東周列國志第三回 犬戎の主、鎬京を荒らす/周の平王、洛邑に東遷する (犬戎主大鬧鎬京 周平王東遷洛邑)

犬戎の来援と鎬京包囲

  • 申侯が上表した後、鎬京で情報を探っていた者が、幽王が虢公を将として近く申を討伐する兵を出すことを知り、夜通し馳せ戻って申侯に報告した。申侯は大いに驚き、「国は小さく兵は弱い。どうして朝廷の軍に抵抗できようか」と言った。
  • 大夫呂章が進み出て言った。「天子は無道で、嫡子を廃し庶子を立て、忠良の臣は位を去り、万民は皆恨みを抱いております。これは天子が孤立している証です。今、西戎は兵力がちょうど強く、申国と国境を接しております。主公は速やかに戎主に書を送り、鎬京へ兵を借りて王后を救い、必ず天子に位を故太子へ譲らせるのです。これは伊尹・周公の業に等しい事業です。『先んずれば人を制す、機を逃してはならない』と申します。」申侯は「その言葉はもっともだ」と言った。
  • そこで金や絹を車一台分用意し、人を遣わして書状とともに犬戎に兵を借り、鎬京を破った暁には府庫の金や絹を思うままに持ち去ってよいと約束した。戎主は「中原の天子が政を失い、王の后の父である申侯が我らを召して無道の者を誅し、東宮を擁立しようというのだ。これは我が望みでもある」と言い、戎兵一万五千を発し、三隊に分けた。右先鋒は孛丁、左先鋒は満也速、戎主自ら中軍を率いた。槍刀は道を塞ぎ、旗指物は空を覆い、申侯もまた自国の兵を起こして加勢し、浩々蕩々と鎬京へ攻め寄せた。不意を突いて王城を三重に取り囲み、水も漏らさぬ包囲とした。
  • 幽王は変事を聞き、大いに驚いて「機密が漏れ、禍が先に発せられた。我が兵はまだ動かぬうちに戎兵が先に動いた。これはどうしたことか」と言った。虢石父が奏上した。「我が王、速やかに驪山に人を遣わしてのろしを上げさせるべきです。諸侯の救兵が必ず来れば、内外挟撃して必ず勝てましょう。」幽王はこれに従い、人を遣わして烽火を上げさせたが、諸侯の兵は一兵たりとも来なかった。以前烽火に弄ばれたため、今回もまた偽りだと思い、誰も兵を起こさなかったのである。
  • 幽王は救兵が来ないのを見て、犬戎が日夜城を攻めるので、石父に「賊の勢いの強弱がまだ分からぬ。卿、試みに当たってみよ。朕は勇壮な兵を選び、その後に続こう」と言った。虢公はもとより戦に長けた将ではなかったが、やむなく命に応じ、戦車二百乗を率いて城門を開いて打って出た。
  • 申侯は陣中から石父が城を出るのを望み見て、戎主に「あれは君を欺き国を誤らせた賊です。逃してはなりません」と指差した。戎主はこれを聞いて「誰か我のためにこれを捕らえよ」と言った。孛丁は「小将、参ります」と言い、刀を舞わせ馬を駆って直に石父に迫った。十度も斬り合わぬうちに、石父は孛丁の一刀のもとに車上から斬り落とされた。
  • 戎主は満也速とともに一斉に前へ突き進み、鬨の声を大いに上げて城内に乱入した。家に出会えば火をかけ、人に出会えば刀を振るい、申侯すらもこれを止めることができず、なすがままに任せるほかなく、城中は大混乱に陥った。

