東周列國志第六十七回 盧蒲癸、計って慶封を逐う/楚の霊王、大いに諸侯を合わせる (盧蒲癸計逐慶封 楚靈王大合諸侯)
太子晋の昇仙と景王の即位、楚の公子囲が令尹となる
- さて周の霊王の長子は名を晋、字を子喬といい、天性聡明で笙を吹くのを好み、鳳凰の鳴き声を奏でることができた。太子に立てられていた。十七歳のとき、たまたま伊水・洛水のあたりに遊びに出かけ、帰ってから死んだ。霊王はこれをひどく悲しんだ。
- ある人が報せて言った。「太子は緱嶺の上で、白鶴にまたがって笙を吹き、里の人にこう言い伝えられました。『どうか天子によろしくお伝えください。私は浮丘公に従って嵩山に住むことになりました、たいへん楽しく暮らしております。どうかお気にかけられませぬように』」(浮丘公とは、昔の仙人である。)霊王は人を遣わしてその墓を発かせたところ、ただ空の棺があるばかりで、そこで彼が仙人となって去ったことを知った。
- 霊王二十七年に至り、霊王は太子晋が鶴を御して自分を迎えに来る夢を見た。目覚めてもなお笙の音が戸外に聞こえるようであった。霊王は「我が子が私を迎えに来た、私はもう逝くのだ」と言い、次子の貴に位を伝えるよう遺命し、病もなく崩じた。貴は即位し、これが景王である。この年、楚の康王もまた薨じた。令尹屈建は群臣とともに議り、康王の母を同じくする弟の麇を立てて王とした。まもなく屈建もまた没し、公子囲がこれに代わって令尹となった。この件についてはここまでにして、しばらく措く。
慶封の淫乱と盧蒲癸の帰参
- さて斉の相国慶封は、国政を専らにするようになって、ますます放埓を強め自堕落となった。ある日、盧蒲嫳の家で酒を飲んでいたとき、盧蒲嫳が妻に酒を勧めさせたところ、慶封はその妻を見て気に入り、そのまま通じてしまった。そこで国政を子の慶舎に任せ、自分の妻妾や財産を盧蒲嫳の家に移し、慶封は嫳の妻と同衾し、嫳もまた慶封の妻妾と通じ、互いに何の遠慮もなかった。時には両家の妻子たちが一つに集まり、酒を飲んで戯れ騒ぎ、酔ってはしゃぎ立てても、周りの者は皆口を覆って笑うだけで、封と嫳はいっこうに気にかけなかった。
- 嫳は兄の盧蒲癸を魯から呼び戻すよう求め、慶封はこれに従った。癸は斉に帰ると、封の命で慶舎に仕えることになった。舎は人並み外れた腕力の持ち主で、癸もまた勇があり、しかもへつらいが巧みであったので、慶舎はこれを気に入り、娘の慶姜を癸に嫁がせて舅と婿の間柄となり、寵愛と信頼はますます篤くなった。
- 癸は心の中でひたすら荘公の仇を討とうと願っていたが、同志を得られずにいた。そこで狩猟にかこつけて口を極めて王何の勇猛さを誉め称えた。慶舎が「王何は今どこにいるのか」と尋ねると、癸は「莒国におります」と答えた。慶舎は彼を呼び寄せさせた。王何が斉に帰ると、慶舎もまた彼を気に入った。崔慶の乱以来、暗殺を恐れ、慶舎は外出するたびに必ず親しい壮士に戈を持たせて前後を守らせることを常としていた。慶舎は盧蒲癸と王何を寵愛し信頼するようになったので、この二人に戈を持たせるようになり、他の者は近づくことを許されなかった。
慶氏の膳の逸話と内応工作
- 昔からの決まりで、公室は卿大夫の日々の食膳に、いつも一対の鶏を供することになっていた。当時、景公は鶏の足の裏の肉を好み、一度に数千も食するほどであったので、公卿の家々もこれにならい、皆鶏を食膳の最上の品としていた。そのため鶏の値段が高騰し、宮廷の御厨は旧来の割り当てでは間に合わなくなり、慶氏のもとへ増額を求めに行った。盧蒲嫳は慶氏の落ち度を世間に広めようと考え、慶舎に増額しないよう勧め、自ら御厨に向かって「食膳を供するのはお前たちの好きにするがよい、鶏でなければならぬということがあるか」と言った。御厨はそこで鶏の代わりに家鴨を用いた。下役たちは家鴨が食膳にふさわしい品ではないと疑い、こっそりその肉を盗み食いした。
- その日、大夫の高蠆(字は子尾)と欒灶(字は子雅)が景公に陪食していたが、食膳に鶏の姿がなく、ただ家鴨の骨だけがあるのを見て、激怒した。「慶氏が政を執りながら、公室から支給される我らの日々の食膳を削減し、我らをこれほどまでに侮るとは。」二人は食事をせずに退出した。高蠆は慶封を責めに行こうとしたが、欒灶がこれを止めた。すでにこの事は慶封の耳に入っており、慶封は盧蒲嫳に言った。「子尾と子雅が私に対して怒っている。どうしたものか。」盧蒲嫳は言った。「怒っているのなら殺してしまえばよいのです。何を恐れることがありましょう。」
- 盧蒲嫳はこの事を兄の癸に告げた。癸は王何と謀って言った。「高・欒の両家は、慶氏との間に隙がある。これを利用できるかもしれぬ。」何はそこで夜、高蠆のもとを訪ね、慶氏が高・欒の二家を攻めようと謀っていると偽って告げた。高蠆は激怒して言った。「慶封は実に崔杼とともに荘公を弑した張本人だ。今、崔氏はすでに滅んだが、慶氏だけがなお残っている。我らはこの際、先君のために仇を討つべきだ。」王何は言った。「これこそまさに私の願いです。大夫のあなたが外で謀りをめぐらし、この何が盧蒲氏(盧蒲癸)とともに内で謀るならば、事の成らぬことはございますまい。」高蠆はひそかに欒灶と相談し、機をうかがって事を起こそうとした。陳無宇・鮑国・晏嬰らも、皆この事情を知らぬ者はなかったが、慶氏の専横を憎んでいたので、誰も慶氏に告げ口しようとはしなかった。
- 盧蒲癸と王何は慶氏を討つことの吉凶を占い、占い師は占辞を献じて言った。「虎は穴を離れ、彪(虎の子)は血を見る。」
- 癸はこの亀甲占いの兆しを慶舎に尋ねて言った。「仇敵を討とうとする者があり、占いを得ましたので、吉凶をお伺いしたく存じます。」慶舎は兆しを見て言った。「必ず勝つだろう。虎と彪は親子の間柄だ。離れて血を見るというのだから、勝てぬはずがない。仇とするのはどのような人物か。」癸は「田舎の平民にすぎません」と答えた。慶舎はもはや疑わなかった。
- 秋八月、慶封は一族の慶嗣・慶遺を率いて東萊へ狩猟に赴き、陳無宇にも同行させた。無宇は父の須無に別れを告げに行くと、須無は言った。「慶氏に禍いが及ぼうとしている。同行すればその難に巻き込まれるかもしれぬ、辞退してはどうか。」無宇は答えた。「辞退すれば疑いを招きます、それゆえ辞退できないのです。もし何か別の理由をつけて私を呼び戻していただければ、帰ることを図ることができます。」そして慶封に従って狩猟に出た。
- 出発してしまうと、盧蒲癸は喜んで言った。「占い師のいう『虎、穴を離る』とは、まさにこのことで的中したのだ。」嘗祭の折に事を起こそうとしていた。陳須無はこれを知り、息子が慶封の災難に巻き込まれることを恐れ、自分の妻すなわち無宇の母が病気だと偽って、人を遣わし無宇を呼び戻させた。無宇は慶封に占ってもらうよう求めたが、問いは口に出さず、心中ひそかに祈念して陳氏と慶氏いずれに吉凶があるかを念じた。慶封は言った。「これは『滅身』の卦だ。下が上に勝ち、卑しき者が尊き者に勝つという意味だ。おそらく老夫人のご病気は、まだ癒えないのだろう。」無宇は亀甲を捧げ持ち、涙を流してやまなかった。慶封はこれを憐れみ、帰ることを許した。
