東周列國志第八十二回 子胥を殺して夫差が歃盟を争う/蒯瞶を入れて子路が纓を結ぶ (殺子胥夫差爭歃 納蒯瞶子路結纓)

呉、齊討伐に向かう――子胥の最後の使い

  • さて周の敬王三十六年春、越王句踐は大夫諸稽郢に兵三千を率いさせ、呉の齊攻めを助けさせた。呉王夫差はそこで九郡の兵を徴発し、大挙して齊を伐とうとした。あらかじめ人を遣わして別館を句曲に建てさせ、あまねく秋の梧桐を植え、梧宮と号した。西施を移り住まわせて避暑させ、齊に勝って凱旋した日には、この梧宮で夏を過ごしてから都に帰るつもりであった。呉の兵が出発しようとするとき、子胥はまた諫めて言った。「越は我が腹心の病であり、齊のごときは、ただの疥癬にすぎません。今、王は十万の軍を興し、千里の道を食糧を運びながら進み、疥癬程度の患いを争って、大毒が腹心にあることを忘れておられます。私は齊に必ずしも勝てず、越の禍がすでに至ってしまうのではないかと恐れます」。夫差は怒って言った。「孤が発兵の期日を定めているのに、老いぼれめがことさらに不吉な言葉を吐いて大計を妨げようとする。何の罪に当たるか」。殺そうとした。伯嚭はひそかに奏上して言った。「これは前王の老臣です。誅を加えてはなりません。王はこれを齊に遣わして戦を約束させ、齊人の手を借りて始末させるのがよろしいでしょう」。夫差は言った。「太宰の計はたいへんよい」。そこで齊が魯を伐ち呉を軽んじた罪を書き連ねた書を作り、子胥に命じて齊君に会わせ、齊が激怒して子胥を殺すことを期待した。子胥は呉が必ず滅びると見越し、そこでひそかに我が子伍封を連れて同行し、臨淄に至り、呉王の命を伝えた。齊の簡公は大いに怒り、子胥を殺そうとしたが、鮑息が諫めて言った。「子胥は呉の忠臣であり、しばしば諫めても聞き入れられず、すでに水と火のような関係になっています。今、子胥を齊に遣わしてきたのは、齊の手で子胥を殺させ、呉王自身が忠臣殺しの悪名を免れようとしてのことです。放って帰らせ、彼らの忠臣と佞臣とを互いに攻撃させれば、夫差はその悪名を受けることになります」。簡公はそこで子胥を厚遇し、開戦の時期を春の終わりと定めて答えた。子胥は元々鮑牧と面識があったので、鮑息は齊侯に子胥を殺さないよう諫めたのであった。鮑息はひそかに呉の事情を尋ねたが、子胥は涙を流すだけで語らず、ただ我が子伍封を連れてきて、鮑息を兄と拝させ、鮑氏のもとに身を寄せさせた。今後は王孫封とだけ称し、伍という姓は用いないようにさせた。鮑息は嘆いて言った。「子胥は諫めて死ぬつもりであるから、あらかじめ伍氏の祭祀を齊に存続させる謀をしていたのだ」。子胥父子の別離の苦しみについては語らない。

呉王の夢と公孫聖の死

  • さて呉王夫差は、日を選んで西門から軍を出発させ、姑蘇台を通って昼食をとり、食事が終わると、にわかに眠り込んで、不思議な夢を見た。目覚めると、心中がぼんやりとしていたので、伯嚭を召して告げた。「寡人は昼寝をわずかな間したが、夢に多くのものを見た。夢の中で章明宮に入ると、二つの釜が炊いても煮えなかった。また黒犬が二匹いて、一匹は南へ、一匹は北へ吠えた。また鋼の鍬が二本あり、宮の塀に突き刺さっていた。また流水がとうとうと殿堂に流れ込んでいた。奥向きの部屋では鼓でも鐘でもない音が、鍛冶のような音を立てていた。前園には他の植物は何もなく、梧桐が横に生い茂っていた。太宰よ、寡人のためにその吉凶を占ってくれ」。伯嚭は頭を地につけて拝礼し、祝賀して言った。「めでたいことでございます。大王の夢は、齊討伐の出兵に応じたものです。私が聞くところでは、章明とは、敵を破って功を成し、声が朗々と響くということです。二つの釜が炊いても煮えないのは、大王の徳が盛んで、気力が余っているということです。二匹の犬が南北に吠えるのは、四夷が服従し、諸侯が朝貢するということです。二本の鍬が宮の塀に刺さるのは、農民が力を尽くし、田夫が耕すということです。流水が殿堂に流れ込むのは、隣国が貢献し、財貨が満ちるということです。奥向きの部屋が鍛冶のような音を立てるのは、宮女が喜び楽しみ、声が和するということです。前園に梧桐が横に生い茂るのは、桐で琴瑟を作り、音調が和すということです。大王のこの度の出征は、素晴らしいと申すほかありません」。夫差はその追従を喜びはしたが、心の中では最後まで晴れやかにならなかった。さらに王孫駱に語ると、駱は答えた。「私は愚昧で、深奥を通じることができません。城西の陽山に、一人の異士がおり、公孫聖という者です。この人は博識で、大王の心中の疑いを、どうして召してお決めにならないのですか」。夫差は言った。「お前は私のためにその者を召し出せ」。駱は命を受け、車を馳せて公孫聖を迎えに行った。聖はその理由を聞くと、地に伏して涙を流した。その妻が傍らから笑って言った。「あなたの性質はあまりに田舎びていて、君主にお目にかかったこともめったにないものだから、急な召命を聞いただけで、涙が雨のように流れるのですね」。聖は天を仰いで長く嘆いて言った。「悲しいことだ。お前の知るところではない。私はかつて自分で寿命を推算し、今日で尽きると出た。今、お前と永遠に別れることになる。だから悲しんでいるのだ」。駱は車に乗るよう促し、そこで一緒に馳せて姑蘇台に至った。夫差は召し出して会見し、夢の詳細を告げた。公孫聖は言った。「私はこれを語れば必ず死ぬと知っておりますが、死ぬとしても申し上げないわけにはまいりません。不思議なことです。大王の夢は、齊討伐の出兵に応じたものです。私が聞くところでは、章とは、戦に勝てず、慌てふためいて逃げ惑うということです。明とは、明るいところを去り、暗いところに就くということです。二つの釜が炊いても煮えないのは、大王が敗走し、火を通した物を食べられないということです。黒犬が南北に吠えるのは、黒は陰の類であり、陰の方角へ逃げるということです。二本の鍬が宮の塀に刺さるのは、越の兵が呉に入り、社稷を掘り返すということです。流水が殿堂に流れ込むのは、波濤に漂い没し、後宮が空になるということです。奥向きの部屋が鍛冶のような音を立てるのは、宮女が捕虜となり、長嘆息するということです。前園に梧桐が横に生い茂るのは、桐は副葬品を作るものであり、殉葬を待つということです。願わくは大王、齊討伐の軍をお止めください。さらに太宰嚭を遣わし、冠を脱ぎ肌をあらわにして、句踐に頭を地につけて謝罪させれば、国は安んじて身も保てるでしょう」。伯嚭は傍らから奏上して言った。「野卑な匹夫が、妖言をほしいままにして人を貶める。誅殺すべきです」。公孫聖は目をむいて大いに罵って言った。「太宰は高官にあり、重禄を食んでいながら、忠を尽くし主に報いることを考えず、専ら諂い媚びることばかりをしている。いつか越の兵が呉を滅ぼしたとき、太宰は独りその首を保てるだろうか」。夫差は大いに怒って言った。「野人は物を知らず、いたずらに乱言を吐く。誅さねば、必ず人心を惑わすだろう」。力士の石番を顧みて言った。「鉄槌を取ってこの賊を撃ち殺せ」。聖はそこで天を仰いで大声で叫んだ。「皇天よ、皇天よ。我が冤罪をお知りください。忠にして罪を得、無実のまま死ぬのです。死んだ後は埋葬を願いません。私を陽山のふもとに捨て置いていただきたい。後に形なき影となり響きとなって、大王にその報いを下してやろう」。夫差はすでに聖を撃ち殺し、人に命じてその屍を陽山のふもとに投げ捨てさせ、その罪を数え上げて罵って言った。「豺狼がお前の肉を食らい、野火がお前の骨を焼き、風がお前の骸を吹き飛ばし、形も影も消え去るだろう。何が声や響きになろうか」。伯嚭は杯を捧げて進み出て言った。「大王にお祝いを申し上げます。妖しい者はすでに滅びました。どうか一杯お受けください。兵はすぐに発することができます」。史臣の詩に曰く(詩:不吉な夢がすでに凶兆を示していたのに、驕った君主はなお齊討伐の功に執着したことを詠み、呉の朝廷に多くの文武がいながら公孫聖ほど忠を尽くす者は誰もいなかったと嘆く内容)。
  • 夫差自ら中軍を率い、太宰嚭を副とし、胥門巣が上軍を、王子姑曹が下軍を率い、十万の軍を興し、越の兵三千とともに、浩々蕩々として、山東への道を進発した。あらかじめ人を遣わして魯の哀公に会同を約させ、齊を攻める兵を合わせようとした。子胥は途中で復命し、病と称して先に帰り、従軍しようとしなかった。