幽王の最期と鄭伯友の討死

  • 幽王はまだ軍を検分し終えぬうちに、形勢が思わしくないのを見て、小さな車に褒姒と伯服を乗せ、後宰門を出て逃げ出した。司徒鄭伯友は後から追いついて大声で「我が王、驚かれますな。臣がお守りいたします」と言った。北門を出て、道をたどりながら驪山へと向かった。
  • 途中、また尹球に出会った。「犬戎が宮室を焼き払い庫蔵を略奪し、祭公はすでに乱軍の中で死にました」と告げた。幽王は肝を潰した。鄭伯友は再び烽火を上げさせたが、のろしの煙は大空のはるか高みまで届いても、救兵は依然として来なかった。犬戎兵は驪山の麓まで追いつき、驪宮をぐるりと取り囲み、口々に「愚かな君主を逃がすな」と叫んだ。
  • 幽王と褒姒はひとかたまりになって恐れおののき、互いに泣き合った。鄭伯友が進み出て言った。「事は急を要します。臣、微命を賭してお守りし、囲みを突破して臣の国(鄭)へお落ち延びいただき、後の策を図りましょう。」幽王は「朕が叔父の言葉を聞かなかったばかりに、こんなことになった。朕の今日の夫婦父子の命は、すべて叔父に託す」と言った。
  • 鄭伯は人に命じて驪宮の前に火を放たせ、戎兵をかく乱させ、自ら幽王を導いて宮の後ろから抜け出した。鄭伯は長矛を手に先頭に立って道を切り開いた。尹球は褒后母子を守りながら幽王のすぐ後ろに従った。
  • しばらく行くと、早くも犬戎兵に行く手を阻まれた(それは小将古里赤であった)。鄭伯は歯を食いしばって激怒し、すぐに応戦した。数度も打ち合わぬうちに、一矛で古里赤を馬から突き落とした。戎兵は鄭伯の勇猛さに驚いて一時散り散りになった。
  • 半里ほど進むと、背後にまた鬨の声が起こり、先鋒孛丁が大軍を率いて追いついてきた。鄭伯は尹球に幽王を守って先へ行かせ、自らは殿を務め、戦いながら退いた。犬戎の騎兵に横合いから衝かれ、隊は二つに分断された。鄭伯は敵の真っただ中に孤立しながらも少しも恐れず、その一本の矛は神出鬼没に振るわれ、先陣を切る者は皆その手にかかった。犬戎主は四方から矢を射させ、矢は雨のように降り注ぎ、玉も石も見境なく貫いた。哀れなことに、一国の賢侯であった鄭伯は、この日、万矢の下に命を落とした。
  • 左先鋒満也速は早くも幽王の車と行列を捕らえた。犬戎主は袞袍玉帯を見て幽王と知り、車中で一刀のもとに斬り殺し、あわせて伯服も殺した。褒姒は美貌ゆえ死を免れ、軽車に乗せられて連れ帰られ、フェルトの天幕で慰み者にされた。尹球は車箱の中に隠れていたが、やはり戎兵に引き出されて斬られた。
  • 幽王は在位わずか十一年であった。桑木の弓と箕草の矢筒を売っていた男が清水河のほとりで妖女を拾い上げ、褒国へ逃れたことに端を発し(この女こそが褒姒である)、君心を惑わし嫡母を欺き凌いだ末、幽王は今日、身を滅ぼし国を破ることとなった。昔の童謡に「月将升、日将没、檿孤箕箙、実亡周国」とあったのは、まさにこの兆しに応じたものであり、天数はすでに宣王の代に定まっていたのである。
  • (詩:あの手この手で後宮に笑いを求めた末、烽火の光が紅の粉黛を揺らした。自ら諸侯との縁を絶っただけならまだしも、忍びないことに国の運命を戎狄の手に喪わせてしまった、という趣旨の詩、東屏先生の作)
  • (詩:驪山の一笑が犬戎の怒りを招き、弓矢の童謡はすでに真実であったと験された。十八年を経てなお報いを受けたが、天のめぐりを引き返させることができる者などいようか、という趣旨の詩、隴西居士の詠史詩)
  • (詩:巧みな言葉と讒言で暗君に媚びへつらい、一生涯の富貴を図り尽くした。ある朝、首を並べてともに誅せられ、後の世まで佞臣と罵られることになった、という趣旨の詩、尹球らが誰一人まともな最期を迎えなかったことを詠み、奸臣への戒めとしたもの)
  • (詩:石父は命を捨て尹氏も滅び、鄭の桓公はこの日、王のために命を捧げて死んだ。三人はみな周家のために死んだが、風前にさらされた白骨のうち、真に香しいのはどれであろうか、という趣旨の詩、鄭伯友の忠を詠んだもの)

申侯の後始末と三路諸侯への密書

  • さて、申侯は城内にいて宮中に火の手が上がるのを見て、急いで自国の兵を率いて宮中に入り、道すがら火を消して回った。まず申后を幽閉の宮から助け出した。瓊台まで巡ったが、幽王と褒姒の行方は分からなかった。人が「すでに北門から出て行かれました」と告げたので、驪山へ向かったものと推測し、慌てて追いかけた。
  • 道の途中で戎主と行き合い、車馬を寄せ合って互いに労をねぎらった。話が幽王がすでに殺されたことに及ぶと、申侯は大いに驚き、「私はもともと王の非を正させたいと思っただけで、こんなことになろうとは思いもよらなかった。後世、君に不忠な者は私を口実にするだろう」と言った。すぐに従者に命じてその遺骸を収め、礼を尽くして葬らせた。戎主は笑って「后の父どのはいわゆる婦人の仁というものだな」と言った。
  • 申侯は都に戻り、酒宴を設けて戎主をもてなした。庫中の宝玉を残らず取り出し、さらに金や絹十車分を集めて贈り、これで満足して帰ってくれることを望んだ。ところが戎主は幽王を殺したことを不世出の功と自負し、人馬を京城に居座らせたまま、終日酒宴に耽り、まったく軍を引いて帰国する意思を見せなかった。民衆はみな申侯を恨むようになった。
  • 申侯はどうしようもなく、密書を三通したため、人を遣わして三方の諸侯のもとに送り、期日を約して勤王の兵を合わせることを申し合わせた。北路は晋侯姫仇、東路は衛侯姫和、西路は秦君嬴開であった。さらに鄭国にも人を遣わし、鄭伯が王事に殉じたことを世子掘突に報告し、兵を起こして復讐するよう促した。この件はひとまず措く。

鄭世子掘突の初戦

  • 世子掘突は年二十三歳、身の丈八尺、きわめて勇ましく強い気性の人物であった。父の戦死を聞くと悲憤やるかたなく、白の袍に白の帯を着け、戦車三百乗を率いて夜通し馳せつけた。早くも斥候がこれを犬戎主に伝え、あらかじめ備えが整えられていた。
  • 掘突が着くとすぐに進軍しようとしたが、公子成が諫めて言った。「我が軍は道を急ぎ疲労も抜けておりません。まずは塹壕を深くし塁を固くして、諸侯の兵が集まるのを待ち、その後合流して攻めるのが万全の策です。」掘突は「君父の仇を討つのに、礼では武器を取りに引き返すことさえ許されぬ。しかも犬戎は驕り高ぶり油断しているだろうから、鋭気をもって怠りを撃てば、攻めて勝てぬはずがない。もし諸侯の兵が集まるのを待てば、軍の士気が緩んでしまうではないか」と言い、軍を率いてまっすぐ城下に迫った。
  • 城上は旗を伏せ鼓を静め、まったく動きがなかった。掘突は「けだものの賊め、なぜ城を出て一戦を決しないのか」と大いに罵った。城上は答えなかった。掘突は左右に城攻めの準備を命じたが、突然、林の奥深くで大きな銅鑼の音が響き、一隊の軍が背後から現れた。これは犬戎主があらかじめ外に伏せておいた計略であった。掘突は大いに驚き、慌てて槍を構えて応戦した。城上でまた銅鑼の音が響き、城門が大きく開かれ、さらに一隊の軍が突出した。掘突は前に孛丁、後ろに満也速と、両側から挟撃され、支えきれず大敗して退いた。戎兵は三十里余り追撃してから引き返した。
  • 掘突は残兵をまとめ、公子成に「私が卿の言葉を聞かなかったばかりに敗北を招いた。今、どうすればよいか」と言った。公子成は「ここから濮陽はさほど遠くありません。衛侯は老練な人物です。なぜそこへ頼らないのですか。鄭と衛が合流すれば、志を遂げられましょう」と言った。掘突はこれに従い、濮陽の道を目指して進んだ。

