東周列國志第九十四回 馮驩、鋏を弾いて孟嘗君の客となる/斉王、兵を糾して桀宋を伐つ (馮驩彈鋏客孟嘗 齊王糾兵伐桀宋)

孟嘗君の帰国と、馮驩の薛での徳の取り立て

  • さて孟嘗君は秦から逃げ帰る途中、趙を通った。平原君の趙勝は三十里も外まで出迎え、たいへん恭しく応対した。趙の人々はかねてより孟嘗君の名を聞いていたが、その姿を見たことがなかったので、この時とばかりに争ってこれを見物した。
  • 孟嘗君は身の丈が短く小さく、中背の人にも及ばなかった。見物人の中には笑って「私はもとより孟嘗君を慕い、天から降ったような偉人で、さぞ堂々たる偉躯で人並みはずれていようと思っていたが、いま見ると、ただの小柄な男に過ぎぬではないか」と言う者もいた。それに同調して笑う者も数人あった。
  • その夜、孟嘗君を笑った者は皆、首を斬られていた。平原君は内心、孟嘗君の食客の仕業と察したが、あえて問いただすことはしなかった。
  • さて斉の湣王は孟嘗君を秦に遣わしてから、左右の手を失ったかのようで、彼が秦に用いられてしまうのではと大いに憂えていたが、彼が逃げ帰ったと聞いて大いに喜び、再び相国として用いた。孟嘗君のもとへ身を寄せてくる賓客はいっそう多くなった。
  • そこで客舎を三等に分けて設けた。上等は「代舎」、中等は「幸舎」、下等は「伝舎」といった。代舎とは、その人が自分の代わりを務められるという意味であり、上客がここに住み、肉を食べ車に乗った。幸舎とは、その人が任用に足るという意味であり、中客がここに住んだが、肉は食べても車には乗らなかった。伝舎とは、脱粟(精米していない米)の飯で飢えをしのぐだけの意味であり、出入りは自由にさせ、下客がここに住んだ。
  • 以前の鶏鳴狗盗や偽の通行証で功のあった者は、皆代舎に列せられた。
  • 収めていた薛の邑の俸禄では賓客をまかなうのに足りず、そこで薛で銭を貸し出し、毎年その利息を収めて日々の費用の足しにした。
  • ある日、体格の立派な男が、ぼろぼろの粗末な服に草履を履いた姿でやってきて、自ら姓は馮、名は驩、斉の人であると名乗り、孟嘗君への面会を求めた。孟嘗君は会釈して座に招き、「先生がわざわざお越しくださったのは、私にどのような教えをお授けくださるためですか」と問うた。
  • 馮驩は言った。「特にございません。ただあなた様が士を好み、貴賤を選ばれないと聞き、貧しい身ながらお訪ねしたまでのことです。」孟嘗君は彼を伝舎に置くよう命じた。
  • 十日余りして、孟嘗君が伝舎の長に「新参の客は何をしているか」と尋ねると、伝舎の長は答えた。「馮先生はたいへん貧しく、身に別のものは何もなく、ただ一振りの剣だけがございます。剣を入れる袋すらなく、蒯(草の一種)を縄にして腰に結んでおられます。食事が終わると、その剣を弾きながら『長い剣よ、帰ろうか、食に魚がない』と歌っておられます。」
  • 孟嘗君は笑って「これは私の食事が質素すぎることを嫌っているのだな」と言い、彼を幸舎に移して魚肉を食べさせた。さらに幸舎の長に彼の様子を伺わせ、「五日後に、私に報告せよ」と命じた。
  • 五日経つと、幸舎の長は「馮先生は依然として剣を弾いて歌っておられますが、その歌詞が違います。『長い剣よ、帰ろうか、出るのに車がない』と歌っておられます」と報告した。
  • 孟嘗君は驚いて「彼は私の上客になりたいのだろうか。この人には必ず何か優れたものがあるに違いない」と言い、彼をさらに代舎に移した。
  • 再び代舎の長にその様子を伺わせた。馮驩は車に乗って昼に出て夜に帰り、また「長い剣よ、帰ろうか、家を構えるすべがない」と歌った。代舎の長がこれを孟嘗君に告げると、孟嘗君は眉をひそめて「客は何と欲が尽きないことか」と言った。
  • さらに様子を伺わせたが、馮驩はもう歌わなくなった。
  • 一年余りが過ぎて、家計を司る者が孟嘗君に「銭穀はもう一月分の需要にしか足りません」と告げた。孟嘗君は貸付の証書を調べ、民間が返済していない借財が非常に多いことを知り、左右に「客の中で誰か私のために薛で貸金を取り立ててくれる者はいないか」と問うた。