艾陵の戦い

  • さて齊の将国書は、汶水のほとりに屯兵していたが、呉と魯が連合して攻めてくると聞き、諸将を集めて迎撃を協議した。急に報告があった。「陳相国がその弟の陳逆を遣わして到着しました」。国書は諸将とともに中軍に迎え入れ、尋ねた。「あなたがここに来られたのはどういうご用件か」。陳逆は言った。「呉の兵は長駆して、すでに嬴・博を過ぎております。国家の安危は、呼吸の間にあります。相国は諸君が力を尽くさぬことを恐れ、この不肖の私をここに遣わして督戦させたのです。今日の事は、進むだけで退くことはなく、死あるのみで生はありません。軍中ではただ鼓を鳴らすことのみ許され、金を鳴らすことは許されません」。諸将はみな言った。「我らは死をもって決戦を誓う」。国書は令を伝え、陣を払って進み、呉軍を迎え撃った。艾陵に至り、呉の将胥門巣の上軍が先に到着した。国書は問うた。「誰が先鋒を務めるか」。公孫揮が喜んで願い出て、自らの部隊の車馬を率いて、疾駆して出た。胥門巣は急いで迎え撃ち、両軍は交戦し、およそ三十合ほど、勝敗はつかなかった。国書は鋭気を抑えきれず、自ら中軍を率いて挟撃した。軍中の鼓声は雷のごとく、胥門巣は支えきれず、大敗して逃げた。国書は一戦に勝ち、意気ますます盛んになり、兵士に陣中で長い縄を一本ずつ携えるよう命じて言った。「呉の風習は断髪であるから、縄でその首を貫くべきだ」。全軍が狂ったように、呉兵は朝夕にも掃討できると思い込んだ。胥門巣は敗兵を率いて呉王に謁見し、呉王は大いに怒って巣を斬って見せしめにしようとした。巣は言った。「臣は初めここに来て虚実を知らなかったので、たまたま挫折いたしました。もし再戦して勝てなければ、甘んじて軍法に服します」。伯嚭もまた力を尽くして取りなした。夫差は叱って退かせ、大将展如にその軍を代わって指揮させた。ちょうど魯将の叔孫州仇が兵を率いて合流に来ていたので、夫差は剣と甲冑を一具ずつ与え、道案内とし、艾陵から五里離れたところに陣を張った。国書は使者を遣わして戦書を送り、呉王はこれに「明日決戦」と批答した。翌朝、双方が陣を敷き終わると、夫差は叔孫州仇に第一陣を、展如に第二陣を、王子姑曹に第三陣を担当させた。胥門巣には越の兵三千を率いさせ、往来して敵をおびき出させた。自らは伯嚭とともに大軍を高台に屯し、機を見て救援するようにした。越の将諸稽郢を身近に留め置いて戦を観させた。
  • さて齊軍は陣を敷き終えると、陳逆は諸将にそれぞれ含み玉を持たせて言った。「死んだらそのまま棺に納めよ」。公孫夏・公孫揮は軍中に葬送の歌を歌わせ、誓って言った。「生きて帰る者は、気概ある男子ではない」。国書は言った。「諸君が必死を誓っているのだから、勝てないことを心配することがあろうか」。両陣が向かい合うと、胥門巣がまず戦を挑んだ。国書は公孫揮に言った。「これはお前の手にかかった敗将だ。すぐに捕らえよ」。公孫揮は戟を振るって出撃し、胥門巣は逃げ、叔孫州仇が兵を率いて公孫揮と戦った。胥門巣がまた戻ってくると、国書は挟撃を恐れ、再び公孫夏に出撃させた。胥門巣はまた逃げ、公孫夏がこれを追うと、呉陣の大将展如が兵を率いて公孫夏と戦った。胥門巣はまた車を返して助戦し、齊の将高無平・宗楼を怒らせ、二人はともに出陣し、王子姑曹が一身で二将を相手取り、少しも恐れなかった。両軍はそれぞれ力を尽くし、殺傷は互角であった。国書は呉兵が退かないのを見て、自ら太鼓を握って鳴らし、大軍を悉く起こして、助戦に来た。呉王は高台から親しく見ており、齊兵が非常に奮闘し、呉兵が次第に不利になっているのを見て、伯嚭に兵一万を率いさせて先に呼応して救援に向かわせた。国書は呉兵がまた至るのを見て、まさに軍を分けて迎撃しようとしたところ、突然、金の音が大きく響き、鉦や鐸がみな鳴った。齊人はただ呉兵が退くのだと思い、思いがけず呉王夫差が自ら精兵三万を率い、三手に分けて、逆に金を鳴らすのを合図とし、脇道から齊陣に直進し、齊兵を三か所に分断した。展如・姑曹らは、呉王が自ら陣に臨んだと聞いて、勇気百倍し、齊軍を斬り散らしてばらばらに潰走させた。展如は陣中で公孫夏を捕らえ、胥門巣は車中で公孫揮を刺殺し、夫差は自ら宗楼を射て、これに当てた。閭邱明は国書に言った。「齊の兵はほとんど尽きました。元帥は身なりを変えて逃げ、改めて策を練るべきです」。国書は嘆いて言った。「私は十万の強兵を率いていながら、呉人の手に敗れた。どんな顔で朝廷に帰れようか」。そして鎧を脱いで呉軍に突入し、乱軍のうちに殺された。閭邱明は草むらに隠れたが、魯の将州仇に捜し出されて捕らえられた。夫差は齊軍に大勝し、諸将が功を献じ、あわせて上将国書と公孫揮の二人を斬り、公孫夏と閭邱明の二人を生け捕りにし、そのまま斬首した。ただ高無平と陳逆の二人だけが逃げおおせ、その他、捕らえ斬った者は数え切れず、革車八百乗はことごとく呉の所有となり、免れた者はいなかった。夫差は諸稽郢に言った。「お前は呉の兵の強く勇ましいのを見て、越と比べてどう思うか」。郢は頭を地につけて礼をして言った。「呉兵の強さは、天下に敵う者がありません。弱い越など論じるまでもございません」。夫差は大いに喜び、越の兵に厚く賞を与え、諸稽郢を先に帰らせて勝報を伝えさせた。齊の簡公は大いに驚き、陳恒・闞止と協議し、使者を遣わして多くの金幣を貢納させ、罪を謝して和議を請うた。夫差は齊と魯とが再び兄弟の好を修め、互いに侵害しないよう取り計らい、両国はみな命に従って盟に応じた。夫差は凱旋の歌をうたって帰った。史臣の詩に曰く(詩:艾陵に白骨が山のように積まれる一方、世人はこぞって呉王の凱旋を言い立て、その壮んな意気は一時に宇宙をも呑むほどであったが、隠れた憂いがすでに呉の関門に潜んでいることを誰が思っただろうかと詠む内容)。