諸侯の集結

  • 二日ほど行くと、砂塵が上がり、無数の兵車が壁のように押し寄せてくるのが見えた。中央に座る一人の諸侯は、錦の袍に金の帯を締め、年を経てなお血色のよい面に白髪をいただき、ゆらゆらと神仙のような趣があった。それは衛武公姫和であり、すでに八十余歳であった。
  • 掘突は車を止めて大声で「私は鄭の世子掘突です。犬戎の兵が都を攻め、私の父は戦場で死にました。我が軍もまた敗れました。特に救援を求めに参りました」と言った。武公は両手を組んで礼をして答えた。「世子よ、安心せよ。私は国を挙げて王のために馳せ参じている。秦・晋の兵もほどなく到着するだろう。何をけだものごときに恐れることがあろう。」
  • 掘突は衛侯を先に進ませ、車を転じて再び鎬京に近づき、二十里離れた地点で二か所に分かれて陣を敷いた。人を遣わして秦・晋二国の挙兵の消息を探らせた。物見が報告した。「西の方角で軍の鐘と太鼓が大いに鳴り、車の音が地を轟かせ、繍旗には大きく『秦』の字が書かれています。」武公は「秦の爵位は大国に従属する身分に過ぎないが、戎の風俗に慣れており、その兵は勇猛で戦上手だ。犬戎が恐れるのもこの秦だ」と言った。言い終わらぬうちに、北の方角からも物見の報告があった。「晋の兵もまた到着し、すでに北門に陣を敷いております。」武公は大いに喜んで「二国の兵が来たからには、大事は成るぞ」と言い、すぐに人を遣わして秦・晋の二君に連絡を取らせた。
  • ほどなく二君はともに武公の陣中に到着し、互いに労をねぎらった。二君は掘突が全身白装束であるのを見て、「これはどなたか」と尋ねた。武公は「これは鄭の世子である」と言い、鄭伯の戦死と幽王が殺された事の顛末を語った。二君はしきりに嘆息した。
  • 武公は言った。「老夫は年老いて見識もないが、ただ臣子としての道義を思い、義において逃れられず、力を尽くしてここに来た。生臭い戎狄を掃き払うには、ひとえに大国のお力に頼るほかない。今、どのような策を取ればよいだろうか。」秦の襄公は言った。「犬戎の狙いは子女や金や絹を略奪することにあります。彼らは我らの兵が着いたばかりだと思って、必ず防備を怠っているはずです。今夜三更、兵を分けて東・南・北の三方から攻め、西門だけをわざと空けて逃げ道としましょう。そこに鄭の世子の伏兵を置き、彼らが逃げ出すのを待って背後から挟み撃ちにすれば、必ず全勝いたします。」武公は「その計はまことに妙だ」と言った。

鎬京奪還

  • 話は変わり、申侯は城中で四国の兵が到着したと聞いて大いに喜び、小周公咺と密議した。「攻城を待つだけで、こちらは城門を開いて内応しよう。」そこで戎主に対し、まず宝貨や金や絹を右先鋒の孛丁に兵を分けて護送させ、本国へ送り返すよう勧めた。戎の兵力を割かせてその勢いを削ごうという狙いであった。また左先鋒満也速にはことごとく兵を率いて城を出て迎撃させた。犬戎主はこれを親切な進言と受け止め、すべてに従った。
  • 満也速は東門の外に陣を敷き、ちょうど衛の兵と対峙し、翌日の交戦を約束した。ところが三更を過ぎたころ、衛の軍に大営を急襲された。満也速は刀を執って馬に乗り、急いで応戦しようとしたが、戎兵は四散して逃げ、彼一人の力では支えきれず、ともに逃げるほかなかった。
  • 三方の諸侯は鬨の声を上げて城を攻めた。突然城門が大きく開かれ、三方の軍馬が一斉になだれ込み、まったく抵抗を受けなかった。これは申侯の計略であった。戎主は夢の中で驚き覚め、馬にまたがってまっすぐ西門から出たが、従う者は数百人にも満たなかった。そこにまた鄭の世子掘突が行く手を阻んで戦った。危急の際、満也速が敗残兵をまとめて駆けつけ、乱戦の末にどうにか脱出した。掘突はあえて深追いせず、城に入って諸侯と対面したところ、ちょうど夜が明けきったところであった。褒姒は逃げる間もなく、自ら縊れて死んだ。
  • (詩:錦繍の中で国母と称された身が、腥羶の隊列の中では異民族の妻となった。ついには首を縊る苦しみを免れなかったのだから、妃として楽しんだ日々の方がまだましだったであろう、という趣旨の詩、胡曾先生の作)

