東周列國志第六十九回 楚の霊王、詐を挟んで陳と蔡を滅ぼす/晏平仲、巧弁をもって荊蛮を服させる (楚靈王挾詐滅陳蔡 晏平仲巧辯服荊蠻)

陳の内乱(世子偃師の誅殺と留の擁立)

  • さて陳の哀公は名を溺といい、その正妃鄭姫は子の偃師を生み、すでに世子に立てられていた。次妃は公子留を生み、三妃は公子勝を生んだ。次妃は媚びるのが巧みで寵愛を受け、留を生んでからは、哀公はこれを非常に寵愛したが、偃師がすでに世子に立てられていたため、廃するのに名分が立たなかった。そこでその弟である司徒公子招を留の太傅とし、公子過を少傅として、招と過に言い含めた。「いずれ偃師が位を留に伝えるようにせよ。」
  • 周の景王十一年、陳の哀公は病に伏し、久しく朝廷に出なくなった。公子招は公子過に言った。「公孫呉(偃師の子)もそろそろ成長する年頃だ。もし偃師が跡を継げば、必ずまた呉を世子に立て直すだろう、それではどうして留の番が回ってこよう。それでは主君から託された命に背くことになる。今、主君は病に伏し久しく経つ、事は我らの手中にある。主君がまだ亡くならぬうちに、主君の命だと偽って偃師を殺し、留を立てれば、後悔することはあるまい。」公子過はもっともだと思い、大夫の陳孔奐と相談した。孔奐は言った。「世子は毎日必ず三度、宮中に入って病をお見舞いになります、朝な夕なに主君のお側におられますから、命を偽ることはできません。むしろ宮中の路地に武装した手の者を伏せておき、彼の出入りを狙って、都合のよいときに刺してしまうのがよいでしょう、一人の力で十分です。」過は招とともに計略を定め、この事を孔奐に託し、留を立てた暁には大きな邑を加増すると約束した。孔奐は自らひそかに腹心の力士を召し、門番の中に紛れ込ませたが、門番もこれを世子の側近だと思い込み、まったく疑わなかった。
  • 世子偃師が安否の伺いを終えて、夜、宮門を出たとき、力士はその灯りを消し、これを刺殺した。宮門は大混乱となった。まもなく、公子招と公子過が現れ、驚き慌てた様子を装い、一方では賊を捜索させ、一方では「陳侯の病は重い、次子の留を君主に立てるべきだ」と言いふらした。陳の哀公は変事を聞くと、憤り悲しみ自ら首を吊って死んだ。史臣が詩を詠んでいう――(詩:嫡長子を立てて国の根本を安んじるべきなのに、寵愛する庶子のために争いの端緒を開いてしまった、古今の偏った父親の例として陳の哀公をよく見よと戒める内容)
  • 司徒招は公子留を奉じて喪を主宰させ即位させ、大夫の于徴師を遣わして病死と楚に告げさせた。時に伍挙は霊王の側に侍しており、陳がすでに公子留を君に立てたと聞いたが、世子偃師の行方はまだ分からず、疑念を抱いていた。
  • 突然、「陳侯の第三子公子勝が、甥の公孫呉とともに拝謁を求めております」と報せがあった。霊王はこれを召し、来意を尋ねた。二人は地に伏して泣いた。公子勝が口を開いた。「嫡兄の世子偃師は、司徒招と公子過の謀略によって理不尽にも殺され、父は自ら首を吊って亡くなりました。彼らは勝手に公子留を君として立てましたが、私どもは害されることを恐れ、特別に頼りにさせていただきに参りました。」霊王は于徴師を問い詰めた。徴師は最初のうちしらを切っていたが、公子勝に事実を指摘され、答える言葉がなかった。霊王は怒って「お前も招・過の一味であるな」と言い、刀剣を持つ者に命じて、徴師を縛り連れ出させ、斬った。
  • 伍挙は奏上した。「王はすでに逆臣の使者を誅されました。ここで公孫呉を奉じて招・過の罪を討伐なさるのがよろしいでしょう、名分は正しく道理も通っております、誰があえて従わぬことがございましょう。すでに陳を平定なされば、次には蔡に及びます、(それに比べれば)先君荘王の功績など、語るに足りぬものでございます。」霊王は大いに喜び、そこで陳討伐の兵を興すよう命じた。
  • 公子留は于徴師が殺されたことを聞き、禍を恐れて君主になることを望まず、鄭国へと出奔してしまった。ある者が司徒招に「一緒に逃げてはどうか」と勧めたが、招は「楚の軍勢が来れば、私には退けるための計略がある」と言った。

楚霊王の陳討伐と陳の併県(司徒招の裏切り)

  • さて楚の霊王の大軍が陳に到着した。陳人は皆偃師の死を哀れみ、公孫呉が軍中にいるのを見て、皆こぞって喜び、食物や酒を用意して楚軍を迎えた。司徒招は事態が切迫し、人を遣わして公子過に相談を持ちかけた。過が来て座に着くと、尋ねた。「司徒殿は『楚を退ける計略がある』とおっしゃったが、その計略とは何か。」招は言った。「楚を退けるには、ただ一つの物が必要だ、お前から借りたい。」過はさらに「何の物か」と尋ねると、招は「お前の首を借りたいのだ」と答えた。過は大いに驚き、まさに立ち上がろうとしたところ、招の左右の者が鞭で滅多打ちにし、過を打ち倒すと、そのまま剣を抜いてその首を斬った。招は自らこれを携えて楚軍のもとへ赴き、頭を地につけて訴えた。「世子を殺し留を立てたのは、すべて公子過の仕業でございます。招は今、大王の威をお借りして、過を斬って献上いたしました、どうぞ臣の不敏の罪をお赦しください。」
  • 霊王はその言葉遣いがへりくだっているのを聞いて、内心すでに喜んでいた。招はさらに膝行して前に進み、王の座に近づくと、密かに奏上した。「昔、荘王が陳の乱を平定された際、すでに陳を県となさいましたが、後にこれを再び封建してしまい、その功をむなしくしてしまいました。今、公子留は罪を恐れて出奔し、陳国には主がおりません、どうか大王がこれを郡県として収め、他姓の手に渡らぬようになさってください。」霊王は大いに喜んで「お前の言葉はまさに寡人の意にかなうものだ。お前は帰国して、寡人のために宮室を整え、寡人の巡幸を待つがよい」と言った。司徒招は感謝の意を述べて去った。
  • 公子勝は霊王が招を国に帰したと聞き、再び訴えに来て言った。「陰謀はすべて招の企てたものであり、その実行の段になると、過が大夫の孔奐を使ってこれを行わせたのです。今、罪を過一人に着せて自らを弁解しようとするとは、先君と先の太子の魂はあの世で目を閉じることもできますまい。」言い終わると、痛哭してやまず、全軍が皆これに感動した。霊王は彼を慰めて「公子よ、悲しむでない、寡人には自ら考えがある」と言った。
  • 翌日、司徒招は天子の格式の車駕と儀仗の供揃えを整えて、楚王を都に迎え入れた。霊王は朝堂に座し、陳国の百官が皆参謁に来た。霊王は陳孔奐を前に呼び出し、これを責めた。「世子を殺めたのは、すべてお前の凶行だ、誅さねば人々を戒めることができぬ。」左右の者に大声で命じて孔奐を斬らせた。先に斬られた公子過の首と合わせ、二つの首をともに都の城門に懸けさせた。
  • さらに司徒招を責めて言った。「寡人は本来お前に寛大な処分をしてやりたかったが、世論がそれを許さぬのだ、どうしようもない。今、汝の一命は赦してやるが、家族を連れて遠く東海へ移り住むがよい。」招は狼狽して弁解する言葉もなく、拝礼して辞去するしかなかった。霊王は人を遣わして越国へ護送させた。
  • 公子勝は公孫呉を率いて、賊を討伐してくれた恩に感謝を捧げた。霊王は公孫呉に言った。「本来ならばお前を君主に立て、胡公の祭祀を続けさせたいところだが、招・過の一党はなお多く、お前への怨みも深いだろう、お前の身に害が及ぶことを恐れる。しばらく寡人に従って楚へ帰るがよい。」そこで陳の宗廟を取り壊すよう命じ、陳国を県に改めた。穿封戍が鄭の捕虜皇頡を捕らえた功をめぐって(当時の公子囲、すなわち霊王自身と)争った際、相手が王族であってもへつらわなかったことから、彼に陳の地を守らせ、陳公と称した。陳人は大いに失望した。髯翁が詩を詠んで嘆いていう――(詩:もともとは義兵を興して残虐な賊を誅すると称していたのに、かえって山河を奪って県として封じてしまったこと、蹊田奪牛(小さな罪に過大な罰を科す)の故事を思い出し、申公のような忠諫の臣がいなかったことを恨む内容)