- 慶嗣は無宇が車に乗るのを見て、「どこへ行くのか」と尋ねた。無宇は「母が病気なので帰らねばなりません」と言い、言い終えるとすぐに馬を走らせた。慶嗣は慶封に言った。「無宇は母の病気だと言っていましたが、おそらく偽りでしょう。国中に何か変事があるのかもしれません、あなたは早くお帰りになるべきです。」慶封は「息子が向こうにいるのだ、何を心配することがあろう」と言った。無宇はすでに黄河を渡り終えると、橋を落とし舟を壊し、慶封の帰路を断ったが、封はそれを知らなかった。
慶舎誅殺(廟での襲撃)
- 時に八月の上旬も終わりに近づいていた。盧蒲癸は一族の甲兵を配置し、慌ただしく戦闘の気配を漂わせていた。妻の慶姜は癸に言った。「あなたは何か事を起こそうとしながら、私に相談してくださらない、きっと成功しないでしょう。」癸は笑って言った。「お前は女だ、どうして私のために謀りごとができようか。」慶姜は言った。「賢い女性が男よりも優れた謀をなすことがあるとお聞きになったことはございませんか。武王には乱を治める臣が十人おりましたが、邑姜(武王の妃)もその一人でした。どうして相談できないことがございましょう。」癸は言った。「昔、鄭の大夫雍糾は、鄭君の密謀をその妻雍姫に漏らしてしまい、ついに身は死に主君は追放される羽目になった。世の大きな戒めとするところだ。私はそれを大変恐れているのだ。」慶姜は言った。「女は夫を天と仰ぐもの、夫が唱えれば妻はこれに従うものです、まして主君の命が重なるとあってはなおさらです。雍姫は母の言葉に惑わされて、その夫に害を及ぼしたのです。あれは閨門の害虫のようなもの、取り上げるに足りません。」癸は言った。「もしお前が雍姫の立場にあったなら、どうする。」慶姜は言った。「謀れるなら共に謀りますし、たとえ謀れなくとも、決して漏らしはいたしません。」
- 癸は言った。「今、斉侯は慶氏の専横に苦しみ、欒・高の両大夫と共謀して、お前の一族を追い落とそうとしている。私はそのために備えているのだ。お前は決して漏らすでないぞ。」慶姜は言った。「相国はちょうど狩猟に出ておられます、今こそ乗ずべき時でございます。」癸は「嘗祭の日を待とうと思う」と言った。慶姜は言った。「あの方(慶舎)は強情で我意を通す性分、酒色に耽り、公事を怠っておられます。何か刺激するものがなければ、お出かけにならないやもしれません。私が参りまして、その出発を止めるふりをいたしましょう、そうすればかえって出かける決心をなさるはずです。」癸は言った。「私はこの命をお前に託す、雍姫のようなことだけはしてくれるなよ。」
- 慶姜は慶舎のもとに行って言った。「子雅と子尾が嘗祭の隙をついて、あなた様に不利なことをしようとしていると聞きました。あなた様はお出かけになってはなりません。」慶舎は怒って言った。「あの二人は禽獣のようなもの、その皮を剥いで寝床に敷いてやるまでだ。誰が難を為せようか。たとえあったとしても、私が何を恐れることがあろうか。」慶姜は戻って盧蒲癸に報告し、あらかじめ準備を整えた。
- その日になり、斉の景公は太廟で嘗祭を執り行い、諸大夫が皆これに従った。慶舎が儀式を執り仕切り、慶繩が爵(酒器)を捧げる役を務め、慶氏の一族の甲兵が廟の周囲を固めていた。盧蒲癸と王何は護衛用の戈(寝戈)を執って慶舎の左右に立ち、寸時も離れなかった。陳・鮑の両家には、俳優の演技を得意とする馬丁がおり、わざと魚里街で演芸をさせた。慶氏の馬が驚いて逃げ出し、兵士たちが追ってこれを捕まえたので、皆その馬を繋ぎとめ、甲を解き武器を置いて、こぞって演芸を見物した。欒・高・陳・鮑の四氏の家臣たちは、皆廟門の外に集まった。盧蒲癸は小便を口実にして外に出て、手はずを整え、ひそかに太廟を包囲させた。
- 癸は再び中に入り、慶舎の後ろに立ち、戟を逆さに持って高蠆に合図を送った。蠆はその意を悟り、従者に扉を三度打たせ、甲士たちが蜂のように群がって入ってきた。慶舎は驚いて立ち上がったが、まだ座を離れないうちに、盧蒲癸は背後から刺し、刃は脇に入った。王何は戈で左肩を打ち、肩が折れた。慶舎は王何を見つめて言った。「乱を起こしたのはお前たちであったか」と、右手で祭器の俎と壺を取って王何に投げつけ、何はその場で死んだ。盧蒲癸は甲士たちを呼んで、まず慶繩を捕らえて殺させた。
- 慶舎は傷が重く、痛みに耐えられず、片手で廟の柱を抱えて揺さぶり、廟の棟までもが震動するほどであったが、大声で一声叫んで絶命した。景公はこの様子の恐ろしさを見て、大いに驚いて逃げようとした。晏嬰はひそかに奏上した。「群臣は主君のために、慶氏を誅して社稷を安んじようとしているのです、他意はございません。」景公はようやく心が落ち着き、祭服を脱いで車に乗り、内宮に入った。
- 盧蒲癸を筆頭に、四姓の甲兵は、慶氏の一党をことごとく滅ぼした。各氏族は城門を分担して守り、慶封の帰還を拒み、防備は厳重で水も漏らさぬほどであった。
慶封の出奔と崔慶滅亡の後始末
- さて慶封は狩猟から帰る途中、慶舎のもとから逃げ出してきた家臣に出くわし、乱が起きたことを告げられた。慶封は息子が殺されたと聞いて激怒し、そのまま引き返して西門を攻めた。城中の守りは厳重で、攻め落とすことができず、部下たちは次第に逃げ散っていった。慶封は恐れをなし、そのまま魯国へ出奔した。
- 斉の景公は使者を遣わして魯を責め、謀反人をかくまうべきではないと告げた。魯人は慶封を捕らえて斉人に引き渡そうとした。慶封はこれを聞いて恐れ、さらに呉国へ出奔した。呉王夷昧は朱方の地に彼を住まわせ、手厚く俸禄を与え、その暮らしぶりは斉にいた頃よりもさらに富み、楚国の動静をうかがわせた。
- 魯の大夫子服何はこれを聞いて叔孫豹に言った。「慶封はまた呉にあってさらに富を得た。あるいは天が悪人に福を与えるということだろうか。」叔孫豹は言った。「『善人が富むのは、これを賞という。悪人が富むのは、これを殃という。』慶氏の殃はすでに到来しているのだ、福などとはとても言えぬ。」
- 慶封が出奔した後、高蠆と欒肹が政を執り、崔・慶の罪を国中に宣言し、慶舎の死体を朝廷にさらして見せしめとした。崔杼の棺を探したが見つからず、懸賞をかけて求めた。その所在を知って献じた者には崔氏の大きな璧玉(両手で抱えるほどのもの)を与えるとした。崔氏の馬丁がその璧を欲しがり、密告して出頭した。そこで崔氏の祖先の墓を掘り起こし、その棺を斬り開くと、二つの死体があった。景公は二つとも並べてさらそうとした。晏嬰は「刑罰が婦人にまで及ぶのは、礼に反します」と言った。そこで崔杼の死体だけを市にさらすと、国人が集まって見物し、それでもなお見分けがつき、「これこそ本物の崔子だ」と言った。