平王の擁立

  • 申侯は大いに宴席を設け、四方の諸侯をもてなした。すると首席の衛武公が箸を置いて立ち上がり、諸侯に「今日は君を失い国が破れた日、これは臣子が酒を飲んでよい時ではない」と言った。人々は口をそろえて「我らは教えに従いましょう」と両手を組んで礼をした。武公は言った。「国に一日も君主がいなくてはならない。今、故太子は申にいる。これを奉じて王位に即けるのがよかろう。諸君はどう思うか。」襄公は「君侯のこの言葉こそ、文王・武王・成王・康王の霊に適うものです」と言った。世子掘突は「私めは寸功もございませんが、この擁立の事には微力を尽くし、亡き司徒の志を成し遂げたく存じます」と言った。武公は大いに喜び、杯を挙げて彼を労った。
  • そこで席上で上奏文を作成し、天子の車駕を整えた。各国はみな兵を添えて助けようとしたが、掘突は「もとより敵に当たるためではないのに、多くの兵など何の用がありましょう。本国の兵だけで十分です」と言った。申侯は「わが小国には戦車三百乗がございます。道案内を務めさせていただきましょう」と言った。
  • 翌日、掘突は申国へ赴き、太子宜臼を迎えて王とすることになった。宜臼は申にあって終日気を揉み、外戚の申侯がこの度どうなったか吉凶を案じていた。突然、鄭の世子が外戚の申侯や諸侯連名の上奏文を携えて奉迎に来たとの報せに、心中驚いた。開いて見ると、幽王がすでに犬戎に殺されたことを知り、父子の情から思わず声を上げて泣いた。
  • 掘突は奏上した。「太子は社稷を第一とお考えください。早く大位にお即きになり、人心を安んじられるべきです。」宜臼は「私は今、天下に不孝の名を負うことになった。事すでにこのようになった以上、出発するほかない」と言った。
  • 一行はやがて鎬京に着いた。周公がまず先駆けて城に入り、宮殿を清め整えた。国舅申侯は衛・晋・秦三国の諸侯を率い、鄭の世子や朝中の百官とともに、郭外三十里まで出迎えた。吉日を占って入城した。宜臼は宮室が残骸となっているのを見て、涙を流した。まず申侯に会って報告を済ませ、その後、袞冕を着けて廟に告げ、王位に即いた。これが平王である。

論功行賞

  • 平王は殿に登り、諸侯百官の朝賀を受けた後、申伯を殿上に召して「朕は廃棄された身でありながら祖先の祭祀を継ぐことができたのは、すべて母方の一族の力である」と言い、爵位を進めて申公とした。申伯は辞退して「賞罰が明らかでなく国政が清くなかったのに、鎬京が滅びてまた存続できたのは、諸侯が勤王した功によるものです。臣は犬戎を禁じ止めることができず先王に罪を得ました。臣は万死に値します。どうして賞を受けられましょうか」と三度固辞した。平王は元の侯爵に戻すよう命じた。
  • 衛武公はさらに奏上した。「褒姒母子は寵を頼んで倫理を乱し、虢石父・尹球らは君を欺き国を誤らせました。すでに死んだとはいえ、みな追って貶めるべきです。」平王は一つ一つこれを許した。衛侯和は公に爵位を進められ、晋侯仇は河内にある従属国の地を加増された。鄭伯友は王事に殉じたため桓の諡を賜り、世子掘突は伯爵を襲い、祊の田千頃を加増された。秦君はもともと従属国であったが、秦伯に封を進められ諸侯の列に加わった。小周公咺は太宰の職を拝した。申后は太后と号された。褒姒と伯服はともに庶人に落とされた。虢石父・尹球・祭公は、先祖に功があったことと王事に殉じたことを考慮し、本人の爵号のみを削り、子孫の襲位は許された。さらに安民の榜を出し、京師で被害を受けた民を慰撫した。群臣を集めて大宴を開き、歓を尽くして散会した。
  • (詩:百官はこの日恩主に巡り会い、万民は今朝太平を喜んだ。歴代の功徳が厚く積まれていたからこそ、山河は再び整い中興の望みが見えるのだ、という趣旨の詩)
  • 翌日、諸侯が謝恩に訪れると、平王は改めて衛侯を司徒に、鄭伯掘突を卿士に封じ、朝廷に留めて太宰咺とともに輔政させた。ただ申・晋二君は、本国が戎狄に迫近しているため、暇を告げて帰国した。申侯は鄭の世子掘突がきわめて勇ましく強い気性であるのを見て、娘を娶らせた。これが武姜である。この話はここで擱く。