蔡討伐の謀略と蔡侯の誘殺

  • 霊王は公孫呉を伴って帰国し、一年の間兵を休め、その後で蔡を討伐することにした。伍挙は謀を献じて言った。「蔡の般は悪事を重ねてすでに久しく、その罪を忘れているようです。もし討伐に赴けば、彼のほうにも言い分が立ってしまいます、いっそ誘い出して殺すほうがよいでしょう。」霊王はその計略に従った。そこで巡狩と称して、軍を申の地に駐屯させ、人を遣わして蔡に贈り物をし、蔡の霊公に申の地での会見を求めさせた。使者が国書を差し出すと、蔡侯はこれを開いて読んだ。
  • 寡人はぜひ君侯のお顔を拝見したく、どうか申の地までお越しいただきたい。粗末ながらお供の方々への贈り物も用意しております、というような内容であった。
  • 蔡侯は兵車を仕立てて出発しようとした。大夫の公孫帰生が諫めて言った。「楚王の人となりは、貪欲で信義がございません。今回の使者は、贈り物が豪華なのに言葉がへりくだっております、おそらく我らを誘い出そうとしているのでしょう。主君は行かれてはなりません。」蔡侯は言った。「蔡の地は楚の一県にも及ばぬ小国だ、招かれて行かなければ、もし攻めてこられたら、誰が防ぎきれようか。」帰生は「それならば世子を立ててから行かれますように」と言った。蔡侯はこれに従い、その子の有を世子に立て、帰生に補佐と監国を命じた。その日のうちに車を進め、申に至り、霊王に謁見した。
  • 霊王は「この地でお別れしてより、はや八年になる、そのお姿がなお変わらぬことをうれしく思う」と言った。蔡侯は答えた。「般は大国のご厚恩をこうむり盟籍にお加えいただき、君王のご威光によりわが国を鎮撫していただいております、恩義は浅くございません。君王が商墟の地を拓かれたと聞き、ちょうどお祝いに参ろうと思っておりましたところ、ご命令をいただき、謹んで参上いたしました。」霊王は申の地の行宮で酒宴を設けて蔡侯をもてなし、盛大に歌舞を並べ、賓主ともに痛飲して大いに楽しんだ。さらに席を別の寝殿へと移し、伍挙に外の館で従者たちを労わせた。蔡侯は歓待され酒に酔い、いつしか泥酔してしまった。
  • 壁の帳の中には武装した兵士が伏せられており、霊王が杯を投げるのを合図として、兵士たちが一斉に躍り出て、蔡侯を席の上で縛り上げた。蔡侯は酔いの中で、なおそれに気づかなかった。霊王は人を遣わし、人々に向かって触れさせた。「蔡の般はその父君を弑した、寡人は天に代わってこれを討伐するのだ。従者に罪はない、降伏する者には賞を与え、帰りたい者には帰ることを許す。」もともと蔡侯は下の者への恩義に厚く、従っていた諸臣の中に、あえて降伏しようとする者は一人もいなかった。霊王が一声号令すると、楚軍が取り囲むように迫り、皆捕らえられた。
  • 蔡侯はようやく酔いから覚め、身が縛られているのを知り、目を見開いて霊王を見つめて言った。「般に何の罪があるのか。」霊王は「お前は自ら父を弑し、天理に背いた、今日死ぬのは遅すぎたぐらいだ」と言った。蔡侯は嘆いて「私は帰生の言葉を用いなかったことを悔いる」と言った。霊王は蔡侯を八つ裂きにして殺すよう命じ、殉死させられた者は合わせて七十人にのぼった。もっとも身分の低い従者に至るまで、皆誅殺されて赦されなかった。蔡の般の弑逆の罪を版に大書し、国中に布告した。そのまま公子棄疾に大軍を統率させ、まっすぐ蔡へ進軍させた。宋儒はこの事を論じて、蔡の般の罪は確かに誅せられるべきものだが、誘い出して殺すのは法にかなったやり方ではないと述べている。髯翁が詩を詠んでいう――(詩:蔡の般には父もなく君もない罪があったが、鼓を鳴らして正々堂々と大義を正すべきであった、誘殺という非道な手段を怪しんではならないのは、楚の霊王自身がもとより主君を弑した人間であるからだ、と皮肉る内容)

蔡世子有の抗戦と晋への救援要請

  • さて蔡の世子有は、父が出発してからというもの、朝な夕なに間諜を放って様子を探らせていた。まもなく、蔡侯が殺されたとの報せが届き、楚軍も間もなく蔡に迫ると知ると、世子有はただちに兵を集め、武器を配って城壁に登らせた。楚軍が到着すると、幾重にも取り囲んだ。
  • 公孫帰生は言った。「蔡は久しく楚に服属しておりましたが、晋楚の和議の際、帰生も実際にその盟約書に加わっております。人を遣わして晋に救援を求めてはいかがでしょう、もし旧盟をよしみに顧みてくれれば、あるいは援軍を送ってくれるかもしれません。」世子有はこの策に従い、晋に赴ける者を国中から募った。蔡洧の父蔡略は、蔡侯に従って申に赴き、殺された七十人の中に含まれていた。洧は父の仇を討とうと望み、募りに応じて出発し、国書を携えて夜のうちに城壁を縄で伝い下りて北へと逃れ、まっすぐ晋国に至り、晋の昭公に謁見して事情を泣いて訴えた。
  • 昭公は群臣を集めて相談した。荀呉は奏上した。「晋は盟主でございます、諸侯はこれを頼りに安んじております。陳を救わず、また蔡をも救わないとあっては、盟主としての事業は地に落ちてしまいます。」昭公は「楚虔(霊王)は暴虐で横暴だ、我が軍事力では及ばぬ、どうしたものか」と言った。韓起は答えた。「たとえ及ばないと分かっていても、座視できましょうか。どうして諸侯を集めて相談されないのですか。」昭公はそこで韓起に命じて諸国を厥憖に集めさせた。宋・斉・魯・衛・鄭・曹が、それぞれ大夫を会所に遣わして命を聞いた。
  • 韓起が蔡を救う件について話を持ち出すと、諸国の大夫は誰もが驚きのあまり舌を出したまま塞がらず、皆首を横に振るばかりで、一人として引き受けようとする者はいなかった。韓起は「諸君はこれほどまでに楚を畏れているのか、彼らが蚕食していくのをなすがままに任せるつもりか。もし楚が陳・蔡から次第に諸国にも及ぶようになれば、わが君もあずかり知らぬこととなろう」と言った。人々は互いに顔を見合わせるばかりで、応じる者はいなかった。
  • 時に宋の右師華亥がこの会にいたので、韓起は独りその華亥に言った。「宋での盟約の際、あなたの家の先代の右師が実際にその企てを主唱し、南北で兵を止め合い、先に兵を用いた者があれば諸国こぞって討伐すると取り決めたはずだ。今、楚がまっさきにその約を破り、陳・蔡に兵を加えているのに、あなたは手をこまねいて一言も発しない、これは楚に信義がないのではなく、あなたの国が欺いているのだ。」華亥はおののきながら答えた。「わが小国がどうして欺いたり主盟に対して罪を得たりいたしましょうか。しかし蛮夷は信義を顧みません、わが小国にはどうしようもございません。今、各国は久しく軍備を緩めており、ひとたび兵を用いても勝敗は読めません。むしろ休戦の盟約を守り、使者を一人遣わして蔡の赦しを求めるのがよろしいでしょう、楚もきっと拒む言葉はございますまい。」
  • 韓起は諸国の大夫たちが皆楚を恐れている様子を見て、蔡を救うことは奮い立たせようもないと悟り、そこで書状を一通したためて、大夫狐父を遣わし、まっすぐ申城へ行かせ、楚の霊王のもとへ赴かせることにした。蔡洧は諸国が兵を出して蔡を救おうとしないのを見て、声をあげて泣きながら去った。
  • 狐父は申城に到着し書状を差し出した。霊王は書状を開いて見た。「先ごろの宋での盟約は、南北が互いに参内し合うことを、まさに兵を止めることを名目として結んだものでございます。虢の会では、重ねて旧約を申し述べ、鬼神もこれに臨まれました。わが君は諸侯を率いて誠実に成約を守り、あえて干戈を試みることはございませんでした。今、陳・蔡に罪があるとして、大国は激しくお怒りになり、軍を興して討伐なさいましたが、その義憤の激しさは、しばらく状況に応じたものとお見受けいたします。罪人はすでに誅せられましたのに、兵はいまだ解かれておりません、大国はこれをどうご説明なさいましょうか。諸国の大夫や執政の方々は、皆わが国に集まり、わが君に窮地を救い紛争を解く義をもって責め立てております、わが君はこれを恥じております。それでもなお、軍勢を発してみずから盟約に背くことを恐れ、下臣起(韓起)を遣わして諸大夫とともにこの尺書を捧げ、蔡のために命を請う次第でございます。もし大国が旧好を顧みてくださり、蔡の宗廟を存続させてくださるならば、わが君並びに同盟の諸国は、ひとしく君のご恩恵をこうむることになりましょう、それは蔡人だけの利益にはとどまりません。」
  • 書状の末尾には、宋・斉など各国の大夫の名がすべて署名されていた。霊王は読み終えると笑って言った。「蔡の城は今か今かと落ちようとしているのに、お前は空言をもって囲みを解かせようというのか、三尺の童子として寡人を扱おうというのか。お前は帰って汝の主君に申し伝えるがよい。陳・蔡は我が楚の属国であって、北方のお前たちには関わりがない、口を出す必要はない。」狐父はさらに哀願しようとしたが、霊王はすぐに立ち上がって内に入ってしまい、一枚の返書もなかった。狐父はやむなく怏々として帰った。晋の君臣は楚を恨みはしたものの、どうすることもできなかった。まさにこういうことである――(詩:力があっても心のない者は力を尽くさず、心があっても力のない者はむなしく心を労するばかり、もし心と力の両方が揃えば、海を涸らし山を移すことさえ誰にも止められまい、という内容)
  • 蔡洧は蔡国に帰る途中、楚の巡回軍に捕らえられ、公子棄疾の陣中に連行された。棄疾は投降するよう脅したが、蔡洧は従わず、後軍に監禁された。棄疾は晋の救援が来ないことを知ると、いよいよ攻城を激しくした。