- 諸大夫は崔・慶の邑を分け合った。慶封の家財は、すべて盧蒲嫳の家にあったため、嫳を淫乱の罪で責め、北燕に追放した。盧蒲癸もまたこれに従った。二氏の家財は、すべて人々の間で分配された。ただ陳無宇だけは何も受け取らなかった。慶氏の荘園には百余台分の木材があったが、皆で相談してこれを陳氏に納めることに決まった。無宇はこれをことごとく国人に施したので、国人は皆陳氏の徳を称えるようになった。これは周の景王の初年の出来事である。
高氏の内訌と閭邱嬰誅殺
- その翌年、欒肹が没し、子の欒施が跡を継いで大夫となり、高蠆とともに国政を執った。高蠆は高厚の子高止を忌み嫌い、二人の高氏が並び立つことを嫌って高止を追放した。止もまた北燕に出奔した。止の子高豎は、盧邑に拠って叛いた。景公は大夫の閭邱嬰に軍を率いて盧を包囲させた。高豎は「私は叛いたのではありません、高氏の祭祀が絶えることを恐れているのです」と言った。閭邱嬰は高氏のために後継ぎを立てることを約束し、高堅(豎)はそのまま晋国へ出奔した。閭邱嬰は景公に復命した。景公はそこで高酀を立て、高傒の祭祀を守らせた。
- 高蠆は怒って言った。「もともと閭邱を遣わして高氏を除こうとしたのに、一人を去らせて一人を立てるとは、何を選んだというのか。」そこで閭邱嬰を讒言して殺してしまった。公子の子山・子商・子周らは、皆この不公平を憤り、口々に非難した。高蠆は怒り、他の口実をつけて彼らをことごとく追放したので、国中の者は皆彼を恐れて横目でうかがい、口を出せなくなった。まもなく高蠆が没し、子の高彊が跡を継いで大夫となった。高彊はまだ幼く、卿には立てられなかったので、大権はすべて欒施に帰した。この一段の話はここまでにして、しばらく措く。
鄭の良霄(伯有)の乱と子産の執政
- この頃、晋と楚は和議を通じ、列国は安息を得ていた。鄭の大夫良霄(字は伯有)は、公子去疾の孫、公孫輒の子で、当時上卿として執政していた。性格は奢侈で酒を好み、酒を飲むといつも夜通し続けた。飲むときは他人と会うことを嫌い、他の事を耳にすることも嫌ったので、地下に部屋を掘って作り、酒宴の道具や鐘鼓をその中に置いて夜通し飲み続け、家臣が朝の伺候に邸を訪れても、誰も会うことができなかった。
- 昼どき、酔ったまま朝廷に入り、鄭の簡公に、公孫黒を楚へ聘問に遣わしたいと言上した。公孫黒はちょうど公孫楚と徐吾犯の妹を娶ることをめぐって争っており、遠方へ行きたくなかったので、良霄のもとを訪ねて免除を求めた。門番は断って言った。「主人はすでに地下室に入っておられます、取り次ぐことはできません。」公孫黒は激怒し、そのまま一族の甲兵をことごとく起こし、夜のうちに印段とともにその邸を包囲し、火を放って焼いた。
- 良霄はすでに酔っており、人々に助けられて車に乗せられ、雍梁へと逃げた。良霄はようやく酔いから覚め、公孫黒が自分を攻めたと聞いて激怒した。数日を経て、家臣たちが次第に集まり、国中の様子を伝えて言った。「各氏族が同盟を結び、良氏に対抗しようとしています。ただ国氏と罕氏だけはこれに加わっておりません。」霄は喜んで「この二氏が私を助けてくれる」と言い、そこで引き返して鄭の北門を攻めた。公孫黒はその甥の駟帯に、印段とともに勇士を率いてこれを防がせた。霄は戦いに敗れ、羊肉屋の店に逃げ込んだが、兵士たちに殺され、家臣も皆死んだ。
- 公孫僑は良霄が死んだと聞き、急ぎ雍梁へ駆けつけ、良霄の死体を撫でて泣いた。「兄弟が互いに攻め合うとは、天よ、なんと不幸なことか。」家臣たちの死体をことごとく収め、良霄とともに鬥城の村に葬った。公孫黒は怒って「子産(公孫僑)は良氏に味方するのか」と言い、これを攻めようとした。上卿の罕虎がこれを止めて言った。「子産は死者にさえ礼を尽くした、まして生者にはなおさらであろう。礼は国の根幹である、礼を尽くした者を殺すのは不吉である。」黒はそこで攻めるのをやめた。
- 鄭の簡公は罕虎に政を執らせようとしたが、罕虎は「私は子産に及びません」と言った。そこで公孫僑が政を執ることになった。時に周の景王の三年のことである。公孫僑は鄭の政を執ると、都と地方に秩序を定め、身分の上下に応じた服制を設け、田畑には境界の溝を通し、村落には五戸組の制を立て、忠実さと倹約を尊び、奢侈をおさえた。公孫黒が政を乱したとき、その罪を数え上げて殺した。また『刑書』を鋳造して民を戒め、郷校を設けて過ちを聞くようにした。国人はこれを詩に歌って言った。(詩:子産が子弟を教え導き、田畑を豊かにしてくれたことを国人が慕い、その死後を案じる内容)
良霄の亡霊騒動と後嗣立て
- ある日、鄭の人が北門を出ると、ぼんやりとした中に良霄の姿を見た。甲冑を身につけ戈を提げて歩いており、こう言った。「帯(駟帯)と段(印段)が私を害したのだ、私は必ず彼らを殺してやる。」その人は帰ってこれを他人に語ったところ、病にかかってしまった。こうして国中では、風が吹いて草が動く程度のわずかな物音や動きがあるたびに、良霄が来たと思い込み、男女は皆狂ったように走り逃げ、まるで武器を避けるようであった。まもなく駟帯が病死した。さらに数日して、印段もまた死んだ。国人は大いに恐れ、昼も夜も心穏やかでいられなかった。
- 公孫僑は鄭君に進言し、良霄の子良止を大夫とし、良氏の祭祀を主宰させ、あわせて公子嘉の子公孫洩を立てた。すると国中の妖しい噂はぴたりと止んだ。
- 行人(外交官)の游吉(字は子羽)が公孫僑に尋ねた。「後継ぎを立てただけで妖しい噂が止むとは、どういうことでしょうか。」僑は言った。「およそ凶悪な人間が非業の死を遂げると、その魂魄は散らず、皆祟りをなすことができる。もし帰依する先があれば、そういうことは起こらなくなるのだ。私が祭祀を立てたのは、その魂の帰る場所を作ったということだ。」游吉は言った。「それならば、良氏だけを立てればよいはずですが、なぜ公孫洩まで一緒に立てられたのですか。まさか子孔(公孫洩の父)もまた祟りをなすとお考えなのですか。」僑は言った。「良霄には罪があり、本来なら後継ぎを立てるべきではない。もし祟りをなすからという理由だけで立てたのなら、国人は皆鬼神の説に惑わされてしまい、そのようなやり方を後世の前例としてはならない。私は七穆(鄭の七つの公族)の断絶しかけた家系を存続させるという名目を借り、良氏と孔氏を並び立てることで、民の惑いを取り除こうとしたのだ。」游吉は感嘆して敬服した。
蔡景公弑逆(世子般の乱)