東遷の議論

  • 犬戎はかつて鎬京を一度荒らしたことで中原の道に通じるようになったが、諸侯に城から追い出されたとはいえ、その勢いはまだ挫かれておらず、しかも骨折り損に終わったと恨みを抱いていた。そこで大いに戎兵を起こし周の領土を侵し占領し、岐豊の地は半ば戎の手に落ちた。次第に鎬京に迫り、連月烽火が絶えなかった。加えて宮殿は焼失以来、十のうち五つも残っておらず、崩れた壁と倒れた棟木の光景はまことに寂しいものであった。
  • 平王は一つには府庫が空虚で宮室を建て直す力がなく、もう一つには犬戎の早晩の侵入を恐れ、ついに洛邑への遷都の思いを抱くようになった。ある日、朝を退いてから群臣に「昔、王祖成王は鎬京を定めた後、さらに洛邑を営まれた。これはどういう理由か」と尋ねた。群臣は口をそろえて「洛邑は天下の中心であり、四方から貢を納めるにも道のりが均等です。それゆえ成王は召公に命じて土地を占わせ、周公が興築させ、東都と号しました。宮室の制度は鎬京と同じで、朝会の年ごとに天子は東都に行幸し諸侯と接見されました。これは民を便ならしめる政です」と奏上した。
  • 平王は「今、犬戎が鎬京に迫り、禍は測りがたい。朕は洛に遷都しようと思うが、どうか」と言った。太宰咺は奏上した。「今、宮殿は焼失し、造営は容易ではなく、民を労し財を損ない、民は嘆き恨んでおります。西戎はこの隙に乗じて起こるでしょう、どうしてこれを防げましょうか。洛に都を遷すことこそ、まことに便利です。」文武両列の官は皆、犬戎を懸念して口をそろえて「太宰の言はもっともです」と言った。ただ司徒衛武公だけがうつむいて長嘆した。
  • 平王は「老司徒はどうして独り何も言わぬのか」と言った。武公は奏上した。「老臣は年九十を超えておりますが、君王が老いぼれを見捨てず六卿に備えていただいております。知りながら言わなければ君に忠でないことになり、衆に逆らって言えば友に和さないことになります。しかしそれでも友に罪を得るより、あえて君に罪を得ないことを選びます。そもそも鎬京は左に殽函、右に隴蜀を控え、山を背負い河を帯び、沃野千里、天下の形勝はこれに勝るものはありません。洛邑は天下の中心ではありますが、その地勢は平坦で四方から攻められやすい地です。それゆえ先王は両都を並べ建てられながらも、西京に宅して天下の要を振るい、東都は一時の巡幸に備えるものとされたのです。我が王がもし鎬京を棄てて洛に遷られれば、恐らく王室はこれより衰弱してしまうでしょう。」
  • 平王は「犬戎が岐豊を侵し奪い、その勢いは甚だ荒れ狂っている。しかも宮殿は残り崩れ、威容を示すこともできぬ。朕の東遷はまことにやむを得ぬことなのだ」と言った。
  • 武公は奏上した。「犬戎は豺狼のような性質を持つ者、寝室に招き入れてはなりません。申公が兵を借りたのは失策であり、盗を招き入れる門を開いたようなもので、宮殿を焼かせ先王を殺害するに至らしめました。これは倶に天を戴くことのできぬ仇です。王は今こそ志を励まし自ら強くし、財を節し民を愛し、兵を練り武を訓じ、先王が北伐南征した先例に倣い、あの戎主を虜にして七廟に献じられれば、なお前の恥をすすぐことができましょう。もし忍んで仇を避け、ここを捨ててかしこに移れば、我らが一尺退けば敵は一尺進みます。恐らくは蚕食される憂いは岐豊だけにとどまらないでしょう。昔、堯舜は位にあっても茅葺きの屋根と土の階段の質素な宮に住み、禹も低い宮に住んでこれを陋しいとしませんでした。京師の壮観など、宮室にあるものでしょうか。我が王、どうかよくお考えください。」
  • 太宰咺はさらに奏上した。「老司徒は変わらぬことを良しとする論であって、変化に通じた言葉ではございません。先王が政を怠り倫理を滅ぼしたのは、自ら賊を招いたことで、そのことは今さら深く咎めるまでもありません。今、王はようやく灰燼を除いて名号を正されたばかりで、府庫は空虚、兵力は少なく弱いのです。民は犬戎を恐れること、まるで山犬や虎を恐れるかのようです。一朝、戎騎が長駆すれば民心は瓦解してしまいます。誤国の罪は、いったい誰が引き受けるのでしょうか。」
  • 武公はさらに奏上した。「申公が戎を呼び寄せられたのなら、必ず戎を退けることもできましょう。王は人を遣わして問い合わせるべきです。必ず良い策があるはずです。」

東遷の決行

  • ちょうど話し合っている最中に、国舅申公が急を告げる表文を人に持たせて届けさせた。平王が開いて見ると、大意は「犬戎の侵擾がやまず、亡国の禍が迫っております。どうか我が王、姻戚のよしみを念じられ、援軍を送ってください」というものであった。平王は「舅氏自身が身動きできない有様で、どうして朕を助けられよう。東遷の事は、朕は今ここに決した」と言い、太史に東行の日を占わせるよう命じた。
  • 衛武公は「臣の職は司徒にあります。もし主上がひとたび遷られれば、民は離散してしまいます。それは臣の咎めであり、逃れられません」と言い、あらかじめ榜を出して民に告げ知らせた。東遷に従いたい者は急いで準備し、一斉に出発するようにと。祝史が文をつくり、まず遷都の由来を宗廟に告げた。
  • 定めの日、大宗伯が七廟の位牌を抱いて先頭の車に乗り込んだ。秦伯嬴開は平王の東遷を聞いて自ら兵を率いて護衛にあたった。民は老いを助け幼を携えて従う者が数えきれないほどであった。
  • かつて宣王の大祭の夜、美貌の女が夢に現れ、大笑いを三度し、大泣きを三度し、慌てる様子もなく七廟の位牌をひとまとめに束ねて、ゆるゆると東を望んで去っていったことがあった。大笑いを三度したのは、褒姒が驪山の烽火で諸侯を戯弄したことに応じ、大泣きを三度したのは、幽王・褒姒・伯服の三つの命がともに絶えたことに応じている。位牌が束ねられて東へ向かったのは、まさに今日の東遷に応じるもので、この夢は何一つ験されなかったことがない。
  • また太史伯陽父の辞に「泣いたり笑ったりし、羊は鬼に呑まれ、馬は犬に追われる。慎むべし慎むべし、檿弧箕箙」とあったが、「羊は鬼に呑まれる」とは宣王四十六年に鬼に遇って亡くなったことで、これは己未の年にあたる。「馬は犬に追われる」とは犬戎が侵入したことで、幽王十一年庚午の年にあたる。これより西周はついに滅んだ。天数がこのように定まっていたことは、伯陽父の占いの神妙さをもよく示している。
  • 東遷後の事がどうなるかは、次回を見てのお楽しみ。
原文(底本)
話說申侯進表之後,有人在鎬京探信,聞知幽王命虢公為將,不日領兵伐申,星夜奔回,報知申侯。申侯大驚曰:「國小兵微,安能抵敵王師?」大夫呂章進曰:「天子無道,廢嫡立庶,忠良去位,萬民皆怨,此孤立之勢也。今西戎兵力方強,與申國接壤,主公速致書戎主,借兵向鎬,以救王后,必要天子傳位於故太子,此伊周之業也。語云:「先發制人,機不可失。」申侯曰:「此言甚當。」遂備下金繒一車,遣人賷書與犬戎借兵,許以破鎬之日,府庫金帛,任憑搬取。戎主曰:「中國天子失政,申侯國舅,召我以誅無道,扶立東宮,此我志也。」遂發戎兵一萬五千,分為三隊,右先鋒孛丁,左先鋒滿也速,戎主自將中軍。槍刀塞路,旌旆蔽空,申侯亦起本國之兵相助,浩浩蕩蕩,殺奔鎬京而來,出其不意,將王城圍繞三匝,水息不通。幽王聞變,大驚曰:「機不密,禍先發。我兵未起,戎兵先動,此事如何?」虢石父奏曰:「吾王速遣人於驪山舉起烽煙,諸侯救兵必至,內外夾攻,可取必勝。」幽王從其言,遣人舉烽。諸侯之兵,無片甲來者。蓋因前被烽火所戲,是時又以為詐,所以皆不起兵也。幽王見救兵不至,犬戎日夜攻城,即謂石父曰:「賊勢未知強弱,卿可試之。朕當簡閱壯勇,以繼其後。」虢公本非能戰之將,只得勉強應命,率領兵車二百乘,開門殺出。申侯在陣上望見石父出城,指謂戎主曰:「此欺君誤國之賊,不可走了。」戎主聞之曰:「誰為我擒之?」孛丁曰:「小將願往。」舞刀拍馬,直取石父。鬥不上十合,石父被孛丁一刀斬於車下。戎主與滿也速一齊殺將前進,喊聲大舉,亂殺入城。逢屋放火,逢人舉刀,連申侯也阻當他不住,只得任其所為,城中大亂。