朝呉の説得と「当璧」の秘話

  • 帰生は言った。「事態は急を要します。私は一命を賭して、まっすぐ楚の陣営へ赴き、退兵を説いてみましょう。万一聞き入れられれば、多くの命が犠牲になるのを免れられます。」世子有は言った。「城中の指揮は、すべて大夫殿に頼っております、どうして私を捨てて行かれましょうか。」帰生は答えた。「殿下がもしお許しにならないのであれば、臣の子の朝呉を遣わすことができます。」世子は朝呉を呼び、涙ながらに送り出した。
  • 朝呉は城を出て棄疾のもとへ赴き、棄疾は彼を礼をもって迎えた。朝呉は言った。「公子は大軍を蔡に差し向けられ、蔡はすでに滅亡を悟りました。しかし罪の所在をまだ存じません。もし先君般の失徳ゆえに赦されぬというのであれば、世子に何の罪がございましょうか。蔡の宗社に何の罪がございましょうか。どうか公子、憐れんでお察しくださいますよう。」棄疾は「私もまた蔡に滅亡させるべき道理はないと知っている、しかし命を受けて攻城しているのだ、もし功なくして帰れば、必ず罪に問われよう」と言った。
  • 朝呉は「私にはさらに一言申し上げたきことがございます、どうか左右の者をお下がらせください」と言った。棄疾は「言うがよい、私の左右には妨げになる者はない」と言った。朝呉は言った。「楚王は国を得た経緯が正当ではありません、公子はご存じないはずがございません。人の心を持つ者ならば、誰もが怨み憤らぬ者はございません。しかも内では民の膏血を土木事業に尽くし、外では干戈で筋骨を疲弊させ、民を用いること情け容赦なく、貪欲は限りございません。先年は陳を滅ぼし、今また蔡侯を誘い出して殺しました。公子は主君の讎を思うことなく、その使い走りに甘んじておられますが、怨みと怒りが今にも起ころうとしており、公子はその半分を分かち受けることになりましょう。公子は賢明の誉れ高く、しかも『当璧』の瑞祥もございます。楚人は皆公子を主君に望んでおります、もし誠実に矛先を内に向けられ、その主君を弑し民を虐げた罪を討たれれば、人心はこれに応じることでしょう、誰が公子に抗しえましょうか。無道の主君に仕えて万民の怨みを一身に背負うのとは、比べものになりますまい。公子がもし愚見をお聞き入れくださるならば、呉は(籠城で)死に残った蔡の生き残りの者たちを率いて、公子の先駆けを務めたく存じます。」
  • 棄疾は怒って言った。「匹夫の分際で巧言をもって我が君臣を離間しようとするか。本来なら斬るべきところだが、しばらくお前の首は頸の上にとどめておいてやる、世子に伝えよ、速やかに自ら手を縛って降伏するのが、なお余命を保つ道だと。」左右の者に朝呉を引き立てて陣営から追い出させた。
  • そもそも当初、楚の共王には寵愛する側室の子が五人いた。長は熊昭、すなわち康王。次は囲、すなわち霊王虔。三は比、字は子干。四は黒肱、字は子晳。末は公子棄疾である。共王は五人の子のうち一人を世子に立てようとしたが、心が決まらず、大いに群神を祀って璧を捧げ、密かに祈った。「どうか神よ、五人の中から一人、賢明で福のある者を選び、社稷を主宰させてください。」そして璧を太廟の庭に密かに埋め、その場所をひそかに記しておき、五人の子にそれぞれ三日間斎戒させた後、五更(明け方)に廟に入って順に先祖を拝ませることにした。璧を埋めた場所でちょうど拝礼した者を、神が選び立てた人物とするというのである。
  • 康王がまず入り、璧を跨いでその前で拝礼した。霊王が拝したときには、肘が璧に触れた。子干と子晳は、璧から遠く離れていた。棄疾は当時まだ幼く、守り役に抱かれて入って拝礼したが、ちょうど璧の紐の上に当たった。共王は心中、神が棄疾を助けていることを悟り、いっそう寵愛を篤くした。しかし共王が薨じたとき、棄疾はまだ成人していなかったため、康王がまず立てられたのだが、楚の大夫でこの璧を埋めた事を聞いた者は、皆棄疾こそ楚王となるべき人物であると知っていた。今日、朝呉が「当璧」の瑞祥に言及したので、棄疾はこの話が広まり霊王に忌まれることを恐れ、そこで怒ったふりをして彼を追い返したのであった。

蔡の滅亡

  • 朝呉は城中に戻り、棄疾の言葉を伝えた。世子有は言った。「国君が社稷のために死ぬのは、まさに正しい道理である。私はまだ喪が明けず即位もしていないが、すでに位を代行して国を守っている以上、この城とともに存亡を共にすべきである、どうして仇敵にひざまずき、自ら奴隷と同じ身に甘んじられようか。」そこでいっそう固く城を守った。
  • 夏四月に包囲が始まってより、冬十一月に至るまで、公孫帰生は積労のため病に伏し起き上がれなくなり、城中の食糧は尽き、餓死する者が半ばに達し、守備兵は疲れ果て、敵を防ぐこともできなくなった。楚軍は蟻がたかるように城壁をよじ登り、城はついに陥落した。世子は城楼に端座し、両手を差し出して縛につかれた。棄疾は城に入ると、住民たちを慰撫し、世子有を囚車に乗せ、蔡洧とともに霊王のもとへ護送して戦果を報告した。朝呉が「当璧」のことを口にしていたため、棄疾はその話が漏れるのを恐れ、彼を手元に留めて帰さなかった。まもなく帰生は死に、朝呉はそのまま棄疾に仕えることとなった。これは周の景王十四年の出来事である。