- さて周の景王二年、蔡の景公はその世子般のために楚の女性羋氏を娶らせて妃とした。景公はひそかに羋氏と通じてしまった。世子般は怒って言った。「父が父としての道を守らないのなら、子もまた子としての道を守る必要はない。」そこで狩猟に出ると偽り、腹心の内侍数人とともにひそかに内室に潜んだ。景公はその子が留守だと思い込み、東宮に入って羋氏の部屋へ真っ直ぐに向かった。世子般は内侍を率いて突然現れ、景公を斬り殺し、急な病で死んだと諸侯に触れを出して、そのまま自ら君主の位に立った。これが霊公である。史官はこの事件について、般が子でありながら父を弑した、千古の大変事であると論じている。しかし景公は自らの息子の嫁と密通し、自ら子の反逆を招いたのであるから、罪がなかったとは言えない。これを嘆じた詩がある――(詩:かつて宣公の新台の醜行があったように、蔡の景公もまた同じ過ちを繰り返したことを嘆き、宮中で父に刃を向けた悲劇と、哀れな急子の故事を思う内容)
- 蔡の世子般は急な病死と諸侯に触れたものの、弑逆の跡は結局隠しきれなかった。本国から伝わり広まり、諸国の誰もが知らぬ者はなかった。ただ当時の盟主が怠慢であったため、討伐の法を行うことができなかっただけである。
宋の伯姫焚死と澶淵の会
- その年の秋、宋の宮中で夜、火事が起きた。夫人は魯の女性伯姫であった。左右の者は火が迫るのを見て、夫人に避難するよう告げた。伯姫は言った。「婦人の道理として、守り役がいないうちは、夜、堂を下りてはならないのです。火の勢いが迫っていようとも、道理を捨てるわけにはまいりません。」守り役が到着したときには、伯姫はすでに焼け死んでいた。国人は皆これを嘆き惜しんだ。
- 時に晋の平公は、宋がかつて和議を成し遂げた功績があったことから、火災に見舞われたことを気の毒に思い、諸侯を澶淵に大いに集め、それぞれ財貨を出させて宋を助けさせた。宋の儒者胡安定はこの事について論じ、蔡の世子の弑父の罪を討伐せず、宋の火災を憐れむことばかりを謀ったのは、事の軽重を取り違えたものだと述べている。これが平公が覇権を失った所以である。
楚公子囲の専横(鄭聘・僭儀)
- 周の景王四年、晋と楚は宋での盟約に基づき、再び虢の地で会合することとなった。この頃、楚の公子囲は屈建に代わって令尹となっていた。囲は共王の庶子であり、年齢は最も長く、人となりは荒々しく不遜で、人の下に立つことを恥じ、自らの才能を頼みとして、内心臣下の分を越えた野心を抱き、熊麇の力の弱さにつけこんで、多くの事を独断で決めるようになっていた。大夫薳掩の忠直を忌み、謀反の罪を着せて殺し、その家財を併合した。大夫の薳罷・伍挙を腹心として交わり、日々簒奪を謀っていた。
- かつて郊外に狩猟に出た際、勝手に楚王の旌旗を用い、芋の邑に至ったとき、芋尹申無宇がその分を越えた振る舞いを数え立て、その旌旗を倉庫に没収したので、囲はいくらか自重するようになった。
- この度、虢の会に赴くにあたって、囲はまず鄭へ聘問し、豊氏の娘を娶りたいと願い出た。出発に際して、楚王熊麇に言った。「楚はすでに王を称し、諸侯の上に立つ立場にあります。使臣が諸侯の礼を用いることをお許しいただければ、諸国に楚の尊厳を知らしめることができましょう。」熊麇はこれを許した。公子囲はそこで国君の儀礼を僭称して用い、衣服や器物は侯伯に匹敵するものとし、二人の者に戈を持たせて先導させた。
- 鄭の郊外に近づいたとき、郊外の人々は楚王が来たと思い込み、驚いて国中に知らせた。鄭の君臣は皆大いに驚き、夜を徹して這うようにして出迎えたが、対面してみると、実は公子囲であった。公孫僑はこれを嫌い、彼が城内に入って何か変事を起こすことを恐れ、行人の游吉に、城中の宿舎が老朽化してまだ修繕できていないという口実を言わせ、城外に宿舎を設けさせた。
- 公子囲は伍挙を城内に遣わし、豊氏との婚儀を協議させ、鄭伯はこれを許した。婚礼の贈り物はすでに盛大であった。婚礼を挙げようとするとき、公子囲は突然鄭を襲おうという企みを起こし、婦人を迎えるという名目を借りて、盛んに車馬を飾り立て、機に乗じて事を起こそうとした。公孫僑は言った。「囲の心は測りがたい、必ず大勢の者を退けさせなければならない。」游吉は「私が再び辞退させに参りましょう」と言った。
- そこで游吉は公子囲のもとに行って言った。「令尹殿が大勢の者を率いてお迎えをなさろうとしていると聞きました。わが国は狭小であり、従者の方々を収めきれません、どうか城外に場所を設けて、婚礼を迎える命をお聞きすることにさせてください。」公子囲は言った。「貴国の君が、かたじけなくもこの寡大夫囲に豊氏との婚礼を賜ったのに、もし城外で迎えるとあっては、どうして礼を成し遂げられようか。」游吉は言った。「礼では、武装した軍勢の隊列を都城に入れないものです。まして婚礼であればなおさらのこと。令尹殿がどうしても大勢を用いて見栄えをよくしたいとおっしゃるなら、どうか武装を外していただきたい。」伍挙はひそかに囲に言った。「鄭人はすでに我らに備えを固めています、武装を外すほうがよいでしょう。」そこで士卒に弓矢をすべて捨てさせ、矢筒を垂らしたまま城内に入った。豊氏を宿舎に迎え、そのまま会の場所へと赴いた。晋の趙武、および宋・魯・斉・衛・陳・蔡・鄭・許の各国の大夫は、すでに皆先に到着していた。
- 公子囲は人を遣わして晋に言わせた。「楚と晋にはすでに盟約があります。今回この好誼を求めるにあたっては、改めて誓書を立て、重ねて血をすする必要はございません。ただ宋での盟約の旧文を読み上げ、諸君に忘れぬようお示しすれば十分でしょう。」祁午は趙武に言った。「囲のこの言葉は、おそらく晋が先を争うことを恐れてのものでしょう。前回は楚に晋より先に譲りましたが、今回は道理からいえば晋が楚より先になるはずです。もし旧文を読み上げれば、楚が常に先になってしまいます。あなたはどうお考えですか。」趙武は言った。「囲がこの会に臨み、蒲を編んで王宮のような幕舎を作り、その威儀は楚王と変わらぬほどだ。その野心はただ外に対して驕るだけでなく、内にも謀りごとがあるに違いない。しばらくその求めを聞き入れておいて、その志を驕らせておくほうがよかろう。」祁午は言った。「とはいえ、以前、子木(屈建)が鎧を着込んで会に赴き、幸いにも事は起こりませんでしたが、今回の囲はそれ以上の者です、あなたは備えをしておくべきです。」趙武は言った。「好誼を求める理由は、休戦の約を求めるためだ。私はただ信義を守ることを知るのみで、他のことは知らぬ。」
- 壇に登ると、公子囲は旧文を読み上げることを求め、趙武はただうなずくばかりであった。事が終わると、公子囲はすぐさま帰っていった。諸大夫は皆、囲がやがて楚君となるであろうことを悟った。史臣の詩がある――(詩:公子と称して驕り高ぶるのは勝手だが、何ゆえ楚王の威儀まで真似るのか。列国はみな彼が跋扈の臣となったことをすでに知っているのに、郟敖(熊麇)だけは焼けようとする堂に巣くう燕雀のように、なお安穏と構えていることを詠う内容)