  • 代舎の長が進み出て「馮先生には特に取り柄は聞きませんが、その人物は忠実で任せられるように思われます。以前、自ら上客に望まれたことでもございますし、あなた様はお試しになってはいかがですか」と言った。
  • 孟嘗君は馮驩に頼み、貸金取り立てのことを話した。馮驩はためらうことなく一つ返事で引き受け、そのまま車に乗って薛に向かい、公府に座った。
  • 薛の民は万戸もあり、借財のある者が多かったが、薛公の使者である上客が利息の取り立てに来たと聞き、そのとき納入する者が非常に多く、集計すると利息十万銭になった。
  • 馮驩はその銭で大量に牛や酒を買い求め、あらかじめ「孟嘗君に利息の借財のある者は、返済できる者もできない者も問わず、明日残らず公府に集まって証書を照合するように」と告知した。人々は牛酒の饗応を聞き、期日通りにやって来た。
  • 馮驩は一人一人に酒食をふるまい、酔い飽きるまで勧めた。その傍らで様子を観察し、その中の貧富の状況を審らかにし、実情をすっかり把握した。
  • 食事が終わると証書を取り出して照らし合わせ、返済の余力がある者、たとえ今すぐには払えなくても後で返せる見込みのある者には、期限を約束して証書に記した。貧しくて返済できない者は、皆列をなして拝んで期限の猶予を哀願した。
  • 馮驩は左右に火を持ってこさせ、貧しい者の証書一箱をすべて火の中に投げ込んで焼き捨て、人々に言った。「孟嘗君が民に銭を貸し付けられたのは、民が生計を立てる元手がないことを恐れられたためであり、利のためではない。しかし孟嘗君様の食客は数千人に及び、俸禄では足りぬため、やむを得ず利息を取り立てて賓客に供しているのだ。今、力のある者にはさらに期限を約束し、力のない者には証書を焼いて免除した。孟嘗君様がそなたら薛の人々に施された徳は、まことに厚いと言えよう。」
  • 人々は皆、額を地につけてぬかずき、歓呼して「孟嘗君はまことに我らの父母である」と言った。
  • すでに証書を焼いた事は人によって孟嘗君に伝えられていた。孟嘗君は大いに怒り、人を遣わして馮驩を急ぎ呼び戻した。馮驩は手ぶらでやって来た。孟嘗君は何気ないふうを装って「客はご苦労であった。取り立ては終わったか」と問うた。
  • 馮驩は「あなた様のために取り立てをしただけでなく、あなた様のために徳をも取り立てて参りました」と言った。孟嘗君は顔色を変え、これを咎めて「文は食客三千人を抱え、俸禄が足りないため、薛で貸金をして、余分な利息を得て公費を助けようとしたのだ。客が利息を得たと聞いて、大量に牛酒を用意し、皆と楽しく酒を酌み交わし、さらに証書の半分を焼いてしまったのに、なお『徳を取り立てた』と言う。いったい何の徳を取り立てたというのだ」と言った。
  • 馮驩は答えた。「どうか怒りをお鎮めください。詳しく申し上げます。借財のある者は多く、牛酒を用意して歓を尽くさせなければ、人々は疑って皆一斉に集まってはこないでしょう。それでは彼らの資力の豊かさ乏しさを検証することができません。資力の豊かな者には期限を約束いたしました。資力の乏しい者は、たとえ厳しく責め立てても返済できません。そして時が経てば利息が積もり、逃亡してしまうだけです。狭い薛の地は、あなた様の代々の封地であり、その民はあなた様と共に安危を分かち合う者たちです。今、無用の証書を焼いたのは、あなた様が財を軽んじて民を愛されることを明らかにするためです。仁義の名は限りなく広まりましょう。これこそ臣が申し上げる、あなた様のために徳を取り立てたということです。」
  • 孟嘗君は賓客の費用に迫られ、心中はそれをもっともとは思わなかったが、すでに証書は焼かれてしまいどうにもならず、無理に笑顔を作って会釈し、馮驩に礼を述べた。史臣に詩がある。
  • (詩:利を語り媚びへつらう者は佳賓と呼ばれるが、証書を焼く前には主君の怒りに触れることを恐れるものだ。しかし手ぶらでただ仁義を持ち帰ってこそ、初めて剣を弾いた者に高い人物であったと知る、という趣旨。)

