盡中國之人,皆至失其生理,槁項黃馘,奄奄僅存,無異殘廢。西洋人士知鴉片爲害之烈與中國受害之深也,相與設爲公館,廣勸禁止栽種販賣,於是中國人亦恥之,言路紛紛具疏,請嚴禁吸食,並禁種鶯粟。因有是舉,然亦徒有章程,並無實事,不免爲外人所竊笑而已。 三年,春二月,駐英使臣郭嵩燾奏請設法嚴禁鴉片煙,不報。嵩燾奉命使英,初至倫敦,英國世爵夏弗斯伯里、議政院馬光斯求爾德、教士里格德爾、刺爾丹拿畢等五十餘人來謁,力勸中國設法禁煙。又其議員阿什伯里遊歷各國,所至風土人情,皆照相以記之,而於中國男女僵臥吸食鴉片之事,共傳觀以取笑,嵩燾恥之。是年正月,嵩燾復接據粵紳唐德峻至,咨請總理衙門轉奏。其後屢見英國士紳力除鴉片煙之害,發於至誠,又接粵紳桂文燦、溫有溪等二。至是,具疏入告,請設法嚴禁人民吸食,略謂:『鴉片產出印度,而南洋附近之暹羅,東洋之日本皆有厲禁,無吸食者,獨中國販運銷行,每年課稅至數千萬,爲英國人入欵一大宗。而其地士紳會議猶勤勤焉,謂煙土貽毒中國,引以爲咎,倡言禁止。中國人民肆行吸食,略無悔悟,其勢非嚴定督撫處分。以督率州縣,不能望有轉機,請朝廷堅以持之,寬以期之。限示三年,責成督撫分飭各州縣,多製戒煙方藥,施散勸諭。以滿三年爲期,逾期不能戒者,官吏参革,生監舉人禠斥,長官不舉發者同罪。而凡文應試士子,例具五童互結,宜以鴉片煙爲首禁,容隱者一併除名。童生吸住鴉片煙,皆先停考,濫入場者,廩保坐黜。廩生吸煙,皆先停止保人,濫保者教官坐黜。而於各省栽種鶯粟方,則由有司勸諭紳民,整頓所屬地方,漸摩勸化,更需以二十年之期,盡人民而變革之矣。』疏入,不省。 三月,郭嵩燾奏,鴉片爲害中國,擬請設法禁止,下各將軍府尹,各直省督撫議奏。嵩燾再疏稱,臣光緒三年二月初八日,具奏設法嚴禁鴉片一摺,至今未奉批諭,竊惟國家興利除弊,關繫重大,未易輕議整頓。鴉片煙爲害中國,五六十年,通計各省人民陷溺其中者,率十之四五。其害日廣,其毒亦日深。道光十九年,特詔嚴禁,遂至激成海疆之禍,而吸食者愈多。至咸豐九年,例禁已開,更無顧忌,臣於此時復爲禁止鴉片煙之議,人皆知其難行,而臣揆之事理,驗之人心,顧獨以爲至易。蓋使國家設立科條,責成地方官禁之,徒以擾累百姓,其終必至愈禁而愈開。使人民自爲禁制,以獎勵其廉恥,而激發其天良,則動於詔旨一二言而人心自振,積弊亦將自除。並陳辦法數條: 一、權衡人情,以定限制之期。 二、嚴禁栽种,以除蔓延之害。 三、嚴防訛詐,以除胥吏之擾。 四、選派紳員,以重稽查之責。 五、明定章程,以示勸懲之義。 六、禁革煙館,以絕傳染之害。 奏上,諭交各該將軍府尹、各直省督撫斟酌妥議具奏。原奏者發鈔。 四年,春二月,工部右侍郎閻敬銘、山西巡撫曾國荃奏,申明栽种鶯粟舊禁,允之。自郭嵩燾再疏條陳禁煙之法,奉旨交各省議覆後,久之,仍寂然無聞。是年,敬銘因督辦秦晉工振,在山西見晉省地半磽瘠,產糧本不見多,又不按畝力耕,私栽鶯粟,民間既少存糧,一遇荒歉,盡成飢莩,特商同國荃出示曉諭,勸民間嗣後務當變計,盡力農作,期於國產充盈,凶荒有備。所有栽种鶯粟者,責令族長、甲長押令拔除,改种五穀,違者究治。官吏私徵鶯粟畝稅,立予參撤。至是,具疏奏明,諭如所議行,並着各省訪照章程,一體嚴禁。 秋七月,陝甘總督左宗棠奏請將禁种鶯粟不力及實在出力各員,分別懲勸,從之。宗棠在甘肅,督飭司道,設法勸禁栽种鶯粟,頗著成效,至是,奏請懲勸查禁不力及出力各員。