- 趙武は内心、旧文を読み上げて楚に先を譲ったことを恥じ、人々の議論を恐れて、信義を守ったのだという弁明を、各国の大夫に何度も繰り返し語った。鄭を通過する頃、魯の大夫叔孫豹が同行しており、武はまたこれを語った。豹は言った。「相国(趙武)は、休戦の約を最後まで守り抜けるとお考えですか。」武は言った。「我らはその日暮らしで、朝な夕なに安泰を図るばかりだ、遠い将来のことなど考える暇もない。」豹は退いて鄭の大夫罕虎に言った。「趙孟(趙武)は間もなく死ぬだろう。その言葉は投げやりで、遠い将来のことを考えておらず、しかも年はまだ五十にもならぬのに、まるで八、九十歳の老人のようにくどくどと語っている。長くは生きられまい。」まもなく趙武は没し、韓起がこれに代わって政を執った。この話はここまでにしておく。
公子囲による弑逆と楚霊王の即位
- さて楚の公子囲は帰国すると、ちょうど熊麇が病を得て宮中に伏していた。囲は宮中に入って病を見舞い、密事を奏上したいという口実で侍女たちを遠ざけ、冠の紐を解いて熊麇の首にかけ、たちまち死なせた。麇には二人の子があり、幕と平夏といったが、変事を聞いて剣を提げて公子囲を殺そうとしたが、勇力が及ばず、皆囲に殺された。麇の弟である右尹熊比(字は子干)と、宮廄尹熊黒肱(字は子晳)は、楚王父子が殺されたと聞いて禍を恐れ、比は晋へ、黒肱は鄭へと出奔した。
- 公子囲は諸侯に訃報を送って言った。「わが君麇が身罷られましたので、寡大夫の囲が跡を継ぐべきです。」伍挙はその言葉を改めて言い直した。「共王の子である囲が最年長です。」囲はこうして王位を継ぎ、名を熊虔と改めた、これが霊王である。薳罷を令尹とし、鄭丹を右尹、伍挙を左尹、鬥成然を郊尹とした。太宰の伯州犁が郟に公務で赴いていたが、楚王は彼が心服しないのではと危ぶみ、人を遣わして殺させた。楚王麇は郟に葬られたので、これを郟敖と呼ぶ。薳啟疆が太宰の代わりとなった。長子の祿を世子に立てた。
- 霊王はすでにその望みを達すると、ますます驕慢となり、中原に覇を唱えようという野心を抱いた。伍挙を遣わして晋に諸侯の会盟を求めさせ、さらに豊氏の娘は家柄が低く夫人にふさわしくないとして、晋侯にも婚姻を求めさせた。晋の平公はちょうど趙武を亡くしたばかりで、楚の強大さを恐れ、あえて逆らわず、すべて聞き入れた。
申の会盟と慶封誅殺
- 周の景王六年、楚の霊王の二年にあたる冬十二月、鄭の簡公と許の悼公が楚に赴き、楚の霊王はこれを引き留め、伍挙の報告を待つことにした。伍挙は楚に戻って復命し、「晋侯は二つの要求とも承諾いたしました」と言った。霊王は大いに喜び、使者を遣わして諸侯を大いに招集し、翌年の春三月に申の地で会を開くことを約束した。鄭の簡公は先に申の地へ赴いて、諸侯を出迎え待つことを求め、霊王はこれを許した。
- 翌年の春になると、会に赴く諸国は次々と絶えることなく到着した。ただ魯と衛だけは口実をつけて来なかったが、宋は大夫の向戌を代わりに遣わした。その他、蔡・陳・徐・滕・頓・胡・沈・小邾などの国の君主は、皆自ら会に赴いた。楚の霊王は大軍を率いて申の地に至り、諸侯は皆やって来て相見えた。
- 右尹伍挙が進み出て言った。「私は、覇を図ろうとする者は、まず諸侯の心を得なければならず、諸侯の心を得ようとする者は、まず礼を慎まなければならないと聞いております。今、我が王は初めて晋から諸侯を求められましたが、宋の向戌、鄭の公孫僑は、いずれも大夫の中でも優れた者で、礼をよく知る者と称されております、慎まれずにはいられません。」霊王は「昔、諸侯を集める礼はどのようなものであったか」と尋ねた。伍挙は言った。「夏の啓には鈞台の饗があり、商の湯には景亳の命があり、周の武王には孟津の誓いがあり、成王には岐陽の蒐(狩猟の会)があり、康王には酆宮の朝があり、穆王には塗山の会があり、斉の桓公には召陵の師があり、晋の文公には践土の盟がございます。この六王二公が諸侯を集めたやり方には、いずれも礼がございました、どうか主君のお選びになるところに従いましょう。」
- 霊王は「寡人は諸侯に覇を唱えたい、斉の桓公の召陵の礼を用いようと思うが、その礼はどのようなものか知らぬ」と言った。伍挙は答えた。「六王二公の礼については、臣もその名を聞くのみで、実際に習ったことはございません。聞くところによれば、斉の桓公が楚を伐ち、召陵に軍を退いたとき、楚は先大夫の屈完を斉軍のもとに遣わし、桓公は八か国の車乗を大いに並べ、その強大な軍勢を屈完に誇示し、その後で諸侯と屈完との盟会を結んだといいます。今、諸侯は新たに服したばかりですから、我が王もまた強大な軍勢をお示しになり、彼らを畏怖させれば、その後で会を招集して二心を討伐しても、従わぬ者はございますまい。」
- 霊王は「寡人は諸侯に対して兵を用い、桓公の伐楚の事にならいたいが、誰から手をつけるべきか」と言った。伍挙は答えた。「斉の慶封はその主君を弑して呉国へ逃げましたが、呉はその罪を討伐せず、かえって寵愛を加え、朱方の地に住まわせ、一族を集めて暮らさせており、以前よりも富み栄えております。斉人はこれを憤り恨んでおります。そもそも呉は我らの仇敵です。もし兵を用いて呉を討伐し、慶封を誅することを名目とすれば、一挙両得というものです。」霊王は「よかろう」と言った。
- こうして車馬を盛んに並べ立て、諸侯を脅かし、申の地で会盟を行った。霊王は、徐の君主が呉の姫の生んだ子であることから、呉に与するのではないかと疑い、徐君を三日間拘束した。徐子は呉を討伐する道案内を務めることを願い出たので、釈放された。大夫の屈申に諸侯の軍を率いさせて呉を討伐し、朱方を包囲して斉の慶封を捕らえ、その一族をことごとく滅ぼした。屈申は呉に備えがあることを知り、そのまま軍を引き上げ、慶封を差し出して手柄とした。
- 霊王は慶封を処刑して、諸侯にさらそうとした。伍挙は諫めて言った。「私は『瑕のない者だけが、人を処刑することができる』と聞いております。もし慶封を処刑すれば、彼が言い返してくることを恐れます。」霊王は聞き入れず、慶封に斧鉞を背負わせ、縛って軍の前にさらし、刀をその首にあてて、自らの罪を語らせようとした。「諸国の大夫の方々よ、お聞きください。誰も斉の慶封のように、その主君を弑し、その遺児を弱めて、大夫たちに盟わせるようなことをしてはならない。」慶封はそこで大声で叫んだ。「諸国の大夫の方々よ、お聞きください。誰も楚の共王の庶子囲のように、その主君であり兄の子でもある麇を弑してこれに代わり、諸侯に盟わせるようなことをしてはならない。」見物していた者は皆口を覆って笑った。霊王は大いに恥じ、急いで殺させた。胡曾先生の詠史詩がある――(詩:乱賊が乱賊を誅するという皮肉と、楚の霊王の天誅を気取った行いが、かつて荘王が夏舒を誅した故事に及ばぬことを詠う内容)