楚霊王の九岡山祭祀と楚の拡張策

  • 時に霊王の車駕はすでに郢に戻っていたが、夢に神人が現れて謁見し、自らを九岡山の神と名乗って言った。「私を祀れ、そうすれば私はお前に天下を得させてやろう。」霊王は目覚めると大いに喜び、そこで車駕を九岡山へ向かわせた。
  • ちょうど棄疾からの捷報が届いたので、霊王はただちに世子有を犠牲として取り寄せ、殺して神を祀ろうとした。申無宇は諫めて言った。「昔、宋の襄公は次睢の社で鄫子を犠牲としたため、諸侯はこれに背きました。王もその二の舞を演じてはなりません。」霊王は「これは逆賊般の子で、罪人の後裔だ、どうして諸侯と同じに扱えようか。まさに家畜として用いるべきだ」と言った。申無宇は退いて嘆いた。「王の残虐は甚だしい、その終わりを全うできまい。」そのまま老いを理由に致仕して田舎に帰っていった。
  • 蔡洧は世子が殺されるのを見て、三日間哀哭した。霊王はこれを忠義と見なし、そこで彼を赦して用いた。蔡洧の父は、先に霊王に殺されており、洧は密かに復讐の志を抱いていたが、霊王に説いて言った。「諸侯が晋には仕えても楚には仕えないのは、晋が近く楚が遠いからでございます。今、王はすでに陳・蔡を領有され、中華と国境を接しております、もし城郭を高く広く築き、それぞれの国に千乗の軍役を課し、これをもって諸侯に威を示せば、四方の誰が畏服しないことがございましょうか。その後で呉越に兵を用い、まず東南を服させ、次いで西北を図れば、周に代わって天子となることもできましょう。」霊王はそのへつらいの言葉を喜び、日ましに重用するようになった。
  • こうして陳・蔡の城を改めて築き直し、いっそう高く広くし、棄疾を蔡公に任じて、蔡を滅ぼした功に報いた。さらに東西二つの不羹城を築き、楚の要害の地を占めた。自らは天下に楚より強い国はないと考え、天下を手にすることも見渡すほど近いと思った。太卜を召し、亀甲占いをさせて「寡人はいつ王となれるか」と尋ねた。太卜は「主君はすでに王を称しておられます、なお何をお尋ねになるのですか」と言った。霊王は「楚と周とが並び立っているだけでは、まことの王とはいえぬ。天下を得た者こそ、まことの王というものだ」と言った。太卜は亀甲を火にかけ、亀の甲羅にひびが入った。太卜は「占いに成就の兆しはございません」と言った。霊王は亀甲を地に投げつけ、腕をまくって大声で叫んだ。「天よ、天よ。ちっぽけな天下ひとつ、私に与えぬというのか。この熊虔を生んでも何になろう。」蔡洧は「事は人がなすもの、あの朽ちた骨などが何を知りましょう」と奏上した。霊王はこれを聞いて喜んだ。

晏嬰の使楚(狗門・群臣との論戦)

  • 諸侯は楚の強大さを恐れ、小国は来朝し、大国は聘問し、貢物を献じる使者が道に絶えなかった。その中でとりわけ一人を挙げると、斉国の上大夫晏嬰、字は平仲、斉の景公の命を受けて楚に聘問した。霊王は群臣に言った。「晏平仲はその身の丈五尺にも満たぬというのに、賢名は諸侯の間に聞こえている。今、海内の諸国の中で、楚こそがもっとも強盛だ、寡人は晏嬰を辱め、楚国の威を示したいと思うが、卿らに何か妙計はあるか。」太宰薳啟疆は密かに奏上した。「晏平仲は応対に巧みでございます、一つの事だけでは彼を辱めるには足りません、必ずこのようにこうすべきです……」霊王は大いに喜んだ。
  • 薳啟疆は夜、郢城の東門のそばに人夫を狩り出し、別に小さな穴を掘らせ、ちょうど五尺ほどの大きさにし、門番の兵に言い含めた。「斉国の使者が到着した際には、城門を閉ざし、この穴を通らせよ。」まもなく、晏嬰は破れた皮衣を身にまとい、粗末な車と痩せた馬に乗って、東門に到着した。城門が開かないのを見て、車を止めて進まず、御者に門を呼ばせた。門番は小さな穴を指し示して言った。「大夫殿はこの穴からお入りください、十分な広さがございます、何のために門を開ける必要がございましょうか。」
  • 晏嬰は言った。「これは犬の門であって、人の出入りする所ではない。犬の国に使いする者は、犬の門から入ればよかろうが、人の国に使いする者は、やはり人の門から入らねばならぬ。」門番は使いを出し、この言葉を霊王に急ぎ報告させた。王は「私は彼をからかおうとしたのに、かえって私がからかわれてしまった」と言い、東門を開くよう命じ、彼を迎え入れて城内に入らせた。
  • 晏子は郢の都の城郭が堅固で、市街がにぎわっているのを見て、まことに地の霊気が人材を生み育てる、江南の名勝の地であると思った。それはどのようなものであったろうか。宋の学士蘇東坡に《荊門》を詠じた詩があり、その証となる。――(詩:旅人が三峡を出れば、楚の地は見渡すかぎりの平野である。北からの客は南へと連なって下り、呉の帆柱は帆を開き、蜀の船が出てゆく。大江は平野に入り込んでその連なりを断ち切り、風は白砂を覆って巻き上げる。興亡のいわれを問おうとすれば、幾重の城壁は古より堅固なままである、と詠う内容)
  • 晏嬰がまさに見物していたところ、車二乗が大通りからやって来るのが見え、車上にはいずれも背が高く鬚の長い、選りすぐりの大男が乗り、鎧兜も鮮やかで、手には大弓と長戟を握り、まるで天神のような姿で晏子を迎えに来た(これは晏子の小柄さを引き立てようとしたものである)。晏子は「今日は聘問の好誼のために参ったのであって、戦のためではない、どうして武士など要ろうか」と言い、彼らを一方に退けて、車をまっすぐ進ませた。
  • 朝廷に入ろうとすると、朝門の外に十数人の官員がおり、皆高い冠に広い帯を締め、整然と居並んでいた。晏子は楚国の豪傑の一団であると悟り、あわてて車を降りた。官員たちは進み出てそれぞれ挨拶を交わし、ひとまず左右に分かれて並び、朝見を待った。
  • その中で一人の若者が、まず口を開いて尋ねた。「大夫殿はもしや夷維の晏平仲であられるか。」晏子が見ると、それは鬥韋亀の子鬥成然であり、官は郊尹であった。晏子は答えた。「そうです。大夫殿には何かご教示がございますか。」成然は言った。「私が聞くところでは、斉は太公の封じられた国であり、軍備は秦楚に匹敵し、財貨は魯衛にまで通じているという。それがどうして桓公の一時の覇業以来、簒奪が相次ぎ、宋・晋に交互に攻められ、今日は晋に朝し明日は楚に朝するという有様で、君臣ともに道を奔走し、安らかな年もないのか。そもそも斉侯の志は、桓公に劣らぬはずであり、平仲殿の賢明さも、管仲に譲らぬはずである。君臣が徳を合わせながら、大いに経綸を展開して先人の遺業を振るい立たせようとお考えにならず、大国に従い仕えて自らを臣僕になぞらえておられるとは、まことに愚かな私には理解いたしかねる。」
  • 晏子は声を張り上げて答えた。「そもそも時務を知る者こそ俊傑であり、機変に通ずる者こそ英豪と申します。そもそも周の綱紀が緩んでよりこのかた、五覇が相次いで興り、斉・晋は中原に覇を唱え、秦は西戎に覇を唱え、楚は南蛮に覇を唱えました。人材が代々輩出したとはいえ、これもまた時運の然らしめるところでございます。晋の文公のあの雄略をもってしても、その喪の最中に兵禍を被り、秦の穆公のあの強盛をもってしても、子孫は弱体化いたしました。荘王の後、楚もまたたびたび晋・呉の侮りを受けております、どうして斉だけのことと申せましょう。我が君は天運の盛衰を知り、時務の機変に通じておられます、それゆえに兵を養い将を練り、時を待って事を挙げようとしておられるのです。今日の使者のやりとりは、隣国同士の往来の礼にすぎず、王制にも記されているところでございます、どうして臣僕などと申されましょうか。あなた様のご先祖である子文は、楚の名臣として、時務を知り機変に通じておられました、もしやあなた様は、その嫡流の子孫ではあられぬのではございませんか。なぜそのように筋の通らぬことをおっしゃるのです。」成然は満面に恥じ入り、首をすくめて退いた。
  • しばらくして、左の列の中から一人の士人が尋ねた。「平仲殿は自ら時務を知り機変に通ずる士だと自負しておられるようだが、崔・慶の乱に際して、斉の臣で賈挙をはじめとして節に殉じ義に死んだ者は数え切れぬほどいたのに、陳文子は馬十乗を持ちながらこれを捨てて去った。あなたは斉の名家の出でありながら、上は賊を討伐することもできず、下は位を避けることもできず、中では死をもって節を示すこともできなかった、いったい何をそれほどまでに名誉や地位に恋々となさっておられるのか。」
  • 晏子がこれを見ると、楚の上大夫陽、字は子瑕、穆王の曾孫であった。晏子はすぐさま答えた。「大きな節義を抱く者は、小さな信義にこだわらず、遠い先を思う者は、目先の小さな計略にこだわらぬものです。私が聞くところでは、君主は社稷のために死ぬべきものだと申します。しかるに先君荘公は、社稷のために死んだわけではございません、彼に殉じて死んだ者は、皆その私的な寵臣にすぎません。嬰は不才の身ではございますが、どうしてその寵幸の列に身を置いて、一死をもって名を売るような真似をいたしましょうか。しかも、臣下たる者が国家の難に遭遇したとき、可能ならばこれを図り、不可能ならばこれを去るものです。私が去らなかったのは、新君を定め祖先の祭祀を保とうとしたためであって、地位を貪ったのではございません。もし誰もかれもが皆去ってしまえば、国事は誰に頼ればよいのでしょう。しかも主君や父の変事は、どこの国にもあるものです、あなたは楚国の朝廷に列する諸公が、皆賊を討ち難に殉じた士だとお思いですか。」この一言は、暗に楚の熊虔(霊王)が主君を弑したのに、諸臣がかえってこれを君主として戴いていることを指しており、人を責めるばかりで自らを省みない態度をたしなめたものであった。公孫瑕は答える言葉もなかった。
  • しばらくして、右の列の中からまた一人が進み出て言った。「平仲殿は『新君を定め祖先の祭祀を保とうとした』とおっしゃるが、それはいささか大げさに過ぎよう。崔・慶が互いに図り、欒・高・陳・鮑が互いに相争ったとき、あなたはその間で日和見を決め込み、一つも奇策を打ち出さず、ただ人の成し遂げたことに乗じるばかりであった。心を尽くして国に報いるとは、その程度のものなのか。」晏子がこれを見ると、右尹鄭丹、字は子革であった。晏子は笑って言った。「あなたは一を知って二を知らぬ。崔・慶の盟には、嬰ひとりだけが加わらなかったのです。四氏族の難のときには、嬰は主君のおそばにおりました。剛であるべきときは剛に、柔であるべきときは柔に、機に応じて動くこと、これはもとより君国を保全することを主とするものです、これがどうして傍観者に窺い知れるものでございましょうか。」
  • 左の列の中からまた一人が進み出て言った。「立派な男子たる者、時に処し主に遇い、大きな才略を持つ者には、必ず大きな器量があるものだ。愚見によれば、平仲殿はいささか吝嗇の徒と申せよう。」晏子がこれを見ると、太宰薳啟疆であった。晏子は「あなたは何をもって嬰を吝嗇とお考えか」と言った。啟疆は言った。「立派な男子たる者、明主に仕え相国の位にありながら、美しい衣服を身にまとい、車馬を盛んに飾って、主君の寵愛の栄誉を示すのが当然であろう。それなのに破れた皮衣に痩せ馬で、外国へ使いに出るとは、俸禄が足りぬわけでもあるまいに。しかも聞くところでは、平仲殿は若い頃から狐の皮衣を着て、三十年も取り替えなかったとか。祭祀の礼でも、豚の肩肉が豆(祭器)を覆いきれぬほど質素だったという、これが吝嗇でなくて何であろうか。」
  • 晏子は手を打って大笑いして言った。「あなたのお考えは、なんと浅いことか。嬰が相国の位についてよりこのかた、父方の一族は皆裘(毛皮衣)を着られるようになり、母方の一族は皆肉を食べられるようになり、妻の一族に至るまで、凍え飢える者はございません。田舎の士で、嬰の恩恵によって火を焚くことができる者は、七十余家にのぼります。私の家は倹しくとも、三族はゆたかに、この身は吝嗇に見えても、多くの士がその恩恵で足りているのです。これをもって主君のご寵愛の栄誉を示すのであれば、なんと大きなものではございませんか。」
  • 言い終わらぬうちに、右の列の中からまた一人が進み出て、晏子を指さして大笑いして言った。「私が聞くところでは、成湯は身の丈九尺で賢王となり、子桑は万人に匹敵する力を持って名将となったという。昔の明君や達人は、皆その体格の魁偉さ、雄々しく勇猛なること世に冠たるものがあったからこそ、当時に功を立て、後世に名を残せたのだ。今、あなたは身の丈五尺にも満たず、力は一羽の鶏にも勝てぬというのに、ただ口先だけで自らを有能だと思っているとは、なんと恥ずかしいことではないか。」晏子がこれを見ると、公子真の孫、囊瓦、字は子常であり、現在は楚王の車右の職にあった。
  • 嬰はにっこりと微笑んで答えた。「私が聞くところでは、秤の分銅は小さくとも千斤を圧することができ、舟の櫂は長くとも結局は水の中で働く道具にすぎぬといいます。僑如は背が高くとも魯で討ち取られ、南宮萬は絶大な力を持ちながら宋で処刑されました。あなたは背が高く力も強い、まさか彼らと同じ運命に近いのではありませぬか。嬰は自らに能がないことを知っておりますので、ただ問われれば答えるだけのこと、どうしてあえて自ら口先を弄する必要がございましょうか。」囊瓦は答える言葉がなかった。
  • 「令尹薳罷様がお越しになりました」と告げる者があり、人々は皆手をつかねて立ってこれを待った。伍挙は晏子を朝門へと導き入れ、諸大夫に言った。「平仲殿は斉の賢士である、諸君はどうして言葉で責め立てなさるのか。」