奉旨依准所有查禁不力之儘先道寧夏府知府李宗賓、候補直隸州知州代理寧夏縣知縣胡韻蘭、靈州知州孫承弼、兩當知縣任懋修、碾伯縣知縣邵杜寧、朔縣知縣賀昇運等革職、開缺、撤任有差。其查禁尤爲出力之寧靈廳同知喻光容,賞知府銜,署中衛縣知縣劉然亮署寧夏府知府,張家槐署平羅縣知縣,吕恕代理寧夏縣知縣,李日乾代理靈州知州,德蔭署甘肅寧夏鎮總兵馮南斌等均交部優叙。 九月,曾國荃奏,晉省禁種鶯粟,請仿照兩江,將栽種鶯粟地畝充公章程辦理,允之。國荃前與閻敬銘奏明重申栽種鶯粟舊禁後,適編修李用清查賑至晉,就便察看晉省各廳州縣所種鶯粟之處,較一年前減去十之六七,因緘吿國荃,乘此大祲糧貴之時,勸民改業,可期事半功倍。國荃嗣查兩江禁止鶯粟,有將地畝充公章程,最爲民閒所畏憚,至是,奏請仿照辦理,並請將地方官稽查不嚴及能力禁而不擾累閭閻者,分別撤參獎勵。諭如所議行。 八年,夏六月,山西廵撫張之洞奏:民閒栽種鶯粟,有妨嘉穀,擬嚴法申禁。允之。之洞疏稱:晉民好種鶯粟,最盛者二十餘廳州縣,其餘多少不等,幾於無縣無之。曠土傷農,以致畝無棲糧,家無儲粟。丁戊奇荒,其禍實中於此。然而覆轍相沿,不知迷復,議者或持不宜禁之說,大率一由見小,一由畏難。然臣謂以地以時,有不可不禁者四:晉地磽瘠,產糧無多,旱年本恃外省接濟,自爲鶯粟所奪,蓋藏益空,卽如前此大祲。垣曲產煙最多,餓斃亦最衆。近日種煙之地以交城爲最盛,而糧價亦以交城爲最昂。賊民害稼,確有明證,此時若再不遏其流,設有偏災,豈堪設想?此必禁者一也;晉省山農多,水利少,種植鶯粟之功倍於蔬卉,偶有山溪水滸可資灌溉,悉以歸之鶯粟。此物最耗地力,數年之後,更種他穀,亦且不蕃。僅有此區區難得之水利而養此毒民之物,此必禁者二也;晉省吸煙之癖,官吏、士民、弁兵、胥役以及婦人女子,雖皆沾染大率鄕僻居其十之六,城市居其十之八,人人尩羸,家家晏起,怠惰頽靡,毫無朝氣。在官者不修其職,食力者不勤其業,循此不已,貧者益貧,弱者益弱。數十年後,晉其危乎!惟種之多者,故吸之便,此必禁者三也;洋藥税爲海關大宗,今日方議重徵,藉禁外販,以爲坊民正俗之謀。若內地不禁,聽其蕃滋,何以關遠人之口?此必禁者四也。查晉省鶯粟之所以不能禁者,一由於上官之禁弛不一,朝令夕更;一由於官吏之視爲利源,圖收畝税。祛此二弊,必有成效可觀。臣愚以爲,禁之有方,行之有漸,先膏腴而後磽磧,先腹地而後邊廳,責之於鄕保,毋徒付之於吏胥,遏之於播種之先,毋徒毀之於揚華之後。力禁苛擾,嚴定攷成,感民以誠,未有不動。雖不能遽絕根株,而少一畦之鶯粟卽多一口之餘糧矣。至於官紳將卒,臣已多方勸戒,現仿李鴻章天津所設之戒煙局,延醫購藥以冀廣起沉疴。屬官有嗜好廢事者,分別撤任停委,勒限戒斷,許令自新。弁勇勒限戒斷,不悛者汰黜。學校諸生,由學臣隨時董戒,冀以漸摩觀感,徐收移風易化之功。疏入報聞,仍著隨時查察,有犯必懲。 三十一年,春正月,户部奏洋藥土藥害人耗財,擬嚴定分年禁法。畫一辦法,從之。中國鴉片之禍,瀰漫已臻極點。始焉禁賣禁吸禁種,終於無效;近年以財政紊亂,倒行逆施,藉口變通之法,略加徵税,使購買不易,吸食者自寡,於是各直省中土捐、膏捐,所在皆是。顧又格於洋關則例,不能重徵,阻礙土藥之銷路,故有税亦與無税等。時西人譏中國之風俗,謂不去其五經毒、鴉片毒,終無望治之一日。一時臣工皆恥之,紛紛條奏禁烟辦法,如駐義使臣許珏奏陳義國榷煙大略,擬請先就土藥整頓試辦;直督袁世凱奏覆征收膏税,事體繁重,請飭户部籌議辦理。