妖童の歌と子胥の死

  • 夫差は句曲の新宮に帰り、西施に会って言った。「寡人がここに美人を住まわせたのは、会うのを速くするためだ」。西施は拝賀してさらに謝辞を述べた。ちょうど初秋で、梧桐の陰が茂り、涼しい風が吹いていたので、夫差は西施とともに台に登り、酒を飲んで大いに楽しんだ。夜が更けたころ、突然、多くの子供たちが唱和している声が聞こえ、夫差はこれを聞いた。歌に曰く(歌:梧桐の葉が冷え込む中で、呉王は目覚めたのかまだ眠っているのか、梧桐の葉が秋を告げるたびに呉王の憂いはさらに深まる、という趣旨)。夫差はこれを不快に思い、人に命じて子供たちを宮に呼び寄せ、問うた。「この歌は誰が教えたのか」。子供たちは言った。「一人の緋衣を着た童子がおり、どこから来たのか分かりませんが、私たちにこの歌を教えました。今はどこへ行ったか分かりません」。夫差は怒って言った。「寡人は天が生み、神が使わした者である。何の憂いがあろうか」。子供たちを誅殺しようとした。西施が力を尽くして止めたので、ようやくやめた。伯嚭が進み出て言った。「春が来ればあらゆるものが喜び、秋が来ればあらゆるものが悲しむ、これは天の道です。大王の悲喜が天と道を同じくしているのですから、何を憂えることがございましょう」。夫差はそこで機嫌を直した。梧宮に三日いて、すぐに車駕を起こして呉へ帰った。呉王が殿に上がると、百官が迎え祝った。子胥もまた来たが、独り何も言わなかった。夫差は責めて言った。「お前は寡人に齊を伐つべきでないと諫めたが、今、勝って帰ってきた。お前独り功がない。恥ずかしくないのか」。子胥は腕をまくって大いに怒り、剣を外して答えた。「天が人の国を滅ぼそうとするときは、まず小さな喜びを与え、その後に大きな憂いを授けるものです。齊に勝ったのは小さな喜びにすぎません。私は大きな憂いがすぐに訪れることを恐れています」。夫差は不快そうに言った。「久しく相国に会っていなかったので、耳のあたりがいくらか静かに感じていたのに、また来てうるさく言うのか」。そして耳を塞ぎ目を閉じて、殿上に座った。しばらくして、突然目を見開いて長い間じっと見つめ、大声で叫んだ。「怪しいことだ」。群臣が問うた。「王は何をご覧になったのですか」。夫差は言った。「私は四人が背中合わせに寄り添っているのを見た。しばらくして四方に分かれて走り去った。また御殿の階下に二人が向かい合っているのを見た。北向きの者が南向きの者を殺した。卿たちはこれを見たか」。群臣はみな「見ておりません」と言った。子胥は奏上して言った。「四人が背を向けて走ったのは、四方が離散する象です。北向きの者が南向きの者を殺したのは、下が上を賊うことであり、臣が君を弑することです。王がこれを反省なさらなければ、必ず身を弑され国を滅ぼされる禍が起こるでしょう」。夫差は怒って言った。「お前の言葉はあまりに不吉だ。孤が最も聞きたくないことだ」。伯嚭は言った。「四方が離散して呉の朝廷に馳せ参じるということです。呉国が覇王となり、周に代わる事があるということです。これもまた下が上を賊い、臣が君を犯すということです」。夫差は言った。「太宰の言葉は、私の心を開いてくれる。相国は老いぼれてしまい、採るに足らぬところがある」。数日後、越王句踐は群臣を率いて自ら呉に朝見に訪れ、あわせて戦勝を祝った。呉の朝廷の諸臣は、みな贈り物を受けた。伯嚭は言った。「これが呉の朝廷に馳せ参じるという応験です」。呉王は文台の上で酒宴を開き、越王を侍らせて座らせ、諸大夫はみな傍らに侍立した。夫差は言った。「寡人はこう聞いている。『君は功のある臣を忘れず、父は力を尽くした子の功を埋もれさせない』と。今、太宰嚭は寡人のために兵を治めて功があった。私は上卿に取り立てようと思う。越王は孝をもって寡人に仕え、始めから終わりまで倦むことがなかった。私はさらにその国土を増やし、討伐を助けた功に報いようと思う。諸大夫の考えはどうか」。群臣はみな言った。「大王が功に賞し労に報いられるのは、覇王の事業でございます」。そこで子胥は地に伏して涙を流して言った。「ああ、悲しいことだ。忠臣は口を塞がれ、讒者が側にいて、邪説と諛辞が、曲を直と成す。乱を養い姦を蓄えて、まさに呉国を滅ぼそうとしている。廟社は廃墟となり、殿には荊棘が生えるであろう」。夫差は大いに怒って言った。「老いぼれめが多くの詐りを弄し、呉に災いをなす妖しい者となっている。権力を専らにし威を擅にして、我が国を覆そうとしているのだ。寡人は前王のゆえに、忍んで誅を加えずにきたが、今、退いて自ら考えよ。再び会うには及ばぬ」。子胥は言った。「老臣がもし不忠不信であったなら、前王の臣となることはできなかったであろう。譬えるなら、龍逢が桀に、比干が紂に逢ったようなもので、臣は誅されても、君もまた後に滅びるであろう。臣は王と永遠に別れる。二度とお目にかかることはない」。そして走り出て行った。呉王の怒りはなお収まらなかった。伯嚭は言った。「私は聞いております。子胥は齊への使いに行った際、その子を齊の臣鮑氏に託しました。呉に叛く心があるのです。王はこれをお察しください」。夫差はそこで人を遣わして子胥に「属鏤」の剣を賜った。子胥は剣を手に取り、嘆いて言った。「王は私に自裁させようとしているのだ」。そこではだしのまま階段を下り、中庭に立ち、天を仰いで大声で叫んだ。「天よ、天よ。かつて先王は汝を立てようとされなかったが、私が力を尽くして争ったので、汝は跡を継ぐことができた。私は汝のために楚を破り越を破り、威を諸侯に加えた。今、汝は私の言葉を用いず、逆に私に死を賜った。私が今日死ねば、明日には越の兵が至り、汝の社稷を掘り返すであろう」。そして家人に告げて言った。「私が死んだ後、私の目をえぐり出し、東門に懸けよ。越の兵が呉に入るのを見よう」。言い終えると、自らその喉を刎ねて息絶えた。使者は剣を持ち帰って報告し、その臨終の言葉を述べた。夫差はその屍を見に行き、その罪を数え上げて罵って言った。「胥よ、お前は死んだ後、まだ何かが分かるとでもいうのか」。そして自らその首を切り、盤門の城楼の上に置いた。その屍は革袋に収め、人に命じて運ばせ、江に投げ込ませて言った。「日月がお前の骨を焼き、魚やすっぽんがお前の肉を食らい、お前の骨は形を失い灰となるのだ、それでもなお何が見えるというのか」。屍は江に入り、流れに従って波を揚げ、潮に応じて往来し、激しく岸を崩した。土地の人々はこれを恐れ、ひそかにこれをすくい取り、呉山に埋めた。後世、これによって胥山と呼び名を改め、今、山には子胥廟がある。隴西居士に古体詩一篇あり(詩:伍子胥の生涯を回顧する内容。幼くして英武の誉れ高く、父兄を讒言で殺されて楚から出奔し、呉に仕えて楚を破り仇を報い、再び呉の業を振るい起こして夫椒の一戦で強越を追い詰めた功業を讃える一方、釜の中の魚やすっぽんも同然であった句踐を呉の為政者自らの手で逃がしたのは、虎を山に放って自ら噛まれるようなものだったと難じ、姑蘇台で西施が笑い讒臣が祝賀する傍らで忠臣はその死を弔い、二代にわたり呉を輔けた功がついに属鏤の剣で報いられた無念を詠み、その革袋に収めた屍が銭塘の潮を巻き起こし、朝な夕なに呼び号くがごとく、呉越の興亡が過去のこととなっても忠魂の恨みは千古消えないと結ぶ内容)。

邗溝の開削と太子友の諷諫

  • 夫差はすでに子胥を殺し、伯嚭を進めて相国とした。越の封地を増やそうとしたが、句踐が固辞したのでやめた。そこで句踐は越に帰り、呉を謀る計をますます急いだ。夫差はまったく気に留めず、いよいよ露わに驕り高ぶった。そして数万の兵卒を発して、邗城を築き、溝を掘り、東北は射陽湖に通じさせ、西北は長江と淮水の水を合わせさせ、北は沂水に達し、西は済水に達するようにした。太子友は、呉王が再び中原の諸侯と会盟しようとしていることを知り、切に諫めようとしたが、怒りに触れることを恐れ、諷諫によって父を悟らせようと考えた。ある日の夜明けがた、弾丸を懐に弓を持ち、後園から戻ってくると、衣も履もびしょ濡れであった。呉王は不審に思って問うた。友は答えて言った。「孩児はたまたま後園に遊び、高い木で秋蝉が鳴いているのを聞き、行って見ました。秋蝉は風に向かって長く鳴いており、自ら安全な場所を得ていると思っておりました。しかし、螳螂が枝を伝って進み、腰をくねらせ脚を伸ばして、蝉を捕らえて食べようとしていることに気づいておりませんでした。螳螂は一心に蝉だけを狙っており、黄雀が緑の陰を徘徊し、螳螂を啄もうとしていることに気づいておりませんでした。黄雀は一心に螳螂だけを狙っており、孩児が弾を挟み弓を持ち、黄雀を撃とうとしていることに気づいておりませんでした。孩児は一心に黄雀だけを狙っており、また傍らに空の穴があり、そこに足を踏み外して落ちてしまうことに気づいておりませんでした。それで衣も履もすっかり濡れてしまい、父王に笑われることになりました」。呉王は言った。「お前は目先の利ばかり貪り、後の患いを顧みない。天下の愚かさで、これほどのものはない」。友は答えて言った。「天下の愚かさには、もっと甚だしいものがございます。魯は周公の後を継ぎ、孔子の教えを受け、隣国を犯すことはありません。齊は理由もなくこれを謀り伐とうとし、そのまま魯を手に入れたと思い込んでいましたが、呉が国内の兵を尽くし、軍を千里の遠方まで出して攻めてくることを知りませんでした。呉は齊軍を大いに破り、そのまま齊を手に入れたと思い込んでいますが、越王が死を覚悟した士を選び、三江の口を出て五湖の中に入り、我が呉国を屠り、我が呉宮を滅ぼそうとしていることを知りません。天下の愚かさで、これほどのものはございません」。呉王は怒って言った。「これは伍員の言い残しだ。とうに聞き飽きている。お前はまたそれを拾い上げて、我が大計を妨げようとするのか。これ以上多く言うなら、我が子ではない」。太子友は恐れ入って退出した。夫差はそこで太子友を王子地・王孫弥庸とともに国を守らせ、自ら国中の精兵を率い、邗溝より北上し、橐皋で魯の哀公と会し、発陽で衛の出公と会し、そして諸侯を招集し、黄池で大会し、晋と盟主の座を争おうとした。