晏嬰、霊王との対面と帰国後の逸話

  • まもなく、霊王が殿に上がり、伍挙は晏子を引き連れて謁見させた。霊王は晏子を見るなり、すぐさま尋ねた。「斉国にはもともと人材がおらぬのか。」晏子は言った。「斉国では息を吐けば雲となり、汗をぬぐえば雨となり、行く人は肩がぶつかり合い、立つ人は足跡が重なり合うほどでございます、どうして人材がないと申せましょう。」霊王は「それならば、なぜ小人物を我が国への使者としてよこしたのか」と言った。晏子は言った。「わが国には使者を遣わす際の常のしきたりがございます。賢者は賢国に使いし、不肖の者は不肖の国に使いします。大人物は大国に使いし、小人物は小国に使いします。臣は小人物であり、しかももっとも不肖の者でございます、それゆえ楚国への使者となったのです。」楚王はこの言葉に恥じ入りつつも、内心密かに驚異の念を抱いた。
  • 使いの事がすべて終わると、ちょうど郊外の民が合歓橘(蜜柑)を献上してきた。霊王はまず一つを晏嬰に賜ったところ、嬰は皮ごとそのまま食べた。霊王は手を打って大笑いし、「斉の人はまだ橘を食べたことがないのか。なぜ皮を剥かないのか」と言った。晏子は答えた。「私が聞くところでは、『君の賜物を受ける者は、瓜や桃は削らず、橘や柑は皮を剥かない』ものだといいます。今、大王のご恩賜をこうむること、あたかも我が君のごとくでございます、大王が皮を剥くようご指示になりませんでしたので、あえて全部そのままいただいたのです。」霊王は思わず敬意を抱き、席を与え酒を賜った。
  • しばらくして、武士三、四人が、一人の囚人を縛って御殿の階下を通り過ぎた。霊王はすぐさま「囚人はどこの者か」と尋ねた。武士は「斉国の者でございます」と答えた。霊王は「何の罪を犯したのか」と尋ねた。武士は「盗みでございます」と答えた。霊王はそこで晏子を振り返って言った。「斉人は盗みを働くのが常なのか。」晏子はそれが故意に自分をからかうための仕掛けであると悟り、額を地につけて拝し、こう言った。「私が聞くところでは、『江南の橘は、これを江北に移し植えると、変じて枳(からたち)になる』と申します。そうなる理由は、土地の性質が異なるからでございます。今、この者は斉に生まれ、斉にいる間は盗みをせず、楚に来てから盗みを働いたとすれば、楚の風土がそうさせたのでしょう、斉に何の関わりがございましょう。」霊王はしばらく黙り込んでから、「寡人はもともとそなたを辱めようとしたが、かえってそなたに辱められてしまったな」と言った。そこで厚くもてなし、斉国へ帰らせた。
  • 斉の景公は晏嬰の功績を称え、上相の地位に尊び、千金の裘を賜り、封地を割いてその領地を増やそうとしたが、晏子はいずれも受けなかった。また晏子の邸宅を広げようとしたが、晏子はこれも力を尽くして辞退した。
  • ある日、景公が晏子の家を訪れ、その妻を見て晏子に言った。「これがそなたの内儀か。」嬰は「さようでございます」と答えた。景公は笑って「ああ、年老いて醜いではないか。寡人には愛らしい娘がおる、若く美しい、そなたに娶らせたいと思うが」と言った。嬰は答えた。「若く美しい女性が人に仕える理由は、その者が年老いて醜くなった後を託せると思うからでございます。臣の妻は年老いて醜くとも、すでにその昔、私に身を託されました、どうして裏切ることができましょうか。」景公は嘆いて「そなたは妻すら裏切らぬ、まして主君や父に対してはなおさらであろう」と言った。こうして景公は晏子の忠義をいっそう深く信じ、ますます重んじて委任するようになった。この後の出来事は、次回に述べることとしよう。
原文(底本)
話說陳哀公名溺,其元妃鄭姬生子偃師,已立為世子矣。次妃生公子留,三妃生公子勝。次妃善媚得寵,既生留,哀公極其寵愛,但以偃師已立,廢之無名。乃以其弟司徒公子招為留太傅,公子過為少傅,囑付招過:「異日偃師當傳位於子留。」周景王十一年,陳哀公病廢在床,久不視朝。公子招謂公子過曰:「公孫吳且長矣,若偃師嗣位,必復立吳為世子,安能及留?是負君之託也。今君病廢已久,事在吾等掌握,及君未死,假以君命,殺偃師而立留,可以無悔。」公子過以為然,乃與大夫陳孔奐商議。孔奐曰:「世子每日必入宮問疾三次,朝夕在君左右,命不可假也。不若伏甲於宮巷,俟其出入,乘便刺之,一夫之力耳。」過遂與招定計,以其事託孔奐,許以立留之日,益封大邑。孔奐自去陰召心腹力士,混於守門人役數內,閽人又認做世子親隨,並不疑慮。世子偃師問安畢,夜出宮門,力士滅其火,刺殺之。宮門大亂。須臾,公子招同公子過到,佯作驚駭之狀,一面使人搜賊,一面倡言:「陳侯病篤,宜立次子留為君。」陳哀公聞變,憤恚自縊而死。史臣有詩云:

    嫡長宜君國本安,如何寵庶起爭端?古今多少偏心父,請把陳哀仔細看!

司徒招奉公子留主喪即位,遣大夫于徵師以病薨赴告於楚。時伍舉侍於靈王之側,聞陳已立公子留為君,不知世子偃師下落,方在疑惑。忽報「陳侯第三子公子勝同姪兒公孫吳求見。」靈王召之,問其來意。二人哭拜於地。公子勝開言:「嫡兄世子偃師,被司徒招與公子過設謀枉殺,致父親自縊而死。擅立公子留為君,我等恐其見害,特來相投。」靈王詰問于徵師。徵師初猶抵賴,卻被公子勝指實,無言可答。靈王怒曰:「汝即招過之黨也!」喝教刀斧手,將徵師綁下斬訖。伍舉奏曰:「王已誅逆臣之使,宜奉公孫吳以討招過之罪,名正言順,誰敢不服?既定陳國,次及於蔡,先君莊王之績,不足道也。」靈王大悅。乃出令興師伐陳。公子留聞于徵師見殺,懼禍不願為君,出奔鄭國去了。或勸司徒招:「何不同奔?」招曰:「楚師若至,我自有計退之。」

  卻說楚靈王大兵至陳。陳人皆憐偃師之死,見公孫吳在軍中,無不踴躍,咸簞食壺漿,以迎楚師。司徒招事急,使人請公子過議事。過來,坐定,問曰:「司徒云『有計退楚』,計將安出?」招曰:「退楚只須一物,欲問汝借。」過又問:「何物?」招曰:「借汝頭耳!」過大驚,方欲起身。招左右鞭捶亂下,將過擊倒,即拔劍斬其首,親自持赴楚軍,稽首訴曰:「殺世子立留,皆公子過之所為。招今仗大王之威,斬過以獻,惟君赦臣不敏之罪!」靈王聽其言詞卑遜,心中已自歡喜。招又膝行而前,行近王座,密奏曰:「昔莊王定陳之亂,已縣陳矣,後復封之,遂喪其功。今公子留懼罪出奔,陳國無主,願大王收為郡縣,勿為他姓所有也。」靈王大喜曰:「汝言正合吾意。汝且歸國,為寡人辟除宮室,以候寡人之巡幸。」司徒招叩謝而去。公子勝聞靈王放招還國,復來哭訴,言:「造謀俱出於招,其臨時行事,則過使大夫孔奐為之。今乃委罪於過,冀以自解,先君先太子目不瞑於地下矣。」言罷,痛哭不已,一軍為之感動。靈王慰之曰:「公子勿悲,寡人自有處分。」次日,司徒招備法駕儀從,來迎楚王入城。靈王坐於朝堂,陳國百官俱來參謁。靈王喚陳孔奐至前,責之曰:「戕賊世子,皆汝行凶,不誅何以儆眾!」叱左右將孔奐斬訖。與公子過二首,共懸於國門。復誚司徒招曰:「寡人本欲相寬,奈公論不容何?今赦汝一命,便可移家遠竄東海。」招倉皇不敢措辯,只得拜辭。靈王使人押往越國安置去訖。公子勝率領公孫吳拜謝討賊之恩。靈王謂公孫吳曰:「本欲立汝,以延胡公之祀。但招過之黨尚多,怨汝必深,恐為汝害,汝姑從寡人歸楚。」乃命毀陳之宗廟,改陳國為縣。以穿封戍爭鄭囚皇頡事,不為諂媚,使守陳地,謂之陳公。陳人大失望。髯翁有詩嘆云:

    本興義旅誅殘賊,卻愛山河立縣封。記得蹊田奪牛語,恨無忠諫似申公!

  靈王攜公孫吳以歸,休兵一載,然後伐蔡。伍舉獻謀曰:「蔡般怙惡已久,忘其罪矣。若往討,彼反有詞,不如誘而殺之。」靈王從其計。乃託言巡方,駐軍於申地,使人致幣於蔡,請靈公至申地相會。使人呈上國書,蔡侯啟而讀之,略云:

    寡人願望君侯之顏色,請君侯辱臨於申。不腆之儀,預以犒從者。

蔡侯將戎車起行。大夫公孫歸生諫曰:「楚王為人,貪而無信。今使人之來,幣重而言卑,殆誘我也。君不可往!」蔡侯曰:「蔡之地不能當楚之一縣,召而不往,彼若加兵,誰能抗之?」歸生曰:「然則請立世子而後行。」蔡侯從之,立其子有為世子,使歸生輔之監國。即日命駕至申,謁見靈王。靈王曰:「自此地一別,於今八年矣,且喜君丰姿如舊。」蔡侯對曰:「般荷上國辱收盟籍,以君王之靈,鎮撫敝邑,感恩非淺。聞君王拓地商墟,方欲馳賀,使命下臨,敢不趨承。」靈王即於申地行宮,設宴款待蔡侯,大陳歌舞,賓主痛飲甚樂。復遷席於他寢,使伍舉勞從者於外館。蔡侯歡飲,不覺酕醄大醉。壁衣中伏有甲士,靈王擲杯為號,甲士突起,縛蔡侯於席上。蔡侯醉中,尚不知也。靈王使人宣言於眾曰:「蔡般弒其君父,寡人代天行討。從者無罪,降者有賞,願歸者聽。」原來蔡侯待下,極有恩禮,從行諸臣,無一人肯降者。靈王一聲號令,楚軍圍裹將來,俱被擒獲。蔡侯方纔酒醒,知身被束縛,張目視靈王曰:「般得何罪?」靈王曰:「汝親弒其父,悖逆天理,今日死猶晚矣。」蔡侯嘆曰:「吾悔不用歸生之言也!」靈王命將蔡侯磔死,從死者共七十人,輿隸最賤者,俱誅不赦。大書蔡侯般弒逆之罪於版,宣布國中。遂命公子棄疾統領大軍,長驅入蔡。宋儒論蔡般罪固當誅,然誘而殺之,非法也。髯翁有詩云:

    蔡般無父亦無君,鳴鼓方能正大倫。莫怪誘誅非法典,楚靈原是弒君人。

  卻說蔡世子有,自其父發駕之後,旦晚使諜者探聽。忽報蔡侯被殺,楚兵不日臨蔡,世子有即時糾集兵眾,授兵登埤。楚兵至,圍之數重。公孫歸生曰:「蔡雖久附於楚,然晉楚合成,歸生實與載書。不若遣人求救於晉,儻惠顧前盟,或者肯來相援。」世子有從其計,募國人能使晉者。蔡洧之父蔡略,從蔡侯於申,在被殺七十人之中。洧欲報父讎,應募而出,領了國書,乘夜縋城北走,直達晉國,來見晉昭公,哭訴其事。昭公集群臣問之。荀吳奏曰:「晉為盟主,諸侯依賴以為安。既不救陳,又不救蔡,盟主之業墮矣。」昭公曰:「楚虔暴橫,吾兵力不逮,奈何?」韓起對曰:「雖知不逮,可坐視乎?何不合諸侯以謀之?」昭公乃命韓起約諸國會於厥憖。宋、齊、魯、衛、鄭、曹,各遣大夫至會所聽命。韓起言及救蔡之事,各國大夫人人伸舌,個個搖首,沒一個肯擔當主張的。韓起曰:「諸君畏楚如此,將聽其蠶食乎?倘楚兵由陳蔡漸及諸國,寡君亦不敢與聞矣。」眾人面面相覷,莫有應者。時宋國右師華亥在會,韓起獨謂華亥曰:「盟宋之役,汝家先右師實倡其謀,約定南北弭兵,有先用兵者,各國共伐之。今楚首先敗約,加兵陳蔡,汝袖手不發一言,非楚無信,乃爾國之欺謾也。」華亥觳觫對曰:「下國何敢欺謾,得罪主盟?但蠻夷不顧信義,下國無如之何耳。今各國久弛武備,一旦用兵,勝負未卜。不若遵弭兵之約,遣一使為蔡請宥,楚必無辭。」韓起見各國大夫俱有懼楚之意,料救蔡一事,鼓舞不來,乃商議修書一封,遣大夫狐父,逕至申城,來見楚靈王。蔡洧見各國不肯發兵救蔡,號泣而去。狐父到申城將書呈上,靈王拆書看之,略云:

    日者,宋之盟,南北交見,本以弭兵為名。虢之會,再申舊約,鬼神臨之。寡君率諸侯恪守成言,不敢一試干戈。今陳蔡有罪,上國赫然震怒,興師往討,義憤所激,聊以從權。罪人既誅,兵猶未解,上國其何說之辭?諸國大夫執政,皆走集敝邑,責寡君以拯溺解紛之義,寡君愧焉!猶懼以徵發師徒,自干盟約,遣下臣起合諸大夫共此尺書,為蔡請命。倘上國惠顧前好,存蔡之宗廟,寡君及同盟,咸受君賜,豈惟蔡人。

書末,宋齊各國大夫,俱署有名字。靈王覽畢笑曰:「蔡城旦暮且下,汝以空言解圍,以三尺童子待寡人耶?汝去回復汝君,陳蔡乃孤家屬國,與汝北方無與,不勞照管。」狐父再欲哀懇,靈王遽起身入內,亦無片紙回書。狐父怏怏而回。晉君臣雖則恨楚,無可奈何。正是:

    有力無心空負力,有心無力枉勞心。若還心力齊齊到,涸海移山孰敢禁!

蔡洧回至蔡國,被楚巡軍所獲,解到公子棄疾帳前。棄疾脅使投降,蔡洧不從,乃囚於後軍。棄疾知晉救不至,攻城益力。歸生曰:「事急矣!臣當拼一命,逕往楚營,說之退兵。萬一見聽,免至生靈塗炭。」世子有曰:「城中調度,全賴大夫,安可舍孤而去?」歸生對曰:「殿下若不相舍,臣子朝吳可使也。」世子召朝吳至,含淚遣之。朝吳出城往見棄疾,棄疾待之以禮。朝吳曰:「公子重兵加蔡,蔡知亡矣。然未知罪之在也。若以先君般失德,不蒙赦宥,則世子何罪?蔡之宗社何罪?幸公子憐而察之!」棄疾曰:「吾亦知蔡無滅亡之道,但受命攻城,若無功歸報,必得罪矣。」朝吳曰:「吳更有一言,請屏左右。」棄疾曰:「汝第言之,吾左右無妨也。」朝吳曰:「楚王得國非正,公子寧不知之?凡有人心,莫不怨憤!又內竭脂膏於土木,外竭筋骨於干戈,用民不恤,貪得無厭,昔歲滅陳,今復誘蔡。公子不念君讎,奉其驅使,怨黷方作,公子將分其半矣!公子賢明著譽,且有『當璧』之祥,楚人皆欲得公子為君,誠反戈內向,誅其弒君虐民之罪,人心響應,誰能為公子抗者!孰與事無道之君,斂萬民之怨乎?公子倘幸聽愚計,吳願率死亡之餘,為公子先驅。」棄疾怒曰:「匹夫敢以巧言離間我君臣!本該斬首,姑寄汝頭於頸上,傳語世子,速速面縛出降,尚可保全餘喘也。」叱左右牽朝吳出營。原來當初楚共王有寵妾之子五人:長曰熊昭,即康王﹔次曰圍,即靈王虔﹔三曰比,字子干﹔四曰黑肱,字子晳﹔末即公子棄疾也。共王欲於五子之中,立一人為世子,心中不決,乃大祀群神,奉璧密禱曰:「請神於五人中,擇一賢而有福者,使主社稷。」乃以璧密埋於太室之庭中,暗記其處,使五子各齋戒三日後,五更入廟,次第謁祖。視其拜當璧處者,即神所選立之人矣。康王先入,跨過埋璧,拜於其前。靈王拜時,手肘及於璧上。子干子晳,去璧甚遠。棄疾時年尚幼,使傅母抱之入拜,正當璧紐之上。共王心知神佑棄疾,寵愛益篤。因共王薨時,棄疾年尚未長,所以康王先立,然楚大夫聞埋璧之事者,無不知棄疾之當為楚王矣。今日朝吳說及「當璧」之祥,棄疾恐此語傳揚,為靈王所忌,故佯怒而遣之。

  朝吳還入城中,述棄疾之語。世子有曰:「國君死社稷,乃是正理。某雖未成喪嗣位,然既攝位守國,便當與此城相為存亡,豈可屈膝讎人,自同奴隸乎?」於是固守益力。自夏四月圍起,直至冬十一月,公孫歸生積勞成病,臥不能起,城中食盡,餓死者居半,守者疲困,不能禦敵。楚師蟻附而上,城遂破。世子端坐城樓,束手受縛。棄疾入城,撫慰居民﹔將世子有上了囚車,并蔡洧解到靈王處報捷。以朝吳有當璧之言,留之不遣。未幾,歸生死,朝吳遂留事棄疾。此周景王十四年事也。

  時靈王駕已回郢,夢有神人來謁,自稱九岡山之神,曰:「祭我,我使汝得天下。」既覺大喜,遂命駕至九岡山。適棄疾捷報到,即命取世子有充作犧牲,殺以祭神。申無宇諫曰:「昔宋襄用鄫子於次睢之社,諸侯叛之。王不可蹈其覆轍!」靈王曰:「此逆般之子,罪人之後,安得比於諸侯?正當六畜用之耳。」申無宇退而嘆曰:「王汰虐已甚,其不終乎!」遂告老歸田,去訖。蔡洧見世子被殺,哀泣三日。靈王以為忠,乃釋而用之。蔡洧之父,先為靈王所殺,陰懷復讎之志,說靈王曰:「諸侯所以事晉而不事楚者,以晉近而楚遠也。今王奄有陳蔡,與中華接壤,若高廣其城,各賦千乘,以威示諸侯,四方誰不畏服?然後用兵吳越,先服東南,次圖西北,可以代周而為天子。」靈王悅其諛言,日漸寵用。於是重築陳蔡之城,倍加高廣,即用棄疾為蔡公,以酬其滅蔡之功。又築東西二不羹城,據楚之要害,自以天下莫強於楚,指顧可得天下。召太卜將守龜卜之,問:「寡人何日為王?」太卜曰:「君既已稱王矣,尚何問?」靈王曰:「楚周並立,非真王也。得天下者,方為真王耳。」太卜爇龜,龜裂。太卜曰:「所占無成。」靈王擲龜於地,攘臂大呼曰:「天乎,天乎!區區天下,不肯與我,生我熊虔何用?」蔡洧奏曰:「事在人為耳,彼朽骨者何知。」靈王乃悅。