  幽王未及閱軍,見勢頭不好,以小車載褒姒和伯服,開後宰門出走。司徒鄭伯友自後趕上,大叫:「吾王勿驚,臣當保駕。」出了北門,迤邐望驪山而去。途中又遇尹球來到,言:「犬戎焚燒宮室,搶掠庫藏,祭公已死於亂軍之中矣。」幽王心膽俱裂。鄭伯友再令舉烽,烽煙透入九霄,救兵依舊不到。犬戎兵追至驪山之下,將驪宮團團圍住,口中只叫:「休走了昏君!」幽王與褒姒唬做一堆,相對而泣。鄭伯友進曰:「事急矣!臣拼微命保駕,殺出重圍,竟投臣國,以圖後舉。」幽王曰:「朕不聽叔父之言,以至於此。朕今日夫妻父子之命,俱付之叔父矣。」當下鄭伯教人至驪宮前,放起一把火來,以惑戎兵。自引幽王從宮後衝出。鄭伯手持長矛,當先開路。尹球保著褒后母子,緊隨幽王之後。行不多步,早有犬戎兵攔住,(乃是小將古里赤。)鄭伯咬牙大怒,便接住交戰。戰不數合,一矛刺古里赤於馬下。戎兵見鄭伯驍勇,一時驚散。約行半里,背後喊聲又起,先鋒孛丁引大兵追來。鄭伯叫尹球保駕先行,親自斷後,且戰且走。卻被犬戎鐵騎橫衝,分為兩截。鄭伯困在垓心,全無懼怯,這根矛神出鬼沒,但當先者無不著手。犬戎主教四面放箭,箭如雨點,不分玉石,可憐一國賢侯,今日死於萬鏃之下。左先鋒滿也速,早把幽王車仗擄住。犬戎主看見袞袍玉帶,知是幽王,就車中一刀砍死,並殺伯服。褒姒美貌饒死,以輕車載之,帶歸氈帳取樂。尹球躲在車箱之內,亦被戎兵牽出斬之。

  統計幽王在位共一十一年。因賣桑木弓箕草袋的男子,拾取清水河邊妖女,逃於褒國,(此女即褒姒也。)蠱惑君心,欺凌嫡母,害得幽王今日身亡國破。昔童謠所云:「月將升,日將沒;檿孤箕箙,實亡周國。」正應其兆,天數已定於宣王之時矣。東屏先生有詩曰:

    多方圖笑掖庭中,烽火光搖粉黛紅。自絕諸侯猶似可,忍教國祚喪羌戎。

又隴西居士詠史詩曰:

    驪山一笑犬戎嗔,弧矢童謠已驗真。十八年來猶報應,挽回造化是何人?

又有一絕,單道尹球等無一善終,可為奸臣之戒。詩云:

    巧話讒言媚暗君,滿圖富貴百年身。一朝駢首同誅戮,落得千秋罵佞臣。

又有一絕,詠鄭伯友之忠。詩曰:

    石父捐軀尹氏亡,鄭桓今日死勤王。三人總為周家死,白骨風前那個香?

  且說申侯在城內,見宮中火起,忙引本國之兵入宮,一路撲滅。先將申后放出冷宮。巡到瓊臺,不見幽王褒姒蹤跡。有人指說:「已出北門去矣。」料走驪山,慌忙追趕。於路上正迎著戎主,車馬相湊,各問勞苦。說及昏君已殺,申侯大驚曰:「孤初心止欲糾正王慝,不意遂及於此。後世不忠於君者,必以孤為口實矣!」亟令從人收殮其屍,備禮葬之。戎主笑曰:「國舅所謂婦人之仁也!」卻說申侯回到京師,安排筵席,款待戎主。庫中寶玉,搬取一空,又斂聚金繒十車為贈,指望他滿欲而歸。誰想戎主把殺幽王一件,自以為不世之功,人馬盤踞京城,終日飲酒作樂,絕無還軍歸國之意。百姓皆歸怨申侯。申侯無可奈何,乃寫密書三封,發人往三路諸侯處,約會勤王。那三路諸侯,北路晉侯姬仇,東路衛侯姬和,西路秦君嬴開。又遣人到鄭國,將鄭伯死難之事,報知世子掘突,教他起兵復仇。不在話下。