越の呉襲撃と太子友の死

  • 越王句踐は呉王がすでに国境を出たと聞き、そこで范蠡と計議し、水戦に習熟した兵二千人、選り抜きの精兵四万、親衛の精鋭部隊「君子」六千人を発し、海路より江を通って呉を襲わせた。先鋒の疇無余がまず呉の郊外に至ると、王孫弥庸が出戦し、数度の打ち合いも経たぬうちに、王子地が兵を率いて挟撃し、疇無余は馬が倒れて捕らえられた。翌日、句踐の大軍がすべて到着した。太子友は堅く守ろうとしたが、王孫弥庸は言った。「越人は呉を畏れる心がまだ残っています。しかも遠路来て疲れ果てております。もう一度勝てば、必ず退くでしょう。もし勝てなくとも、守るのはまだ間に合います」。太子友はその言葉に惑わされ、そこで弥庸に出撃させ、友がその後に続いた。句踐は自ら陣に立ち、督戦した。陣が合戦すると、范蠡と泄庸の両翼が喊声を上げて至り、その勢いは風雨のようであった。呉の精鋭な戦い慣れた兵は、みな呉王に従って出征しており、国内にはまだ訓練の足りない兵卒しか残っていなかった。しかし越国は数年鍛え上げた精鋭な兵であり、弓弩や剣戟も非常に鋭利で、さらに范蠡・泄庸はいずれも老練な将であったから、どうして抵抗できようか、呉兵は大敗した。王孫弥庸は泄庸に殺された。太子友は越軍の中に陥り、突破できず、身に数本の矢を受け、捕らえられ辱められることを恐れ、自ら首を刎ねて死んだ。越の兵はまっすぐ城下に迫った。王子地は城門を固く閉じ、民衆を率いて城壁の守りにあたり、一方で人を遣わして呉王のもとへ急を告げさせた。句踐は水軍を太湖に、陸営を胥門と閶門の間に留め、范蠡に姑蘇台を焼かせ、火はひと月にわたり消えず、かの「餘皇」の大船は、みな湖の中に移させた。呉の兵はもはやあえて城を出ようとしなかった。

黄池の会と盟主の座

  • さて呉王夫差は魯・衛の二君とともに黄池に至り、人を遣わして晋の定公に会に赴くよう請うと、晋の定公はあえて来ないわけにはいかなかった。夫差は王孫駱に晋の上卿趙鞅と盟書の名の順序について協議させた。趙鞅は言った。「晋は代々、中原諸侯の盟を主宰してきた。どうして譲らねばならぬのか」。王孫駱は言った。「晋の祖叔虞は、成王の弟であり、呉の祖太伯は、武王の伯祖父にあたる。尊卑の隔たりは数代におよぶ。しかも晋がたとえ盟を主宰しても、宋の地での会盟でも虢の地での会盟でも、すでに楚の下に位置した。今それでもなお呉の上に位置しようというのか」。そこで両者は言い争い、連日決着がつかなかった。突然、王子地からの密使が到着し、告げて言った。「越の兵が呉に入り、太子を殺し、姑蘇台を焼き、今も城を囲んでおり、情勢は非常に危急です」。夫差は大いに驚いた。伯嚭は剣を抜いて使者を斬り殺した。夫差は問うた。「お前はなぜ使者を殺したのか」。伯嚭は言った。「事の真偽はまだ分かりません。使者を留めてその言葉を洩らせば、齊や晋がこの危機に乗じて事を起こすでしょう。大王はどうして安穏に帰れましょうか」。夫差は言った。「お前の言う通りだ。しかし呉と晋の座次争いはまだ決着せず、さらにこの報せもある。孤は会盟せずに帰るべきか。それとも会盟して晋に先んじさせるべきか」。王孫駱は進み出て言った。「どちらもいけません。会盟せずに帰れば、人は我らの危急を窺い知るでしょう。もし会盟して晋に先んじさせれば、我らの行動は、晋の命に従うことになってしまいます。必ず会盟を主宰し、これで初めて憂いなきを保てましょう」。夫差は言った。「会盟を主宰しようとすれば、どのような計を出すべきか」。王孫駱はひそかに奏上して言った。「事は危急にあります。王は鼓を鳴らして戦を挑み、晋人の気勢を奪うのがよろしいでしょう」。夫差は言った。「よろしい」。その夜、令を出し、真夜中に兵士たちに存分に食事と馬の飼葉を与え、枚を銜ませて速やかに進軍させ、晋軍からわずか一里の地点で方陣を結んだ。百人を一行とし、一行ごとに大旗を一本立て、百二十行で一面とした。中軍はみな白い車、白い旗、白い甲、白い羽の矰で、遠くから見るとまるで白茅の穂が出たようであった。呉王は自ら鉞を仗し、白い旌を執って、陣の中央に立った。左軍は左を向き、これも百二十行あった。みな赤い車、赤い旗、朱の甲、朱の羽の矰で、遠くから見ればまるで火のようであり、太宰嚭がこれを主宰した。右軍は右を向き、これも百二十行あった。みな黒い車、黒い旗、玄の甲、烏の羽の矰で、遠くから見ればまるで墨のようであり、王孫駱がこれを主宰した。甲を帯びた兵は、あわせて三万六千人であった。夜明けに陣が定まると、呉王は自ら鼓を握って鳴らし、軍中の万の鼓がみな鳴り、鐘の音、鐸の音、丁寧・錞于といった鳴り物が、一時にすべて打ち鳴らされた。三軍の喊声は、天地を揺るがすほど響き渡った。晋軍は大いに驚き、その理由が分からず、大夫の董褐を遣わして呉軍に事情を問わせた。夫差は自ら答えて言った。「周王には旨があり、寡人に中夏の盟を主宰させて、姫姓諸侯の欠けたるところを縫い合わせるようにと命じられた。今、晋君は命に逆らって座次を争い、引き延ばして決めようとしない。寡人は使者の往来を煩わせることを恐れ、自ら垣根の外で命を聴くことにする。従うか従わないか、この日に決めるがよい」。董褐は帰って晋侯に報告した。魯・衛の二君もその場に同席していた。董褐はひそかに趙鞅に言った。「私が見るところ、呉王は口調こそ強気ですが顔色は憂いに満ちており、心中に大きな憂いがあるようです。もしや越人がその国都に入ったのではないでしょうか。もし彼らに先んじさせなければ、必ずその毒を我らに向けてくるでしょう。しかし、むやみに譲るわけにもいきません。必ず彼らに王号を捨てさせて、名目を立てさせるべきです」。趙鞅はこれを晋侯に伝え、董褐を再び呉軍に入らせ、晋侯の命を伝えさせた。「君は王命をもって諸侯に宣布された。わが君があえて敬んで奉じないことがございましょうか。しかし貴国は伯の位から始まり、それを呉王と号しているのは、周室をどう扱うおつもりでしょうか。君がもし王号を去って公を称されるならば、君の命に従いましょう」。夫差はその言葉を正しいと考え、そこで兵を収めて幕に就き、諸侯と会見し、呉公と称して、まず血をすすって盟った。晋侯がこれに次ぎ、魯・衛は順に血をすすった。会が終わると、すぐに兵を引き上げ、江淮の水路から帰った。途中、次々と急を告げる報せを受け取り、兵士たちはすでに国と家が襲われたことを知り、心胆ともに砕け、しかも遠征で疲れ果てており、みな戦意を失っていた。呉王はなおも軍を率いて越と対峙したが、呉軍は大敗した。夫差は恐れ、伯嚭に言った。「お前は越が必ず叛かないと言ったので、お前の言葉を聞いて越王を帰した。今日の事は、お前が私のために越に和平を請うべきである。さもなければ、子胥の『属鏤』の剣がまだあるから、お前に賜ることになろう」。伯嚭はそこで越の軍のもとへ赴き、越王に頭を地につけて礼をし、呉の罪を赦してくれるよう求めた。その軍を犒う礼は、すべて越が昔行ったのと同様にした。范蠡は言った。「呉はまだ滅ぼせません。しばらく和議を許し、太宰への恩とするのがよいでしょう。呉は今より振るわなくなるでしょう」。句踐はそこで呉との和議を許し、軍を引いて帰った(これは周の敬王三十八年の事である)。

孔子の獲麟と齊の内乱

  • 翌年、魯の哀公が大野で狩りをした際、叔孫氏の家臣鉏商がある獣を捕らえた。麕(のろじか)の体に牛の尾、その角には肉があった。不思議に思って殺し、孔子に尋ねた。孔子はこれを見て言った。「これは麟である」。その角を見ると、赤い紱がまだ残っており、それが顔母がかつて結んだものだと分かり、嘆いて言った。「我が道もついに窮まったのか」。弟子に命じてこれを取って埋めさせた。今、鉅野の故城の東十里に土の壇があり、四十余歩四方の広さで、俗にこれを獲麟堆と呼ぶ。これがすなわち麟の葬られた場所である。孔子は琴を弾いて歌を作った(歌:明王が世を治めれば麒麟や鳳凰が現れて遊ぶが、今はその時でもないのに、麟は何を求めて現れたのか、麟よ麟よ、我が心は憂う、という趣旨)。そこで『魯史』を取り、魯の隠公元年から、哀公が麟を獲た年まで、その二百四十二年の事を、取捨して『春秋』を編纂した。『易』『詩』『書』『礼』『楽』とあわせて「六経」と号する。この年、齊の右相陳恒は、呉が越に破れたことを知り、外に強敵なく、内に強い家もなく、ただ闞止だけが障りになっていることを知って、その一族の陳逆・陳豹らに、闞止を攻め殺させた。齊の簡公は出奔したが、陳恒は追いかけてこれを弑し、闞氏の一党をすべて滅ぼした。簡公の弟の驁を立てた。これが平公である。陳恒は独りで相となった。孔子は齊の政変を聞くと、三日間斎戒し、沐浴してから哀公に朝見し、兵を出して齊を伐ち、陳恒が君を弑した罪を討つよう請うた。哀公は孔子に、三家に諮るよう告げさせたが、孔子は言った。「臣は魯君がいるということは知っているが、三家がいるということは知らない」。陳恒もまた諸侯の討伐を恐れ、そこで魯・衛から侵略した土地をすべて返し、北は晋の四卿と好を結び、南は呉・越に使者を送った。改めて陳桓子の政を修め、財を散じ粟を輸して、貧しい者を救い、国人は喜んで服した。そして次第に鮑・晏・高・国の諸家、および公族の子孫を誅し滅ぼして、国の大半を割いて自分の封邑とした。また国中の女子で、身の丈七尺以上の者を選び、奥向きの部屋に納めた者は百人を下らなかった。その賓客の出入りは自由に許し、生まれた男子は七十余人にのぼり、これによって自分の宗族を強めようとした。齊の都邑の大夫や宰は、陳氏でない者はいなくなった。これは後の話である。