- 霊王は申から楚へ戻ると、屈申が朱方から軍を引き上げたのに、深く攻め込まなかったことを怪しみ、呉に対して二心があるのではと疑って、これを殺した。屈生をその代わりの大夫とした。薳罷は晋に赴き、夫人の姫氏を迎えて帰り、薳罷はそのまま令尹となった。
呉の楚侵入と楚の報復出兵、章華台の造営
- その年の冬、呉王夷昧は軍を率いて楚を伐ち、棘・櫟・麻の地に侵入し、朱方での役の報復とした。楚の霊王は激怒し、再び諸侯の軍を興して呉を討伐した。越の君主允常は呉の侵掠を恨み、大夫の常寿過に軍を率いさせて参陣させた。楚の将薳啟疆は先鋒となり、水軍を率いてまず鵲岸に至ったが、呉人に敗れた。楚の霊王は自ら大軍を率いて羅汭に至った。
- 呉王夷昧は、その一族の弟蹶繇を遣わして楚軍を犒わせた。霊王は怒ってこれを捕らえ、その血を取って軍鼓を塗る(釁鼓)刑に処そうとした。まず人を遣わして尋ねさせた。「お前は来る前に吉凶を占ったか。」蹶繇は「占って大変吉と出ました」と答えた。使者は言った。「王は汝の血を取って軍鼓を塗ろうとしておられるのに、何が吉だというのか。」蹶繇は答えた。「呉が占ったのは、社稷のことであって、どうして一人の吉凶のためでございましょう。わが君が繇を遣わして楚軍を犒わせたのは、王のお怒りの度合いを察し、それによって守備の緩急を決めるためです。王がもし喜んで使者を迎え入れられれば、わが国は油断して警戒を怠るでしょう、それでは滅亡の日も近いことになりましょう。もし使者の血で軍鼓を塗られるようなことになれば、わが国は王の激怒を知り、その武備を修めることになりましょう、それをもって楚を防ぐには十分すぎるほどです。これほどの吉がございましょうか。」霊王は「これは賢士である」と言い、赦して帰らせた。
- 楚軍は呉の国境に至ったが、呉の守りは非常に厳重で、攻め入ることができずに引き返した。霊王は嘆いて「先に屈申を無実の罪で殺してしまったのは間違いであった」と言った。
- 霊王はすでに帰国すると、功績がなかったことを恥じ、そこで大いに土木工事を興し、財力と規模を誇示して諸侯に示そうとした。章華という名の宮殿を築き、広さは四十里に及び、その中に高い台を築いて四方を見渡せるようにした。台の高さは三十仞、章華台と名づけ、また三休台とも呼んだ(その高く険しいことから、台に登るには必ず三度休まねばならず、初めて頂上に達することができたためである)。その中の宮殿や亭・楼閣は、極めて壮麗を極め、周りには民家が取り巻いていた。罪を犯して逃亡した者は、皆呼び戻され、この宮殿を満たすために用いられた。宮殿が完成すると、使者を遣わして四方の諸侯を招集し、ともに落成を祝わせようとした。諸侯のうち何人が来るかは分からない、次回に見ることとしよう。
原文(底本)
話說周靈王長子名晉,字子喬,聰明天縱,好吹笙,作鳳凰鳴。立為太子。年十七,偶遊伊洛,歸而死。靈王甚痛之。有人報道:「太子於緱嶺上,跨白鶴吹笙,寄語土人曰:『好謝天子,吾從浮丘公住嵩山,甚樂也!不必懷念。』」(浮丘公,古仙人也。)靈王使人發其冢,惟空棺耳,乃知其仙去矣。至靈王二十七年,夢太子晉控鶴來迎,既覺,猶聞笙聲在戶外。靈王曰:「兒來迎我,我當去矣。」遺命傳位次子貴,無疾而崩。貴即位,是為景王。是年,楚康王亦薨。令尹屈建與群臣共議,立其母弟麇為王。未幾,屈建亦卒,公子圍代為令尹。此事敘明,且擱過一邊。 再說齊相國慶封,既專國政,益荒淫自縱。一日,飲於盧蒲嫳之家,盧蒲嫳使其妻出而獻酒,封見而悅之,遂與之通。因以國政交付於其子慶舍,遷其妻妾財幣於盧蒲嫳之家,封與嫳妻同宿,嫳亦與封之妻妾相通,兩不禁忌。有時兩家妻小,合做一處,飲酒歡謔,醉後囉唣,左右皆掩口,封與嫳不以為意。嫳請召其兄盧蒲癸於魯,慶封從之。癸既歸齊,封使事其子慶舍。舍膂力兼人,癸亦有勇,且善諛,故慶舍愛之,以其女慶姜妻癸,翁婿相稱,寵信彌篤。癸一心只要報莊公之仇,無同心者,乃因射獵,極口誇王何之勇。慶舍問:「王何今在何處?」癸曰:「在莒國。」慶舍使召之。王何歸齊,慶舍亦愛之。自崔慶造亂之後,恐人暗算,每出入,必使親近壯士執戈,先後防衛,遂以為例。慶舍因寵信盧蒲癸王何,即用二人執戈,餘人不敢近前。 舊規:公家供卿大夫每日之膳,例用雙雞。時景公性愛食雞跖,一食數千,公卿家效之,皆以雞為食中之上品。雞價騰貴,御廚以舊額不能供應,往慶氏請益。盧蒲嫳欲揚慶氏之短,勸慶舍勿益,謂御廚曰:「供膳任爾,何必雞也?」御廚乃以鶩代之。僕輩疑鶩非膳品,又竊食其肉。是日,大夫高蠆字子尾,欒灶字子雅,侍食於景公。見食品無雞,但鶩骨耳,大怒曰:「慶氏為政,刻減公膳,而慢我至此!」不食而出。高蠆欲往責慶封,欒灶勸止之。早有人告知慶封,慶封謂盧蒲嫳曰:「子尾子雅怒我矣!將若之何?」盧蒲嫳曰:「怒則殺之,何懼焉!」盧蒲嫳告其兄癸。癸與王何謀曰:「高欒二家,與慶氏有隙,可借助也。」何乃夜見高蠆,詭言慶氏謀功高欒二家。高蠆大怒曰:「慶封實與崔杼同弒莊公。今崔氏已滅,惟慶氏在,吾等當為先君報仇。」王何曰:「此何之志也!大夫謀其外,何與盧蒲氏謀其內,事蔑不濟矣。」高蠆陰與欒灶商議,伺間而發。陳無宇、鮑國、晏嬰等,無不知之,但惡慶氏之專橫,莫肯言者。盧蒲癸與王何卜功慶氏,卜者獻繇詞曰: 虎離穴,彪見血。 癸以龜兆問於慶舍曰:「有欲功仇家者,卜得其兆,請問吉凶?」慶舍視兆曰:「必克。虎與彪,父子也﹔離而見血,何不克焉?所仇者何人?」癸曰:「鄉里之平人耳。」慶舍更不疑惑。秋八月,慶封率其族人慶嗣慶遺,往東萊田獵,亦使陳無宇同往。無宇別其父須無,須無謂曰:「慶氏禍將及矣!同行恐與其難,何不辭之?」無宇對曰:「辭則生疑,故不敢。若詭以他故召我,可圖歸也。」遂從慶封出獵。去訖,盧蒲癸喜曰:「卜人所謂『虎離穴』者,此其驗矣。」將乘嘗祭舉事。陳須無知之,恐其子與於慶封之難,詐稱其妻有病,使人召無宇歸家。無宇求慶封卜之,暗中禱告,卻通陳慶氏吉凶。慶封曰:「此乃『滅身』之卦。下克其上,卑克其尊,恐老夫人之病,未得痊也。」無宇捧龜,涕泣不止,慶封憐之,乃遣歸。慶嗣見無宇登車,問:「何往?」曰:「母病不得不歸。」言畢而馳。慶嗣謂慶封曰:「無宇言母病,殆詐也。國中恐有他變,夫子當速歸!」慶封曰:「吾兒在彼何慮?」無宇既濟河,乃發梁鑿舟,以絕慶封之歸路,封不知也。 時八月初旬將盡矣。盧蒲癸部署家甲,匆匆有戰鬥之色,其妻慶姜謂癸曰:「子有事而不謀於我,必不捷矣!」癸笑曰:「汝婦人也,安能為我謀哉?」慶姜曰:「子不聞有智婦人勝於男子乎?武王有亂臣十人,邑姜與焉。何為不可謀也?」癸曰:「昔鄭大夫雍糾,以鄭君之密謀,洩於其妻雍姬,卒致身死君逐,為世大戒。吾甚懼之!」慶姜曰:「婦人以夫為天,夫唱則婦隨之,況重以君命乎?雍姬惑於母言,以害其夫,此閨閫之蝥賊,何足道哉?」