  單說世子掘突,年方二十三歲,生得身長八尺,英毅非常。一聞父親戰死,不勝哀憤,遂素袍縞帶,帥車三百乘,星夜奔馳而來。早有探馬報知犬戎主,預作準備。掘突一到,便欲進兵。公子成諫曰:「我兵兼程而進,疲勞未息,宜深溝固壘,待諸侯兵集,然後合攻。此萬全之策也。」掘突曰:「君父之仇,禮不反兵。況犬戎志驕意滿,我以銳擊惰,往無不克。若待諸侯兵集,豈不慢了軍心?」遂麾軍直逼城下。城上偃旗息鼓,全無動靜。掘突大罵:「犬羊之賊,何不出城決一死戰?」城上並不答應。掘突喝教左右打點攻城。忽聞叢林深處,巨鑼聲響,一枝軍從後殺來。乃犬戎主定計,預先埋伏在外者。掘突大驚,慌忙挺槍來戰。城上巨鑼聲又起,城門大開,又有一枝軍殺出。掘突前有孛丁,後有滿也速,兩下夾攻,抵當不住,大敗而走。戎兵追趕三十餘里方回。掘突收拾殘兵,謂公子成曰:「孤不聽卿言,以至失利。今計將何出?」公子成曰:「此去濮陽不遠,衛侯老誠經事,何不投之?鄭衛合兵,可以得志。」掘突依言,吩咐望濮陽一路而進。

  約行二日,塵頭起處,望見無數兵車,如牆而至。中間坐著一位諸侯,錦袍金帶,蒼顏白髮,飄飄然有神仙之態。那位諸侯,正是衛武公姬和,時已八十餘歲矣。掘突停車高叫曰:「我鄭世子掘突也。犬戎兵犯京師,吾父死於戰場;我兵又敗,特來求救。」武公拱手答曰:「世子放心。孤傾國勤王,聞秦晉之兵,不久亦當至矣。何懮犬羊哉?」掘突讓衛侯先行,撥轉車轅,重回鎬京,離二十里,分兩處下寨。教人打聽秦晉二國起兵消息。探子報道:「西角上金鼓大鳴,車聲轟地,繡旗上大書『秦』字。」武公曰:「秦爵雖附庸,然習於戎俗,其兵勇悍善戰,犬戎之所畏也。」言未畢,北路探子又報:「晉兵亦至,已於北門立寨。」武公大喜曰:「二國兵來,大事濟矣!」即遣人與秦晉二君相聞。須臾之間,二君皆到武公營中,互相勞苦。二君見掘突渾身素縞,問:「此位何人?」武公曰:「此鄭世子也。」遂將鄭伯死難,與幽王被殺之事,述了一遍。二君歎息不已。武公曰:「老夫年邁無識,止為臣子,義不容辭,勉力來此。掃蕩腥羶,全仗上國。今計將安出?」秦襄公曰:「犬戎之志,在於剽掠子女金帛而已。彼謂我兵初至,必不堤防。今夜三更,宜分兵東南北三路攻打。獨缺西門,放他一條走路。卻教鄭世子伏兵彼處,候其出奔,從後掩擊,必獲全勝。」武公曰:「此計甚善!」

  話分兩頭。再說申侯在城中聞知四國兵到,心中大喜。遂與小周公咺密議:「只等攻城,這裏開門接應。」卻勸戎主先將寶貨金繒,差右先鋒孛丁分兵押送回國,以削其勢;又教左先鋒滿也速盡數領兵出城迎敵。犬戎主認作好話,一一聽從。卻說滿也速營於東門之外,正與衛兵對壘,約會明日交戰。不期三更之後,被衛兵劫入大寨。滿也速提刀上馬,急來迎敵。其奈戎兵四散亂竄,雙拳兩臂,撐持不住,只得一同奔走。三路諸候,吶喊攻城。忽然城門大開,三路軍馬一擁而入,毫無撐禦。此乃申侯之計也。戎主在夢中驚覺,跨著劃馬,逕出西城,隨身不數百人。又遇鄭世子掘突攔住廝戰。正在危急,卻得滿也速收拾敗兵來到,混戰一場,方得脫身。掘突不敢窮追,入城與諸侯相見,恰好天色大明。褒姒不及隨行,自縊而亡。胡曾先生有詩歎云:

    錦繡圍中稱國母,腥羶隊裏作番婆,到頭不免投繯苦,爭似為妃快樂多!

  申侯大排筵席,管待四路諸侯。只見首席衛武公推箸而起,謂諸侯曰:「今日君亡國破,豈臣子飲酒之時耶?」眾人齊聲拱立曰:「某等願受教訓。」武公曰:「國不可一日無君,今故太子在申,宜奉之以即王位。諸君以為何如?」襄公曰:「君侯此言,文、武、成、康之靈也。」世子掘突曰:「小子身無寸功,迎立一事,願效微勞,以成先司徒之志。」武公大喜,舉爵勞之。遂於席上草成表章,備下法駕。各國皆欲以兵相助。掘突曰:「原非赴敵,安用多徒?只用本兵足矣。」申侯曰:「下國有車三百乘,願為引導。」次日,掘突遂往申國,迎太子宜臼為王。卻說宜臼在申,終日納悶,不知國舅此去,凶吉如何。忽報鄭世子賷著國舅申侯同諸侯連名表章,奉迎還京,心下倒吃了一驚。展開看時,乃知幽王已被犬戎所殺,父子之情,不覺放聲大哭。掘突奏曰:「太子當以社稷為重,望早正大位,以安人心。」宜臼曰:「孤今負不孝之名於天下矣!事已如此,只索起程。」不一日,到了鎬京。周公先驅入城,掃除宮殿。國舅申侯引著衛、晉、秦三國諸侯,同鄭世子及一班在朝文武,出郭三十里迎接,卜定吉日進城。宜臼見宮室殘毀,淒然淚下。當下先見了申侯,稟命過了。然後服袞冕告廟,即王位,是為平王。