衛の内乱――蒯瞶の帰国と子路の死、そして孔子の逝去

  • さて衛の世子蒯瞶は戚にいたが、その子である出公輒は国人を率いてこれを拒み、大夫高柴が諫めても聞き入れなかった。蒯瞶の姉は大夫孔圉に嫁ぎ、孔悝を生んで、その後を継いで大夫となり、出公に仕えて衛の政を執った。孔氏の小臣に渾良夫という者がおり、身長が高く容貌が美しかった。孔圉が没すると、良夫は孔姫(孔悝の母)と密通した。孔姫は渾良夫を戚に遣わし、弟の蒯瞶の様子を尋ねさせた。蒯瞶はその手を握って言った。「お前が私を国に入れて君とすることができれば、お前に冕を服し軒車に乗らせよう。三度死に値する罪を犯しても問わないことにする」。渾良夫は帰って孔姫に告げた。孔姫は良夫に婦人の服を着せ、蒯瞶を迎えに行かせた。夜、良夫と蒯瞶はともに婦人の装いをし、勇士の石乞・孟黶を御者として、幌のかかった車に乗り、婢妾と偽って城中に紛れ込み、孔姫の部屋に潜んだ。孔姫は言った。「国家の事は、すべて我が子の掌中にある。今、君主の宮殿で飲んでいるから、帰るのを待って、威力で脅せば、事は成るだろう」。石乞・孟黶・渾良夫にみな甲を着け剣を懐に待たせ、蒯瞶を台の上に伏せさせた。しばらくして、孔悝が朝廷から酔って帰ってくると、孔姫は呼んで問うた。「父母の一族で、誰が最も近い親族か」。悝は言った。「父では伯父叔父、母では母方のおじのみです」。孔姫は言った。「お前はすでに母方のおじが母の最も近い親族だと知っているのに、どうして我が弟を迎え入れないのか」。孔悝は言った。「子を廃して孫を立てるのは、先君の遺命です。悝はあえてこれに背けません」。そして立ち上がって厠に行った。孔姫は石乞と孟黶を厠の外で待たせ、悝が厠から出てくると、左右から取り囲んで、「太子がお召しです」と言った。有無を言わさず、台の上へ連れて行き、蒯瞶に会わせた。孔姫はすでに傍らにいて、叫んで言った。「太子がここにおいでなのに、孔悝はどうして拝礼しないのか」。悝はやむを得ず拝礼した。孔姫は言った。「お前は今日、母方のおじ(太子蒯瞶)に従う気があるか」。悝は言った。「仰せに従います」。孔姫は雄豚を殺し、蒯瞶と悝に血をすすって盟わせた。孔姫は石乞・孟黶に悝を台上で見張らせ、悝の命と偽って家兵を集めさせ、渾良夫にこれを率いて君主の宮殿を襲わせた。出公輒は酔って寝ようとしていたが、乱が起きたと聞き、左右に孔悝を召しに行かせた。左右は言った。「乱を起こしているのは、まさに孔悝でございます」。輒は大いに驚き、すぐに宝器を取り、軽車を駆って、魯国へ出奔した。蒯瞶に付き従うことを望まない群臣は、みな四方に逃げ散った。仲由(子路)は孔悝の家臣であったが、当時城外にいて、孔悝が捕らわれたと聞き、城に入って救おうとした。大夫高柴が城中から出てくるのに出会い、高柴は言った。「門はすでに閉じてしまった。政はお前には関わりない。その難に与る必要はない」。子路は言った。「由はすでに孔氏の禄を食んでいる。あえて座視できようか」。そして急いで門に駆けつけると、門は果たして閉まっていた。門番の公孫敢は子路に言った。「わが君はすでに出奔された。あなたは何のために入ろうとするのか」。子路は言った。「私は人の禄を食みながら、その難を避ける者を憎む。だからここに来たのだ」。ちょうど中から出てくる人があり、子路はその開いた門に乗じて、城に入った。まっすぐ台の下に至り、大声で叫んだ。「仲由がここにいる。孔大夫は台から下りてこられよ」。孔悝はあえて答えなかった。子路は火を取って台を焼こうとした。蒯瞶は恐れ、石乞・孟黶の二人に戈を持たせて台を下らせ、子路を迎え撃たせた。子路は剣を手に執って迎え撃った。しかし乞と黶の二人が戟を並べて突きかかり、子路を刺し、その冠の紐を切り落とした。子路は重傷を負って死のうとするとき、言った。「礼では、君子は死ぬときも冠を脱がないものだ」。そして冠の紐を結び直して死んだ。孔悝は蒯瞶を奉じて即位させた。これが荘公である。次子の疾を太子に立て、渾良夫を卿とした。このとき孔子は衛にいて、蒯瞶の乱を聞き、多くの弟子たちに言った。「柴はきっと帰ってくるだろう。由はきっと死ぬだろう」。弟子たちがその理由を尋ねると、孔子は言った。「高柴は大義を知っており、必ず自分の身を全うできるだろう。由は勇を好んで生を軽んじ、取捨の判断に暗い。その死は必至である」。言い終わらぬうちに、高柴は果たして逃げ帰ってきて、師弟は再会し、悲しくもあり喜ばしくもあった。衛の使者が相次いで到着し、孔子に会って言った。「わが君は新たに即位し、夫子を敬い慕っております。あえて珍味を献上いたします」。孔子は再拝してこれを受け取り、開いて見ると肉の塩漬けであった。孔子はすぐに命じてこれを覆わせた。使者に言った。「これはもしや我が弟子仲由の肉ではないか」。使者は驚いて言った。「その通りです。夫子はどうしてお分かりになったのですか」。孔子は言った。「これでなければ、衛君は必ず私に贈ってはよこさないだろう」。そして弟子に命じてその塩漬けを埋めさせ、痛哭して言った。「私はかつて由が畳の上で死ねないのではないかと恐れていたが、今、果たしてその通りになった」。使者は暇を告げて去った。まもなく、孔子は病を得て起き上がれなくなり、七十三歳で世を去った(このとき周の敬王四十一年、夏四月己丑であった)。史臣に賛あり(賛:孔子を尼丘に生まれ闕里に徳を成した聖人と讃え、七十人の高弟が堂に升って教えを受け四方の規範となったこと、両観での誅、夾谷での摂相の功、鳳鳥の来たらぬことを嘆き獲麟に涙した晩年に及び、九流がその教えを鏡と仰ぎ、万古にわたってその足跡を敬うと結ぶ内容)。
  • 弟子たちは孔子を北阜のほとりに葬り、墓は一頃の広さがあり、鳥雀もその木に棲もうとしなかった。歴代の朝廷は大成至聖文宣王に封じ、今は大成至聖先師と改められ、天下に文廟が立てられ、春秋二回の祭祀が行われ、子孫は代々衍聖公として絶えることなく世襲している。この話はこれ以上触れない。
  • さて衛の荘公蒯瞶は、孔悝が出公輒の一党ではないかと疑い、酒に酔わせてこれを追放し、孔悝は宋に出奔した。荘公は府庫がすべて空になったため、渾良夫を召して計議した。「どのような策を用いれば、宝器を取り戻せるだろうか」。渾良夫はひそかに奏上して言った。「出奔された先の君(輒)もまた主君のお子であられます。どうして召し戻されないのですか」。荘公が果たして出公を召したかどうかは分からない。次回を見て解き明かそう。
原文(底本)
話說周敬王三十六年春,越王句踐使大夫諸稽郢帥兵三千,助吳攻齊。吳王夫差遂徵九郡之兵,大舉伐齊。預遣人建別館於句曲,遍植秋梧,號曰梧宮。使西施移居避暑,俟勝齊回日,即於梧宮過夏方歸。吳兵將發,子胥又諫曰:「越在,我心腹之病也﹔若齊,特疥癩耳。今王興十萬之師,行糧千里,以爭疥癩之患,而忘大毒之在腹心,臣恐齊未必勝,而越禍已至也。」夫差怒曰:「孤發兵有期,老賊故出不祥之語,阻撓大計,當得何罪?」意欲殺之。伯嚭密奏曰:「此前王之老臣,不可加誅。王不若遣之往齊約戰,假手齊人。」夫差曰:「太宰之計甚善。」乃為書數齊伐魯慢吳之罪,命子胥往見齊君,冀其激怒而殺子胥也。子胥料吳必亡,乃私攜其子伍封同行,至臨淄,致吳王之命。齊簡公大怒,欲殺子胥,鮑息諫曰:「子胥乃吳之忠臣,屢諫不入,已成水火。今遣來齊,欲齊殺之,以自免其謗。宜縱之使歸,令其忠佞自相攻擊,而夫差受其惡名矣。」簡公乃厚待子胥,報以戰期,定於春末。子胥原與鮑牧相識,故鮑息諫齊侯勿殺子胥也。鮑息私叩吳事,子胥垂淚不言,但引其子伍封,使拜鮑息為兄,寄居於鮑氏,今後只稱王孫封,勿用伍姓。鮑息嘆曰:「子胥將以諫死,故預謀存祀於齊耳。」不說子胥父子分離之苦。