癸曰:「假如汝居雍姬之地,當若何?」慶姜曰:「能謀則共之,即不能,亦不敢洩。」癸曰:「今齊侯苦慶氏之專,與欒高二大夫謀逐汝族,吾是以備之。汝勿洩也。」慶姜曰:「相國方出獵,時可乘矣。」癸曰:「欲俟嘗祭之日。」慶姜曰:「夫子剛愎自任,耽於酒色,怠於公事,無以激之,或不出,奈何?妾請往止其行,彼之出乃決矣。」癸曰:「吾以性命託子,子勿效雍姬也。」慶姜往告慶舍曰:「聞子雅子尾將以嘗祭之隙,行不利於夫子,夫子不可出也!」慶舍怒曰:「二子者,譬如禽獸,吾寢處之!誰敢為難?即有之,吾亦何懼!」慶姜歸報盧蒲癸,預作准備。 至期,齊景公行嘗祭於太廟,諸大夫皆從,慶舍蒞事,慶繩主獻爵,慶氏以家甲環守廟宮。盧蒲癸王何執寢戈,立於慶舍之左右,寸步不離。陳鮑二家,有圉人善為優戲,故意使在魚里街上搬演。慶氏有馬,驚而逸走,軍士逐而得之,乃盡縶其馬,解甲釋兵,共往觀優。欒、高、陳、鮑四族家丁,俱集於廟門之外,盧蒲癸託言小便,出外約會停當,密圍太廟。癸復入,立於慶舍之後,倒持其戟,以示高蠆。蠆會意,使從人以闥擊門扉三聲,甲士蜂擁而入。慶舍驚起,尚未離坐,盧蒲癸從背後刺之,刃入於脅﹔王何以戈擊其左肩,肩折。慶舍目視王何曰:「為亂者乃汝曹乎?」以右手取俎壺投王何,何立死。盧蒲癸呼甲士先擒慶繩殺之。慶舍傷重,負痛不能忍,隻手抱廟柱搖撼之,廟脊俱為震動,大叫一聲而絕。景公見光景利害,大驚欲走避。晏嬰密奏曰:「群臣為君故,欲誅慶氏以安社稷,無他慮也。」景公方纔心定,脫了祭服,登車,入於內宮。盧蒲癸為首,同四姓之甲,盡滅慶氏之黨。各姓分守城門,以拒慶封,防守嚴密,水洩不通。 卻說慶封田獵而回,至於中途,遇慶舍逃出家丁,前來告亂。慶封聞其子被殺,大怒,遂還攻西門。城中守禦嚴緊,不能攻克,卒徒漸漸逃散。慶封懼,遂出奔魯國。齊景公使人讓魯,不當收留作叛之臣。魯人將執慶封以畀齊人,慶封聞而懼,復奔吳國。吳王夷昧,以朱方居之,厚其祿入,視齊加富,使伺察楚國動靜。魯大夫子服何聞之,謂叔孫豹曰:「慶封又富於吳,殆天福淫人乎?」叔孫豹曰:「『善人富,謂之賞﹔淫人富,謂之殃。』慶氏之殃至矣,又何福焉。」慶封既奔,於是高蠆欒肹為政,乃宣崔慶之罪於國中,陳慶舍之屍於朝以殉。求崔杼之柩不得,懸賞購之:有能知柩處來獻者,賜以崔氏之拱璧。崔之圉人貪其璧,遂出首。於是發崔氏祖墓,得其柩斵之,見二屍,景公欲並陳之。晏嬰曰:「戮及婦人,非禮也。」乃獨陳崔杼之屍於市,國人聚觀,猶能識認,曰:「此真崔子矣!」諸大夫分崔慶之邑,以慶封家財,俱在盧蒲嫳之室,責嫳以淫亂之罪,放之於北燕,盧蒲癸亦從之,二氏家財,悉為眾人所有。惟陳無宇一無所取。慶氏之莊,有木材百餘車,眾議納之陳氏。無宇悉以施之國人,由是國人咸頌陳氏之德。此周景王初年事也。其明年,欒肹卒,子欒施嗣為大夫,與高蠆同執國政。高蠆忌高厚之子高止,以二高並立為嫌,乃逐高止。止亦奔北燕。止之子高豎,據盧邑以叛。景公使大夫閭邱嬰帥師圍盧。高豎曰:「吾非叛,懼高氏之不祀也。」閭邱嬰許為高氏立後,高堅遂出奔晉國。閭邱嬰復命於景公。景公乃立高酀以守高傒之祀。高蠆怒曰:「本遣閭邱欲除高氏,去一人,立一人,何擇焉。」乃譖殺閭邱嬰。諸公子子山、子商。子周等,皆為不平,紛紛譏議。高蠆怒,以他事悉逐之,國中側目。未幾,高蠆卒,子高彊嗣為大夫。高彊年幼,未立為卿,大權悉歸於欒施矣。此段話且擱過一邊。 是時晉楚通和,列國安息。鄭大夫良霄字伯有,乃公子去疾之孫,公孫輒之子,時為上卿執政。性汰侈,嗜酒,每飲輒通宵。飲時惡見他人,惡聞他事,乃窟地為室,置飲具及鐘鼓於中,為長夜之飲,家臣來朝者,皆不得見。日中乘醉入朝,言於鄭簡公,欲遣公孫黑往楚修聘。公孫黑方與公孫楚爭娶徐吾犯之妹,不欲遠行,來見良霄求免。閽人辭曰:「主公已進窟室,不敢報也。」公孫黑大怒,遂悉起家甲,乘夜同印段圍其第,縱火焚之。良霄已醉,眾人扶之上車,奔雍梁。良霄方醒,聞公孫黑攻己,大怒。居數日,家臣漸次俱到,述國中之事,言:「各族結盟,以拒良氏,惟國氏罕氏不與盟。」霄喜曰:「二氏助我矣!」乃還攻鄭之北門。公孫黑使其姪駟帶,同印段率勇士拒之。以霄戰敗,逃於屠羊之肆,為兵眾所殺,家臣盡死。公孫僑聞良霄死,亟趨雍梁,撫良霄之屍而哭之曰:「兄弟相攻,天乎,何不幸也!」盡斂家臣之屍,與良霄同葬於鬥城之村。公孫黑怒曰:「子產乃黨良氏耶?」欲攻之。上卿罕虎止之曰:「子產加禮於死者,況生者乎?禮,國之幹也,殺有禮不祥!」黑乃不攻。鄭簡公使罕虎為政,罕虎曰:「臣不如子產。」乃使公孫僑為政。時周景王之三年也。公孫僑既執鄭政,乃使都鄙有章,上下有服,田有封洫,廬井有伍,尚忠儉,抑泰侈。公孫黑亂政,數其罪而殺之。又鑄《刑書》以威民,立鄉校以聞過。國人乃歌詩曰: 我有子弟,子產誨之。我有田疇,子產殖之。子產而死,誰其嗣之? 一日,鄭人出北門,恍惚間遇見良霄,身穿介冑,提戈而行﹔曰:「帶與段害我,我必殺之!」其人歸述於他人,遂患病。於是國中風吹草動,便以為良霄來矣!男女皆奔走若狂,如避戈矛。未幾駟帶病卒。又數日,印段亦死。國人大懼,晝夜不寧。公孫僑言於鄭君,以良霄之子良止為大夫,主良氏之祀,并立公子嘉之子公孫洩,於是國中訛言頓息。行人游吉字子羽,問於僑曰:「立後而訛言頓息,是何故也?」僑曰:「凡凶人惡死,其魂魄不散,皆能為厲。若有所歸依,則不復然矣。吾立祀為之歸也。」游吉曰:「若然,立良氏可矣,何以并立公孫洩?豈慮子孔亦為厲乎?」僑曰:「良霄有罪,不應立後,若因為厲而立之,國人皆惑於鬼神之說,不可以為訓。吾託言於存七穆之絕祀,良孔二氏並立,所以除民之惑也。」游吉乃嘆服。 再說周景王二年,蔡景公為其世子般娶楚女羋氏為室。景公私通於羋氏。世子般怒曰:「父不父,則子不子矣!」乃偽為出獵,與心腹內侍數人,潛伏於內室。景公只道其子不在,遂入東宮,逕造羋氏之室。世子般率內侍突出,砍殺景公,以暴疾訃於諸侯,遂自立為君﹔是為靈公。史臣論般以子弒父,千古大變!然景公淫於子婦,自取悖逆,亦不能無罪也。有詩嘆云: 新臺醜行污青史,蔡景如何復蹈之?逆刃忽從宮內起,因思急子可憐兒! 蔡世子般雖以暴疾訃於諸侯,然弒逆之跡,終不能掩。自本國傳揚出來,各國誰不曉得。但是時盟主偷惰,不能行誅討之法耳! 其年秋,宋宮中夜失火,夫人乃魯女伯姬也。左右見火至,稟夫人避火。伯姬曰:「婦人之義,傅母不在,宵不下堂。火勢雖迫,豈可廢義?」比及傅母來時,伯姬已焚死矣。國人皆為嘆息。時晉平公以宋有合成之功,憐其被火,乃大合諸侯於澶淵,各出財幣以助宋。宋儒胡安定論此事,以為不討蔡世子弒父之罪,而謀恤宋災,輕重失其等矣。此平公所以失霸也。 周景王四年,晉楚以宋之盟,故將復會於虢。時楚公子圍代屈建為令尹。圍乃共王之庶子,年齒最長,為人桀驁不恭,恥居人下,恃其才器,陰畜不臣之志,欺熊麇微弱,事多專決。忌大夫薳掩之忠直,誣以謀叛,殺之而併其室。交結大夫薳罷伍舉為腹心,日謀篡逆。