  平王升殿,眾諸侯百官朝賀已畢。平王宣申伯上殿,謂曰:「朕以廢棄之人,獲承宗祧,皆舅氏之力也。」進爵為申公。申伯辭曰:「賞罰不明,國政不清,鎬京亡而復存,乃眾諸侯勤王之功。臣不能禁戢犬戎,獲罪先王,臣當萬死!敢領賞乎?」堅辭三次。平王令復侯爵。衛武公又奏曰:「褒姒母子恃寵亂倫,虢石父尹球等欺君誤國,雖則身死,均當追貶。」平王一一准奏。衛侯和進爵為公。晉侯仇加封河內附庸之地。鄭伯友死於王事,賜諡為桓。世子掘突襲爵為伯,加封祊田千頃。秦君原是附庸,加封秦伯,列於諸侯。小周公咺拜太宰之職。申后號為太后。褒姒與伯服,俱廢為庶人。虢石父、尹球、祭公,姑念其先世有功,兼死於王事,止削其本身爵號,仍許子孫襲位。又出安民榜,撫慰京師被害百姓。大宴群臣,盡歡而散。有詩為證:

    百官此日逢恩主,萬姓今朝喜太平。自是累朝功德厚,山河再整望中興。

次日,諸侯謝恩,平王再封衛侯為司徒,鄭伯掘突為卿士,留朝與太宰咺一同輔政。惟申晉二君,以本國迫近戎狄,拜辭而歸。申侯見鄭世子掘突英毅非常,以女妻之,是為武姜。此話擱過不提。

  卻說犬戎自到鎬京擾亂一番,識熟了中國的道路,雖則被諸侯驅逐出城,其鋒未曾挫折,又自謂勞而無功,心懷怨恨。遂大起戎兵,侵占周疆,岐豐之地,半為戎有。漸漸逼近鎬京,連月烽火不絕。又宮闕自焚燒之後,十不存五,頹牆敗棟,光景甚是淒涼。平王一來府庫空虛,無力建造宮室,二來怕犬戎早晚入寇,遂萌遷都洛邑之念。一日,朝罷,謂群臣曰:「昔王祖成王,既定鎬京,又營洛邑,此何意也?」群臣齊聲奏曰:「洛邑為天下之中,四方入貢,道里適均,所以成王命召公相宅,周公興築,號曰東都,宮室制度,與鎬京同。每朝會之年,天子行幸東都,接見諸侯,此乃便民之政也。」平王曰:「今犬戎逼近鎬京,禍且不測,朕欲遷都於洛何如?」太宰咺奏曰:「今宮闕焚毀,營建不易,勞民傷財,百姓嗟怨。西戎乘釁而起,何以禦之?遷都於洛,實為至便。」兩班文武,俱以犬戎為慮,齊聲曰:「太宰之言是也。」惟司徒衛武公低頭長歎。平王曰:「老司徒何獨無言?」武公乃奏曰:「老臣年逾九十,蒙君王不棄老耄,備位六卿。若知而不言,是不忠於君也;若違眾而言,是不和於友也。然寧得罪於友,不敢得罪於君。夫鎬京左有殽函,右有隴蜀,披山帶河,沃野千里,天下形勝,莫過於此。洛邑雖天下之中,其勢平衍,四面受敵之地。所以先王雖並建兩都,然宅西京,以振天下之要,留東都以備一時之巡。吾王若棄鎬京而遷洛,恐王室自是衰弱矣!」平王曰:「犬戎侵奪岐豐,勢甚猖獗。且宮闕殘毀,無以壯觀。朕之東遷,實非得已。」武公奏曰:「犬戎豺狼之性,不當引入臥闥。申公借兵失策,開門揖盜,使其焚燒宮闕,戮及先王,此不共之仇也。王今勵志自強,節用愛民,練兵訓武,效先王之北伐南征,俘彼戎主,以獻七廟,尚可湔雪前恥。若隱忍避仇,棄此適彼,我退一尺,敵進一尺,恐蠶食之憂,不止於岐豐而已。昔堯舜在位,茅茨土階,禹居卑宮,不以為陋。京師壯觀,豈在宮室?惟吾王熟思之!」太宰咺又奏曰:「老司徒乃安常之論,非通變之言也。先王怠政滅倫,自招寇賊,其事已不足深咎。今王掃除煨燼,僅正名號,而府庫空虛,兵力單弱。百姓畏懼犬戎,如畏豺虎。一旦戎騎長驅,民心瓦解,誤國之罪,誰能任之?」武公又奏曰:「申公既能召戎,定能退戎。王遣人問之,必有良策。」

  正商議間,國舅申公遣人賷告急表文來到。平王展開看之,大意謂:犬戎侵擾不已,將有亡國之禍。伏乞我王憐念瓜葛,發兵救援。平王曰:「舅氏自顧不暇,安能顧朕?東遷之事,朕今決矣。」乃命太史擇日東行。衛武公曰:「臣職在司徒,若主上一行,民生離散,臣之咎難辭矣。」遂先期出榜示諭百姓:如願隨駕東遷者,作速準備,一齊起程。祝史作文,先將遷都緣由,祭告宗廟。至期,大宗伯抱著七廟神主,登車先導。秦伯嬴開聞平王東遷,親自領兵護駕。百姓攜老扶幼,相從者不計其數。當時宣王大祭之夜,夢見美貌女子,大笑三聲,大哭三聲,不慌不忙,將七廟神主,捆著一束,冉冉望東而去。大笑三聲,應褒姒驪山烽火戲諸侯事。大哭三聲者,幽王、褒姒、伯服三命俱絕。神主捆束往東,正應今日東遷,此夢無一不驗。又太史伯陽父辭云:「哭又笑,笑又哭,羊被鬼吞,馬逢犬逐。慎之慎之!檿弧箕箙。」羊被鬼吞者,宣王四十六年遇鬼而亡,乃己未年。馬逢犬逐,犬戎入寇,幽王十一年庚午也。自此西周遂亡,天數有定如此,亦見伯陽父之神占矣。東遷後事如何,且看下回分解。

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