  再說吳王夫差,擇日於西門出軍,過姑蘇臺午膳,膳畢,忽然睡去,得其異夢。既覺,心中恍惚,乃召伯嚭告曰:「寡人晝寢片時,所夢甚多。夢入章明宮,見兩釜炊而不熟﹔又有黑犬二隻,一嗥南,一嗥北﹔又有鋼鍬二把,插於宮牆之上﹔又流水湯湯,流於殿堂﹔後房非鼓非鐘,聲若鍛工﹔前園別無他植,橫生梧桐。太宰為寡人占其吉凶!」伯嚭稽首稱賀曰:「美哉!大王之夢,應在興師伐齊矣。臣聞:章明者,破敵成功,聲朗朗也﹔兩釜炊而不熟者,大王德盛,氣有餘也﹔兩犬嗥南嗥北者,四夷賓服,朝諸侯也﹔兩鍬插宮牆者,農工盡力,田夫耕也﹔流水入殿堂者,鄰國貢獻,財貨充也﹔後房聲若鍛工者,宮女悅樂,聲相諧也﹔前園橫生梧桐者,桐作琴瑟,音調和也。大王此行,美不可言。」夫差雖喜其諛,而心中終未快然。復告於王孫駱,駱對曰:「臣愚昧,不能通微。城西陽山,有一異士,喚做公孫聖,此人多見博聞,大王心上狐疑,何不召而決之?」夫差曰:「子即為我召來。」駱承命,馳車往迎公孫聖。聖聞其故,伏地涕泣。其妻從旁笑曰:「子性太鄙,希見人主,卒聞宣召,涕淚如雨。」聖仰天長嘆曰:「悲哉!非汝所知。吾曾自推壽數,盡於今日。今將與汝永別,是以悲耳。」駱催促登車,遂相與馳至姑蘇之臺。夫差召而見之,告以所夢之詳。公孫聖曰:「臣知言而必死,然雖死不敢不言。怪哉!大王之夢,應在興師伐齊也。臣聞:章者,戰不勝,走章皇也﹔明者,去昭昭,就冥冥也。兩釜炊而不熟者,大王敗走,不火食也。黑犬嗥南嗥北者,黑為陰類,走陰方也。兩鍬插宮牆者,越兵入吳,掘社稷也。流水入殿堂者,波濤漂沒,後宮空也。後房聲若鍛工者,宮女為俘,長嘆息也。前園橫生梧桐者,桐作冥器,待殉葬也。願大王罷伐齊之師,更遣太宰嚭解冠肉袒,稽首謝罪於句踐,則國可安而身可保矣。」伯嚭從旁奏曰:「草野匹夫,妖言肆毀,合加誅戮!」公孫聖睜目大罵曰:「太宰居高官,食重祿,不思盡忠報主,專事諂諛,他日越兵滅吳,太宰獨能保其首領乎?」夫差大怒曰:「野人無識,一味亂言,不誅,必然惑眾!」顧力士石番:「可取鐵鎚擊殺此賊!」聖乃仰天大呼曰:「皇天,皇天!知我之冤。忠而獲罪,身死無辜,死後不願葬埋,願撇我在陽山之下,後作影響,以報大王也。」夫差已擊殺聖,使人投其屍於陽山之下,數之曰:「豺狼食汝肉,野火澆汝骨,風揚汝骸,形銷影滅,何能為聲響哉!」伯嚭捧觴趨進曰:「賀大王,妖孽已滅,願進一觴,兵便可發矣。」史臣有詩云:

    妖夢先機已兆凶,驕君尚戀伐齊功﹔吳庭多少文和武,誰似公孫肯盡忠!

夫差自將中軍,太宰嚭為副,胥門巢將上軍,王子姑曹將下軍,興師十萬,同越兵三千,浩浩蕩蕩,望山東一路進發。先遣人約會魯哀公合兵攻齊。子胥於中途復命,稱病先歸,不肯從師。

  卻說齊將國書,屯兵汶上,聞吳魯連兵來伐,聚集諸將商議迎敵。忽報:「陳相國遣其弟陳逆來到。」國書同諸將迎入中軍,叩問:「子行此來何意?」陳逆曰:「吳兵長驅,已過嬴博,國家安危,在於呼吸。相國恐諸君不肯用力,遣小將至此督戰。今日之事,有進無退,有死無生,軍中只許鳴鼓,不許鳴金。」諸將皆曰:「吾等誓決一死敵!」國書傳令,拔寨都起,往迎吳軍。至於艾陵,吳將胥門巢上軍先到。國書問:「誰人敢衝頭陣?」公孫揮欣然願往,率領本部車馬,疾驅而出。胥門巢急忙迎敵,兩下交鋒,約三十餘合,不分勝敗。國書一股銳氣,按納不住,自引中軍夾攻。軍中鼓聲如雷,胥門巢不能支,大敗而走。國書勝了一陣,意氣愈壯,令軍士臨陣,各帶長繩一條,曰:「吳俗斷髮,當以繩貫其首。」一軍若狂,以為吳兵旦暮可掃也。胥門巢引敗兵來見吳王,吳王大怒,欲斬巢以狥。巢奏曰:「臣初至不知虛實,是以偶挫﹔若再戰不勝,甘伏軍法!」伯嚭亦力為勸解。夫差叱退,以大將展如代領其軍。適魯將叔孫州仇引兵來會,夫差賜以劍甲各一具,使為嚮導,離艾陵五里下寨。國書使人下戰書,吳王批下:「來日決戰」。次早,兩下各排陣勢,夫差命叔孫州仇打第一陣,展如打第二陣,王子姑曹打第三陣。使胥門巢率越兵三千,往來誘敵。自與伯嚭引大軍屯於高阜,相機救援。留越將諸稽郢於身旁觀戰。

  卻說齊軍列陣方完,陳逆令諸將各具含玉,曰:「死即入殮!」公孫夏公孫揮使軍中皆歌送葬之詞,誓曰:「生還者,不為烈丈夫也!」國書曰:「諸君以必死自勵,何患不勝乎?」兩陣對圓,胥門巢先來搦戰。國書謂公孫揮曰:「此汝手中敗將,可便擒之。」公孫揮奮戟而出,胥門巢便走,叔孫州仇引兵接住公孫揮廝殺。胥門巢復身又來,國書恐其夾攻,再使公孫夏出車。胥門巢又走,公孫夏追之,吳陣上大將展如,引兵便接住公孫夏廝殺。胥門巢又回車幫戰,惱得齊將高無平宗樓性起,一齊出陣,王子姑曹挺身獨戰二將,全無懼怯。兩軍各自奮力,殺傷相抵。國書見吳兵不退,親自執枹鳴鼓,悉起大軍,前來助戰。吳王在高阜處看得親切,見齊兵十分奮勇,吳兵漸漸失了便宜,乃命伯嚭引兵一萬,先去接應。國書見吳兵又至,正欲分軍迎敵,忽聞金聲大震,鉦鐸皆鳴。齊人只道吳兵欲退,不防吳王夫差自引精兵三萬,分為三股,反以鳴金為號,從刺斜裏直衝齊陣,將齊兵隔絕三處。展如姑曹等,聞吳王親自臨陣,勇氣百倍,殺得齊軍七零八落。展如就陣上擒了公孫夏,胥門巢刺殺公孫揮於車中,夫差親射宗樓,中之。閭邱明謂國書曰:「齊兵將盡矣!元帥可微服遁去,再作道理。」國書嘆曰:「吾以十萬強兵,敗於吳人之手,何面目還朝?」乃解甲沖入吳軍,為亂軍所殺。閭邱明伏於草中,亦被魯將州仇搜獲。夫差大勝齊師,諸將獻功,共斬上將國書公孫揮二人,生擒公孫夏閭邱明二人,即斬首訖,只單走了高無平陳逆二人,其他擒斬不計其數,革車八百乘,盡為吳所有,無得免者。夫差謂諸稽郢曰:「子觀吳兵強勇,視越何如?」郢稽首曰:「吳兵之強,天下莫當,何論弱越!」夫差大悅,重賞越兵,使諸稽郢先回報捷。齊簡公大驚,與陳恒闞止商議,遣使大貢金幣,謝罪請和。夫差主張齊魯復修兄弟之好,各無侵害,二國俱聽命受盟。夫差乃歌凱而回。史臣有詩曰:

    艾陵白骨壘如山,盡道吳王奏凱還。壯氣一時吞宇宙!隱憂誰想伏吳關?

  夫差回至句曲新宮,見西施謂曰:「寡人使美人居此者,取相見之速耳。」西施拜賀且謝。時值新秋,桐陰正茂,諒風吹至,夫差與西施登臺飲酒甚樂。至夜深,忽聞有眾小兒和歌之聲,夫差聽之。歌曰:

    桐葉冷,吳王醒未醒?梧葉秋,吳王愁更愁!