嘗因出田郊外,擅用楚王旌旗,行至芋邑,芋尹申無宇數其僭分,收其旌旗於庫,圍稍戢。至是,將赴虢之會,圍請先行聘於鄭,欲娶豐氏之女。臨行,謂楚王熊麇曰:「楚已稱王位,在諸侯之上。凡使臣乞得用諸侯之禮,庶使列國知楚之尊。」熊麇許之。公子圍遂僭用國君之儀,衣服器用,擬於侯伯,用二人執戈前導。將及鄭郊,郊人疑為楚王,驚報國中。鄭君臣俱大駭,星夜葡匐出迎,及相見,乃公子圍也。公孫僑惡之,恐其一入國中,或生他變,乃使行人游吉辭以城中舍館頹壞,未及修葺,乃館於城外。公子圍使伍舉入城,議婚豐氏,鄭伯許之。既行聘,筐篚甚盛。臨聚時,公子圍忽萌襲鄭之意,欲借迎女為名,盛飾車乘,乘機行事。公孫僑曰:「圍之心不可測,必去眾而後可。」游吉曰:「吉請再往辭之。」於是游吉往見公子圍曰:「聞令尹將用眾迎,敝邑褊小,不足以容從者,請除地於城外,以聽迎婦之命。」公子圍曰:「君辱貺寡大夫圍,賜以豐氏之婚,若迎於野外,何以成禮?」游吉曰:「禮,軍容不入國,況婚姻乎?令尹若必用眾,以壯觀瞻,請去兵備。」伍舉密言於圍曰:「鄭人知備我矣,不如去兵。」乃使士卒悉棄弓矢,垂櫜而入。迎豐氏於館舍,遂赴會所。晉趙武及宋、魯、齊、衛、陳、蔡、鄭、許各國大夫,俱已先在。公子圍使人言於晉曰:「楚晉有盟在前,今此番尋好,不必再立誓書,重復歃血。但將盟宋舊約,表白一番,令諸君勿忘足矣。」祁午謂趙武曰:「圍之此言,恐晉爭先也。前番讓楚先晉,今番晉合先楚,若讀舊書,楚常先矣。子以為何如?」趙武曰:「圍之在會,緝蒲為王宮,威儀與楚王無二。其志不惟外亢,將有內謀,不如姑且聽之,以驕其志。」祁午曰:「雖然,前番子木衷甲赴會,幸而不發,今圍更有甚焉,吾子宜為之備。」趙武曰:「所以尋好者,尋弭兵之約也。武知有守信而已,不知其他。」既登壇,公子圍請讀舊書,加於牲上。趙武唯唯。既畢事,公子圍遽歸。諸大夫皆知圍之將為楚君也。史臣有詩云: 任教貴倨稱公子,何事威儀效楚王?列國盡知成跋扈,郟敖燕雀尚怡堂。 趙武心中,終以讀舊書先楚為恥,恐人議論,將守信之語,向各國大夫再三分剖,說了又說。及還過鄭,魯大夫叔孫豹同行,武復言之。豹曰:「相君謂弭兵之約,可終守乎?」武曰:「吾等偷食,朝夕圖安,何暇問久遠?」豹退謂鄭大夫罕虎曰:「趙孟將死矣!其語偷,不為遠計,且年未五十,而諄諄焉如八九十歲老人,其能久乎?」未幾,趙武卒,韓起代之為政。不在話下。 再說楚公子圍歸國,值熊麇抱病在宮。圍入宮問疾,託言有密事啟奏,遣開嬪侍,解冠纓加熊麇之頸,須臾而死。麇有二子,曰幕,曰平夏,聞變,挺劍來殺公子圍,勇力不敵,俱為圍所殺。麇弟右尹熊比字子干,宮廄尹熊黑肱字子晳,聞楚王父子被殺,懼禍,比出奔晉,黑肱出奔鄭。公子圍赴於諸侯曰:「寡君麇不祿即世,寡大夫圍應為後。」伍舉更其辭曰:「共王之子圍為長。」圍於是嗣即王位,改名熊虔,是為靈王。以薳罷為令尹,鄭丹為右尹,伍舉為左尹,鬥成然為郊尹。太宰伯州犁有公事在郟,楚王慮其不服,使人殺之。因葬楚王麇於郟,謂之郟敖。以薳啟疆代為太宰。立長子祿為世子。靈王既得志,愈加驕恣,有獨霸中原之意。使伍舉求諸侯於晉﹔又以豐氏女族微,不堪為夫人,并求婚於晉侯。晉平公新喪趙武,懼楚之強,不敢違抗,一一聽之。 周景王六年,為楚靈王之二年,冬十二月,鄭簡公許悼公如楚,楚靈王留之,以待伍舉之報。伍舉還楚復命,言:「晉侯二事俱諾。」靈王大悅,遣使大徵會於諸侯,約以明年春三月為會於申。鄭簡公請先往申地,迎待諸侯。靈王許之。至次年之春,諸國赴會者,接踵不絕。惟魯衛託故不至,宋遣大夫向戍代行。其他蔡、陳、徐、滕、頓、胡、沈、小邾等國君,俱親身赴會。楚靈王大率兵車,來至申地,諸侯俱來相見。右尹伍舉進曰:「臣聞欲圖霸者,必先得諸侯﹔欲得諸侯者,必先慎禮。今吾王始求諸侯於晉,宋向戍,鄭公孫僑,皆大夫之良,號為知禮者,不可不慎也。」靈王曰:「古者合諸侯之禮何如?」伍舉曰:「夏啟有鈞臺之享,商湯有景毫之命,周武有孟津之誓,成王有岐陽之蒐,康王有酆宮之朝,穆王有塗山之會,齊桓公有召陵之師,晉文公有踐土之盟,此六王二公所以合諸侯者,莫不有禮,惟君所擇。」靈王曰:「寡人欲霸諸侯,當用齊桓公召陵之禮,但不知其禮如何?」伍舉對曰:「夫六王二公之禮,臣聞其名,實未之習也。以所聞齊桓公伐楚,退師召陵,楚使先大夫屈完如齊師,桓公大陳八國車乘,以眾強誇示屈完,然後合諸侯與屈完盟會。今諸侯新服,吾王亦惟示以眾強之勢,使其怖畏,然後徵會討貳,不敢不從矣。」靈王曰:「寡人欲用兵諸侯,效桓公伐楚之事,誰當先者?」伍舉對曰:「齊慶封弒其君,逃於吳國,吳不討其罪,又加寵焉,處以朱方之地,聚族而居,富於其舊,齊人憤怨。夫吳,我之仇也。若用兵伐吳,以誅慶封為名,則一舉而兩得矣。」靈王曰:「善。」於是盛陳車乘,以恐脅諸侯,即申地為會盟。以徐君是吳姬所出,疑其附吳,繫之三日。徐子願為伐吳嚮導,乃釋之。使大夫屈申,率諸侯之師伐吳,圍朱方,執齊慶封,盡滅其族。屈申聞吳人有備,遂班師,以慶封獻功。靈王欲戮慶封,以狥於諸侯。伍舉諫曰:「臣聞『無瑕者,可以戮人。』若戮慶封,恐其反脣而稽也。」靈王不聽,乃負慶封以斧鉞,綁示軍前,以刀按其頸,迫使自言其罪曰:「各國大夫聽者:無或如齊慶封弒其君,弱其孤,以盟其大夫。」慶封遂大聲叫曰:「各國大夫聽者:無或如楚共王之庶子圍,弒其君兄之子麇而代之,以盟諸侯。」觀者皆掩口而笑。靈王大慙,使速殺之。胡曾先生詠史詩云: 亂賊還將亂賊誅,雖然勢屈肯心輸﹔楚虔空自誇天討,不及莊王戮夏舒。 靈王自申歸楚,怪屈申從朱方班師,不肯深入,疑其有貳心於吳,殺之。以屈生代為大夫。薳罷如晉,迎夫人姬氏以歸,薳罷遂為令尹。 是年冬,吳王夷昧帥師伐楚,入棘、櫟、麻,以報朱方之役。楚靈王大怒,復起諸侯之師伐吳。越君允常恨吳侵掠,亦使大夫常壽過帥師來會。楚將薳啟疆為先鋒,引舟師先至鵲岸,為吳人所敗。楚靈王自引大兵,至於羅汭。吳王夷昧,使其宗弟蹶繇犒師。靈王怒而執之,將殺其血,以釁軍鼓。先使人問曰:「汝來時曾卜吉凶否?」蹶繇對曰:「卜之甚吉!」使者曰:「君王將取汝血以釁軍鼓,何吉之有?」蹶繇對曰:「吳所卜,乃社稷之事,豈為一人吉凶哉?寡君之遣繇犒師,蓋以察王怒之疾徐,而為守禦之緩急。君若驩焉,好迎使臣,使敝邑忘於儆備,亡無日矣。若以使臣釁鼓,敝邑知君之震怒,而修其武備,於以禦楚有餘矣。吉孰大焉!」靈王曰:「此賢士也!」乃赦之歸。楚兵至吳界,吳設守甚嚴,不能攻入而還。靈王乃嘆曰:「向乃枉殺屈申矣!」靈王既歸,恥其無功,乃大興土木,欲以物力制度,誇示諸侯。築一宮名曰章華,廣袤四十里,中築高臺,以望四方,臺高三十仞,曰章華臺,亦名三休臺。(以其高峻,凡登臺必三次休息,始陟其顛也。)其中宮室亭榭,極其壯麗,環以民居。凡有罪而逃亡者,皆召使歸國,以實其宮。宮成,遣使徵召四方諸侯,同來落成。不知諸侯幾位到來,且看下回分解。
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