  諸侯畏楚之強,小國來朝,大國來聘,貢獻之使,不絕於道。就中單表一人,乃齊國上大夫晏嬰,字平仲,奉齊景公之命,修聘楚國。靈王謂群下曰:「晏平仲身不滿五尺,而賢名聞於諸侯。當今海內諸國,惟楚最盛,寡人欲恥辱晏嬰,以張楚國之威,卿等有何妙計?」太宰薳啟疆密奏曰:「晏平仲善於應對,一事不足以辱之,必須如此如此。﹍﹍」靈王大悅。薳啟疆夜發卒徒於郢城東門之傍,另鑿小竇,剛剛五尺,吩咐守門軍士:「候齊國使臣到時,卻將城門關閉,使之由竇而入。」不一時,晏嬰身穿破裘,輕車羸馬,來至東門。見城門不開,遂停車不行,使御者呼門。守者指小門示之曰:「大夫出入此竇,寬然有餘,何用啟門?」晏嬰曰:「此狗門,非人所出入也!使狗國者,從狗門入﹔使人國者,還須從人門入。」使者以其言,飛報靈王。王曰:「吾欲戲之,反被其戲矣。」乃命開東門,延之入城。晏子觀看郢都城郭堅固,市井稠密,真乃地靈人傑,江南勝地也。怎見得?宋學士蘇東坡有詠《荊門》詩為證:

    游人出三峽,楚地盡平川。北客隨南廣,吳檣開蜀船。江侵平野斷,風掩白沙旋。欲問興亡意,重城自古堅。

晏嬰正在觀覽,忽見有車騎二乘,從大衢來,車上俱長軀長鬣,精選的出色大漢,盔甲鮮明,手握大弓長戟,狀如天神,來迎晏子,(欲以形晏子之短小。)晏子曰:「今日為聘好而來,非為攻戰,安用武士!」叱退一邊,驅車直進。將入朝,朝門外有十餘位官員,一個個峨冠博帶,濟濟彬彬,列於兩行。晏子知是楚國一班豪傑,慌忙下車。眾官員向前逐一相見,權時分左右敘立,等候朝見。就中一後生,先開口問曰:「大夫莫非夷維晏平仲乎?」晏子視之,乃鬥韋龜之子鬥成然也,官拜郊尹。晏子答曰:「然。大夫有何教益?」成然曰:「吾聞齊乃太公所封之國,兵甲敵於秦楚,貨財通於魯衛。何自桓公一霸之後,篡奪相仍,宋晉交伐,今日朝晉暮楚,君臣奔走道路,殆無寧歲?夫以齊侯之志,豈下桓公,平仲之賢,不讓管子,君臣合德,乃不思大展經綸,丕振舊業,以光先人之緒,而服事大國,自比臣僕,誠愚所不解也。」晏子揚聲對曰:「夫識時務者為俊傑,通機變者為英豪。夫自周綱失馭,五霸迭興,齊晉霸於中原,秦霸西戎,楚霸南蠻,雖曰人材代出,亦是氣運使然。夫以晉文雄略,喪次被兵﹔秦穆強盛,子孫遂弱﹔莊王之後,楚亦每受晉吳之侮﹔豈獨齊哉?寡君知天運之盛衰,達時務之機變,所以養兵練將,待時而舉。今日交聘,乃鄰國往來之禮,載在王制,何謂臣僕?爾祖子文,為楚名臣,識時通變,倘子非其嫡裔耶?何言之悖也。」成然滿面羞慙,縮頸而退。須臾,左班中一士問曰:「平仲固自負識時通變之士,然崔慶之難,齊臣自賈舉以下,效節死義者無數,陳文子有馬十乘,去而違之,子乃齊之世家,上不能討賊,下不能避位,中不能致死,何戀戀於名位耶?」晏子視之,乃楚上大夫陽字子瑕,乃穆王之曾孫也。晏子即對曰:「抱大節者,不拘小諒﹔有遠慮者,豈固近謀?吾聞君死社稷,臣當從之。今先君莊公,非為社稷而死﹔其從死者,皆其私暱。嬰雖不才,何敢廁身寵幸之列,以一死沽名哉?且人臣遇國家之難,能則圖之,不能則去之。吾之不去,欲定新君,以保宗祀,非貪位也。使人人盡去,國事何賴?況君父之變,何國無之?子謂楚國諸公在朝列者,人人皆討賊死難之士乎?」這一句話,暗指著楚熊虔弒君,諸臣反戴之為君,但知責人,不知責己。公孫瑕無言可答。少頃,右班中又一人出曰:「平仲!汝云『欲定新君,以保宗祀』,言太誇矣。崔慶相圖,欒、高、陳、鮑相并,汝依違觀望其間,並不見出奇畫策,無非因人成事。盡心報國者,止於此乎?」晏子視之,乃右尹鄭丹字子革。晏子笑曰:「子知其一,未知其二。崔慶之盟,嬰獨不與。四族之難,嬰在君所。宜剛宜柔,相機而動,主於保全君國,此豈旁觀者所得而窺哉?」左班中又一人出曰:「大丈夫匡時遇主,有大才略,必有大規模。以愚觀平仲,未免為鄙吝之夫矣。」晏子視之,乃太宰薳啟疆也。晏子曰:「足下何以知嬰鄙吝乎?」啟疆曰:「大丈夫身仕明主,貴為相國,固當美服飾,盛車馬,以彰君之寵錫。奈何敝裘羸馬,出使外邦,豈不足於祿食耶?且吾聞平仲,少服狐裘,三十年不易。祭祀之禮,豚肩不能掩豆,非鄙吝而何?」晏子撫掌大笑曰:「足下之見,何其淺也!嬰自居相位以來,父族皆衣裘,母族皆食肉,至於妻族,亦無凍餒。草莽之士,待嬰而舉火者,七十餘家。吾家雖儉,而三族肥,身似吝,而群士足。以此彰君之寵錫,不亦大乎?」言未畢,右班中又一人出,指晏子大笑曰:「吾聞成湯身長九尺,而作賢王﹔子桑力敵萬夫,而為名將。古之明君達士,皆由狀貌魁梧,雄勇冠世,乃能立功當時,垂名後代。今子身不滿五尺,力不勝一雞,徒事口舌,自以為能,寧不可恥!」晏子視之,乃公子真之孫,囊瓦字子常,見為楚王車右之職。嬰乃微微而笑,對曰:「吾聞秤錘雖小,能壓千斤﹔舟漿空長,終為水役。僑如身長而戮於魯,南宮萬絕力而戮於宋,足下身長力大,得無近之?嬰自知無能,但有問則對,又何敢自逞其口舌耶?」囊瓦不能復對。忽報:「令尹薳罷來到。」眾人俱拱立候之。伍舉遂揖晏子入於朝門,謂諸大夫曰:「平仲乃齊之賢士,諸君何得以口語相加?」

  須臾,靈王升殿,伍舉引晏子入見。靈王一見晏子,遽問曰:「齊國固無人耶?」晏子曰:「齊國中呵氣成雲,揮汗成雨,行者摩肩,立者並跡,何謂無人?」靈王曰:「然則何為使小人來聘吾國?」晏子曰:「敝邑出使有常典,賢者奉使賢國,不肖者奉使不肖國,大人則使大國,小人則使小國。臣小人,又最不肖,故以使楚。」楚王慙其言,然心中暗暗驚異。使事畢,適郊人獻合歡橘至,靈王先以一枚賜嬰,嬰遂帶皮而食。靈王鼓掌大笑曰:「齊人豈未嘗橘耶?何為不剖?」晏子對曰:「臣聞『受君賜者,瓜桃不削,橘柑不剖。』今蒙大王之賜,猶吾君也,大王未嘗諭剖,敢不全食?」靈王不覺起敬,賜坐命酒。少頃,武士三四人,縛一囚從殿下而過。靈王遽問:「囚何處人?」武士對曰:「齊國人。」靈王曰:「所犯何罪?」武士對曰:「坐盜。」靈王乃顧謂晏子曰:「齊人慣為盜耶?」晏子知其故意設弄,欲以嘲己,乃頓首曰:「臣聞『江南有橘,移之江北,則化而為枳。』所以然者,地土不同也。今齊人生於齊,不為盜,至楚,則為盜,楚之地土使然,於齊何與焉?」靈王嘿然良久,曰:「寡人本將辱子,今反為子所辱矣。」乃厚為之禮,遣歸齊國。

  齊景公嘉晏嬰之功,尊為上相,賜以千金之裘,欲割地以益其封,晏子皆不受。又欲廣晏子之宅,晏子亦力辭之。一日,景公幸晏子之家,見其妻,謂晏子曰:「此卿之內子耶?」嬰對曰:「然。」景公笑曰:「嘻!老且醜矣!寡人有愛女,年少而美,願以納之於卿。」嬰對曰:「人以少姣事人者,以他年老惡,可相託也。臣妻雖老且醜,然向已受其託矣,安忍倍之?」景公嘆曰:「卿不倍其妻,況君父乎?」於是深信晏子之忠,益隆委任。要知後事,且看下回分解。

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