夫差惡之,使人拘群兒至宮,問:「此歌誰人所教?」群兒曰:「有一緋衣童子,不知何來,教我為歌,今不知何往矣。」夫差怒曰:「寡人天之所生,神之所使,有何愁哉?」欲誅眾小兒。西施力勸乃止。伯嚭進曰:「春至而萬物喜,秋至而萬物悲,此天道也。大王悲喜與天同道,何所慮乎?」夫差乃悅。在梧宮三日,即起駕還吳。吳王升殿,百官迎賀。子胥亦到,獨無一言。夫差乃讓之曰:「子諫寡人不當伐齊,今得勝而回,子獨無功,寧不自羞?」子胥攘臂大怒,釋劍而對曰:「天之將亡人國,先逢其小喜,而後授之以大憂。勝齊不過小喜也,臣恐大憂之即至也。」夫差慍曰:「久不見相國,耳邊頗覺清淨,今又來絮聒耶?」乃掩耳瞑目,坐於殿上。頃間,忽睜眼直視久之,大叫:「怪事!」群臣問曰:「王何所見?」夫差曰:「吾見四人相背而倚,須臾四分而走,又見殿下兩人相對,北向人殺南向人。諸卿曾見之否?」群臣皆曰:「不見。」子胥奏曰:「四人相背而走,四方離散之象也。北向人殺南向人,為下賊上,臣弒君。王不知儆省,必有身弒國亡之禍。」夫差怒曰:「汝言太不祥,孤所惡聞!」伯嚭曰:「四方離散,奔走吳庭﹔吳國霸王,將有代周之事,此亦下賊其上,臣犯其君也。」夫差曰:「太宰之言,足啟心胸。相國耄矣,有不足採。」過數日,越王句踐率群臣親至吳邦來朝,并賀戰勝﹔吳庭諸臣,俱有饋賂。伯嚭曰:「此奔走吳庭之應也。」吳王置酒於文臺之上,越王侍坐,諸大夫皆侍立於側。夫差曰:「寡人聞之:『君不忘有功之臣,父不沒有力之子。』今太宰嚭為寡人治兵有功,吾將賞為上卿﹔越王孝事寡人,始終不倦,吾將再增其國,以酬助伐之功﹔於眾大夫之意如何?」群臣皆曰:「大王賞功酬勞,此霸王之事也。」於是子胥伏地涕泣曰:「嗚呼哀哉!忠臣掩口,讒夫在側,邪說諛辭,以曲為直。養亂畜奸,將滅吳國,廟社為墟,殿生荊棘。」夫差大怒曰:「老賊多詐,為吳妖孽,乃欲專權擅威,傾覆吾國,寡人以前王之故,不忍加誅,今退自謀,無勞再見!」子胥曰:「老臣若不忠不信,不得為前王之臣。譬如龍逢逢桀,比干逢紂,臣雖見誅,君亦隨滅,臣與王永辭,不復見矣。」遂趨出。吳王怒猶未息。伯嚭曰:「臣聞子胥使齊,以其子託於齊臣鮑氏,有叛吳之心,王其察之!」夫差乃使人賜子胥以「屬鏤」之劍。子胥接劍在手,嘆曰:「王欲吾自裁也!」乃徒跣下階,立於中庭,仰天大呼曰:「天乎,天乎!昔先王不欲立汝,賴吾力爭,汝得嗣位。吾為汝破楚敗越,威加諸侯。今汝不用吾言,反賜我死!我今日死,明日越兵至,掘汝社稷矣。」乃謂家人曰:「吾死後,可抉吾之目,懸於東門,以觀越兵之入吳也!」言訖,自刎其喉而絕。使者取劍還報,述其臨終之囑。夫差往視其屍,數之曰:「胥,汝一死之後,尚何知哉?」乃自斷其頭,置於盤門城樓之上﹔取其屍,盛以鴟夷之器,使人載去,投於江中,謂曰:「日月炙汝骨,魚鱉食汝肉,汝骨變形灰,復何所見!」屍入江中,隨流揚波,依潮來往,蕩激崩岸。土人懼,乃私撈取,埋之於吳山。後世因改稱胥山,今山有子胥廟。隴西居士有古風一篇云:

    將軍自幼稱英武,磊落雄才越千古﹔一旦蒙讒殺父兄,襄流誓濟吞荊楚。貫弓亡命欲何之?滎陽睢水空棲遲﹔昭關鎖鑰愁無翼,鬢毛一夜成霜絲。浣女沉溪漁丈死,簫聲吹入吳人耳﹔魚腸作合定君臣,復為強兵進孫子。五戰長驅據楚宮,君王含淚逃雲中﹔掘墓鞭屍吐宿恨,精誠貫日生長虹。英雄再振匡吳業,夫椒一戰棲強越﹔釜中魚鱉宰夫手,縱虎歸山還自嚙。姑蘇臺上西施笑,讒臣稱賀忠臣弔﹔可憐兩世輔吳功,到頭翻把屬鏤報!鴟夷激起錢塘潮,朝朝暮暮如呼號﹔吳越興衰成往事,忠魂千古恨難消!

  夫差既殺子胥,乃進伯嚭為相國。欲增越之封地,句踐固辭乃止。於是句踐歸越,謀吳益急。夫差全不在念,章益驕恣。乃發卒數萬,築邗城,穿溝,東北通射陽湖,西北使江淮水合,北達於沂,西達於濟。太子友知吳王復欲與中國會盟,欲切諫,恐觸怒,思以諷諫感悟其父。清旦懷丸持彈,從後園而來,衣履俱濕,吳王怪而問之。友對曰:「孩兒適遊後園,聞秋蟬鳴於高樹,往而觀之,望見秋蟬趨風長鳴,自謂得所,不知螳螂超枝緣條,曳腰聳距,欲搏蟬而食之﹔螳螂一心只對秋蟬,不知黃雀徘徊綠陰,欲啄螳螂﹔黃雀一心只對螳螂,不知孩兒挾彈持弓,欲彈黃雀﹔孩兒一心只對黃雀,又不知旁有空坎,失足墮陷﹔以此衣履俱沾濕,為父王所笑。」吳王曰:「汝但貪前利,不顧後患,天下之愚,莫甚於此。」友對曰:「天下之愚,更有甚者。魯承周公之後,有孔子之教,不犯鄰國,齊無故謀伐之,以為遂有魯矣,不知吳悉境內之士,暴師千里而攻之。吳國大敗齊師,以為遂有齊矣,不知越王將選死士,出三江之口,入五湖之中,屠我吳國,滅我吳宮。天下之愚,莫甚於此!」吳王怒曰:「此伍員之唾餘,久已厭聞,汝復拾之,以撓我大計耶?再多言,非吾子也!」太子友悚然辭出。夫差乃使太子友同王子地,王孫彌庸守國,親帥國中精兵,由邗溝北上,會魯哀公於橐皋,會衛出公於發陽,遂約諸侯,大會於黃池,欲與晉爭盟主之位。

  越王句踐聞吳王已出境,乃與范蠡計議,發習流二千人,俊士四萬,君子六千人,從海道通江以襲吳。前隊疇無餘先及吳郊,王孫彌庸出戰,不數合,王子地引兵夾攻,疇無餘馬蹶被擒。次日,句踐大軍齊到。太子友欲堅守,王孫彌庸曰:「越人畏吳之心尚在,且遠來疲敝,再勝之,必走。即不勝,守猶未晚。」太子友惑其言,乃使彌庸出師迎敵,友繼其後。句踐親立於行陣,督兵交戰。陣方合,范蠡泄庸兩翼呼噪而至,勢如風雨。吳兵精勇慣戰者,俱隨吳王出征,其國中皆未教之卒,那越國是數年訓練就的精兵,弓弩劍戟,十分勁利,又范蠡泄庸俱是宿將,怎能抵當,吳兵大敗。王孫彌庸為泄庸所殺。太子友陷於越軍,衝突不出,身中數箭,恐被執辱,自刎而亡。越兵直造城下,王子地把城門牢閉,率民夫上城把守,一面使人往吳王處告急。句踐乃留水軍屯於太湖,陸營屯於胥閶之間,使范蠡焚姑蘇之臺,火彌月不息,其餘皇大舟,悉徙於湖中。吳兵不敢復出。