先後下部,然諸條陳辦法皆主張以徵爲禁,謂雖多取而非虐,其實則征而已,禁未能也。況局卡愈密,繞越愈多,岐路未易稽查,私土因而充斥,不惟禁不能禁而且征無從征。部臣有見於此,與其求征税之方,税仍不旺,不若行禁煙之策,害可永除。因仿日本治臺灣禁煙法,由官熬膏,握准吸准買之權,擬定分年禁法,籌一辦法入奏,諭照所議行。 三十二年,秋八月,諭禁鴉片。定限十年以內,將洋土藥之害一律革除淨盡。著政務處妥議嚴禁吸食,並禁種鶯粟章程。旋會議政務處大臣籌擬禁煙辦法十條具覆:一限種鶯粟以淨根株,二分給牌照以杜新吸,三勒限減癮以蘇痼疾,四禁止煙館以清淵藪,五淸查煙店以資稽察,六官製方藥以便醫治,七准設戒煙會以宏善舉,八責成地方督率紳董以期實行,九嚴禁官員吸食以端表率,十商禁洋藥進口以遏來源。疏入,奉旨頒行。 三十三,年秋九月,以睿親王魁斌、莊親王載功、都御史陸寳忠、副都御史陳名侃等吸食鴉片,情形顯著,將所任差缺,照章先行派員署理。如能迅速戒斷,仍准照舊供職。 三十四年,春二月,外務部奏覆陳籌議禁煙,與各國商定辦法六條,請飭民政部、度支部速行會訂稽核章程,嚴定攷成,通頒直省,責成各督撫實力奉行,從之。上年十月間,外部與英使妥商禁煙辦法六條:一洋藥分年遞減,以五年內進口疑數折中定額,自一千九百七年以後年減一成,十年淨盡;一印度之嘎里古達爲洋藥總滙之地,由中國派員前往監視,拍賣打包,得知發運洋藥實數;一土藥税每擔現已加抽至一百十五兩,洋藥力量倍於土藥,而原有之釐税倂徵祇一百十兩,應照原定之税數加倍徵收,以徵爲禁;一香港爲洋藥熬膏之地,應由港督協助,嚴禁烟膏不得運入中國境內;一租界內煙店煙館及各吸煙之所並各行店售賣煙具其清查籌禁之,法照中國地方官辦法一律辦理;一嗎啡及嗎啡針之害,設法禁止,已載在中英、中美新約,惟須有約各國應允照行方可舉辦,後經雙方議定第一節,印度洋藥以出口五萬一千箱之數爲定額,按年遞減五千一百箱,自一千九百零八年(光緒三十三年十二月)爲實行之始,第二節申明中國派往印度之員祇查發運洋藥實數,並不干預他權,第三節加增洋藥税釐,俟土藥統捐及土藥價值調查明確後,再行續商,第四節聲明香港煙膏禁止出口入華,並禁止煙膏由華入港之貿易,第五節如華官在各項租界外實行禁止烟館及吸烟處所各口岸租界內工部局不俟華官之請,自行設法辦理,第六節禁止運入嗎啡及嗎啡針,一俟有約各國全允卽應照行後,由外部照會,法、葡、荷三國公使嚴禁越南、澳門、南洋各島轉運洋藥入口,惟波斯爲無約之國,部中咨行税務處轉飭總税司籌擬辦法,其禁止嗎啡嗎啡針運華,亦由部中照會各國應允。至是奏聞,疏入,依議。 三月,派恭親王溥偉、協辦大學士鹿傳霖協辦資政院事務,景星、丁振鐸充辦理禁煙大臣。 秋七月,以內閣學士文海載昌夙患煙,應朦混註冊,均著革職。 末帝宣統元年,春二月,申諭禁煙辦法。 冬十二月,頒行禁煙條例。 二年,秋八月,以吉林等省清除種煙未淨,該督撫均交部議處。先是因各省疆吏奏請變通禁烟年限,政府恐各省奏報不實,乃飭令度支部派員赴各省密查,至是覆稱吉林、黑龍江、河南、山西、福建、雲南、新疆等省均經奏報一律肅清,其實並未淨盡,各督撫均交部議處。其山西、吉林、雲南等省從前保案均撤銷。 冬十二月,申嚴烟禁。 三年,夏四月,因外務部與英使續定禁烟條件,飭各省督撫迅將禁種禁吸禁運各事認眞整頓。
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