  再說吳王夫差與魯衛二君,同至黃池,使人請晉定公赴會,晉定公不敢不至。夫差使王孫駱與晉上卿趙鞅議載書名次之先後。趙鞅曰:「晉世主夏盟,又何讓焉?」王孫駱曰:「晉祖叔虞,乃成王之弟,吳祖太伯,乃武王之伯祖,尊卑隔絕數輩。況晉雖主盟,會宋會虢,已出楚下,今乃欲踞吳之上乎?」於是彼此爭論,連日不決。忽王子地密報至,言:「越兵入吳,殺太子,焚姑蘇臺,見今圍城,勢甚危急。」夫差大驚。伯嚭拔劍砍殺使者,夫差問曰:「爾殺使人何意?」伯嚭曰:「事之虛實,尚未可知,留使者洩漏其語,齊晉將乘危生事,大王安得晏然而歸乎?」夫差曰:「爾言是也。然吳晉爭長未定,又有此報,孤將不會而歸乎?抑會而先晉乎?」王孫駱進曰:「二者俱不可。不會而歸,人將窺我之急,若會而先晉,我之行止,將聽命於晉﹔必求主會,方保無虞。」夫差曰:「欲主會,計將安出?」王孫駱密奏曰:「事在危急,請王鳴鼓挑戰,以奪晉人之氣。」夫差曰:「善。」是夜出令,中夜士皆飽食秣馬,銜枚疾驅,去晉軍纔一里,結為方陳。百人為一行,一行建一大旗,百二十行為一面。中軍皆白輿,白旗,白甲,白羽之矰,望之如白茅吐秀,吳王親自仗鉞,秉素旌,中陣而立。左軍面左,亦百二十行。皆赤輿,赤旗,丹甲,朱羽之矰,一望若火,太宰嚭主之。右軍面右,亦百二十行。皆黑輿,黑旗,玄甲,烏羽之矰,一望如墨,王孫駱主之。帶甲之士,共三萬六千人。黎明陣定,吳王親執枹鳴鼓,軍中萬鼓皆鳴,鐘聲鐸聲,丁寧錞于,一時齊扣。三軍譁吟,響震天地。晉軍大駭,不知其故,乃使大夫董褐至吳軍請命。夫差親對曰:「周王有旨,命寡人主盟中夏,以縫諸姬之闕。今晉君逆命爭長,遷延不決,寡人恐煩使者往來,親聽命於藩籬之外,從與不從,決於此日!」董褐還報晉侯,魯衛二君皆在坐。董褐私謂趙鞅曰:「臣觀吳王口強而色慘,中心似有大憂,或者越人入其國都乎?若不許其先,必逞其毒於我﹔然而不可徒讓也,必使之去王號以為名。」趙鞅言於晉侯,使董褐再入吳軍,致晉侯之命曰:「君以王命宣布於諸侯,寡君敢不敬奉!然上國以伯肇封,而號曰吳王,謂周室何?君若去王號而稱公,惟君所命。」夫差以其言為正,乃歛兵就幕,與諸侯相見,稱吳公,先歃。晉侯次之,魯衛以次受歃。會畢,即班師從江淮水路而回。於途中連得告急之報,軍士已知家國被襲,心膽俱碎,又且遠行疲敝,皆無鬥志。吳王猶率眾與越相持,吳軍大敗。夫差懼,謂伯嚭曰:「子言越必不叛,故聽子而歸越王。今日之事,子當為我請成於越。不然,子胥『屬鏤』之劍猶在,當以屬子!」伯嚭乃造越軍,稽首於越王,求赦吳罪,其犒軍之禮,悉如越之昔日。范蠡曰:「吳尚未可滅也,姑許成,以為太宰之惠。吳自今亦不振矣。」句踐乃許吳成,班師而歸。(此周敬王三十八年事也。)

  明年,魯哀公狩於大野,叔孫氏家臣鉏商獲一獸,麕身牛尾,其角有肉,怪而殺之,以問孔子。孔子觀之曰:「此麟也!」視其角,赤紱猶在,識其為顏母昔日所繫,嘆曰:「吾道其終窮矣!」使弟子取而埋之。今鉅野故城東十里有土臺,廣輪四十餘步,俗呼為獲麟堆,即麟葬處。孔子援琴作歌曰:

    明王作兮麟鳳遊,今非其時欲何求?麟兮麟兮我心憂!

於是取《魯史》,自魯隱公元年,至哀公獲麟之歲,其二百四十二年之事,筆削而成《春秋》,與《易》、《詩》、《書》、《禮》、《樂》,號為「六經」。是年,齊右相陳恒知吳為越所破,外無強敵,內無強家,單單只礙一闞止,乃使其族人陳逆陳豹等,攻殺闞止,齊簡公出奔,陳恒追而弒之,盡滅闞氏之黨。立簡公弟驁,是為平公。陳恒獨相。孔子聞齊變,齋三日,沐浴而朝哀公,請兵伐齊,討陳恒弒君之罪。哀公使告三家,孔子曰:「臣知有魯君,不知有三家。」陳恒亦懼諸侯之討,乃悉歸魯衛之侵地,北結好於晉之四卿,南行聘於吳越。復修陳桓子之政,散財輸粟,以贍貧乏,國人悅服。乃漸除鮑、晏、高、國諸家,及公族子姓,而割國之大半,為己封邑。又選國中女子,長七尺以上者,納於後房,不下百人,縱其賓客出入不禁,生男子七十餘人,欲以自強其宗。齊都邑大夫宰,莫非陳氏。此是後話。

  再說衛世子蒯瞶在戚,其子出公輒率國人拒之,大夫高柴諫不聽。蒯瞶之姊,嫁於大夫孔圉,生子曰孔悝,嗣為大夫,事出公,執衛政。孔氏小臣曰渾良夫,身長而貌美,孔圉卒,良夫通於孔姬。孔姬使渾良夫往戚,問候其弟蒯瞶。蒯瞶握其手言曰:「子能使我入國為君,使子服冕乘軒,三死無與。」渾良夫歸,言於也姬。孔姬使良夫以婦人之服,往迎蒯瞶。昏夜,良夫與蒯瞶同為婦裝,勇士石乞孟黶為御,乘溫車,詭稱婢妾,溷入城中,匿於孔姬之室。孔姬曰:「國家之事,皆在吾兒掌握,今飲於公宮,俟其歸,當以威劫之,事乃有濟耳。」使石乞、孟黶、渾良夫皆被甲懷劍以俟,伏蒯瞶於臺上。須臾,孔悝自朝帶醉而回,孔姬召而問曰:「父母之族,孰為至親?」悝曰:「父則伯叔,母則舅氏而已。」孔姬曰:「汝既知舅氏為母至親,何故不納吾弟?」孔悝曰:「廢子立孫,此先君遺命,悝不敢違也。」遂起身如廁。孔姬使石乞孟黶候於廁外,俟悝出廁,左右幫定,曰:「太子相召。」不由分說,擁之上臺,來見蒯瞶。孔姬已先在側,喝曰:「太子在此,孔悝如何不拜!」悝只得下拜。孔姬曰:「汝今日肯從舅氏否?」悝曰:「惟命。」孔姬乃殺豭,使蒯瞶與悝歃血定盟。孔姬留石乞孟黶守悝於臺上,而以悝命召聚家甲,使渾良夫帥之襲公宮。出公輒醉而欲寢,聞亂,使左右往召孔悝。左右曰:「為亂者,正孔悝也!」輒大驚,即時取寶器,駕輕車,出奔魯國。群臣不願附蒯瞶者,皆四散逃竄。仲子路為孔悝家臣,時在城外,聞孔悝被劫,將入城來救。遇大夫高柴自城中出,曰:「門已閉矣!政不在子,不必與其難也。」子路曰:「由已食孔氏這祿,敢坐視乎?」遂疾趨及門,門果閉矣。守門者公孫敢謂子路曰:「君已出奔,子何入為?」子路曰:「吾惡夫食人之祿,而避其難者,是以來也。」適有人自內而出,子路乘門開,遂入城,逕至臺下,大呼曰:「仲由在此,孔大夫可下臺矣!」孔悝不敢應。子路欲取火焚臺。蒯瞶懼,使石乞孟黶二人持戈下臺,來敵子路。子路仗劍來迎。怎奈乞黶雙戟並舉,攢刺子路,又砍斷其冠纓。子路身負重傷,將死,曰:「禮,君子死不免冠。」乃整結其冠纓而死。孔悝奉蒯瞶即位,是為莊公。立次子疾為太子,以渾良夫為卿。時孔子在衛,聞蒯瞶之亂,謂眾弟子曰:「柴也其歸乎!由也其死乎!」弟子問其故,孔子曰:「高柴知大義,必能自全﹔由好勇輕生,昧於取裁,其死必矣。」說猶未了,高柴果然奔歸,師弟相見,且悲且喜。衛之使者接踵而至,見孔子曰:「寡君新立,敬慕夫子,敢獻奇味。」孔子再拜而受,啟視則肉醢。孔子遽命覆之。謂使者曰:「得非吾弟子仲由之肉乎?」使者驚曰:「然也。夫子何以知之?」孔子曰:「非此,衛君必不以見頒也。」遂命弟子埋其醢,痛哭曰:「某嘗恐由不得其死,今果然矣!」使者辭去。未幾,孔子遂得疾不起,年七十有三歲。(時周敬王四十一年,夏四月己丑也。)史臣有贊云:

    尼丘誕聖,闕里生德﹔七十升堂,四方取則。行誅兩觀,攝相夾谷﹔嘆風遽衰,泣麟何促。九流仰鏡,萬古欽躅!

弟子營葬於北阜之曲,冢大一頃,鳥雀不敢棲止其樹。累朝封大成至聖文宣王。今改為大成至聖先師,天下俱立文廟,春秋二祭,子孫世襲為衍聖公不絕。不在話下。

  再說衛莊公蒯瞶疑孔悝為出公輒之黨,醉以酒而逐之,孔悝奔宋。莊公為府藏俱空,召渾良夫計議:「用何計策,可復得寶器?」渾良夫密奏曰:「亡君亦君之子也,何不召之?」不知莊公曾召出公否,且看下回分解。

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