孟嘗君の罷免と薛への帰郷

  • さて秦の昭襄王は孟嘗君を失ったことを悔い、しかもその手腕が恐ろしいものだと思い知り、「この人物が斉国で用いられれば、いずれ秦の害となろう」と考え、そこで斉国に広く流言を流させ、「孟嘗君の名は天下に高く、天下は孟嘗君がいることを知っていても斉王がいることは知らない。近いうちに孟嘗君が斉に取って代わるであろう」と言わせた。
  • また人を遣わして楚の頃襄王に説かせた。「先に六国が秦を討った際、斉の兵だけが遅れたのは、楚王が自ら従約長となられたことに孟嘗君が不服であったため、共に兵を出すことを肯んじなかったからです。懐王が秦におられたとき、わが君はこれを帰そうとしましたが、孟嘗君は人を遣わしてわが君に懐王を帰さぬよう勧めました。楚の太子は斉へ人質として差し出されておりましたから、秦に懐王を殺させれば、斉はその太子を留め置いて楚から土地を要求できる、という腹積もりでした。それゆえ太子はもう少しで帰国できないところで、懐王はついに秦で亡くなりました。わが君が楚に対して罪を得たのは、皆孟嘗君のせいです。わが君は楚のためにも孟嘗君を得て殺したいと望んでおりましたが、機会があって逃げられてしまい果たせませんでした。今また斉の相として権力を専らにし、今にも斉を簒奪しかねません。秦と楚はこれより多事となりましょう。わが君は前の禍を悔い改め、楚と好誼を結び、娘を楚王の后とし、共に孟嘗君の変事に備えたいと願っております。どうか大王、これをお聞き届けください。」
  • 楚王はその言葉に惑わされ、ついに秦と和を通じ、秦王の娘を夫人に迎え、また人を遣わして斉にも流言を流させた。
  • 斉の湣王は孟嘗君を疑い、ついにその宰相の印を取り上げ、薛へ追い出した。賓客たちは孟嘗君が相を罷免されたと聞き、次々と散っていったが、ただ馮驩だけが傍らに残り、孟嘗君のために車を御した。
  • 薛にまだ着かぬうちに、薛の人々は老いも若きも手を取り合って迎え、争って酒食を献じ、安否を問うた。孟嘗君は馮驩に「これこそ先生がおっしゃった、私のために徳を取り立ててくださったということなのですね」と言った。
  • 馮驩は「臣の考えはこれにとどまりません。もし臣に一乗の車をお貸しいただければ、必ずあなた様が国でいっそう重んじられるようにし、その俸邑をさらに広げてみせましょう」と言った。孟嘗君は「ただ先生のご命令に従いましょう」と言った。

馮驩の外交と孟嘗君の復権

  • 数日後、孟嘗君は車馬と金幣を整え、馮驩に「先生の行かれる所へお任せいたします」と言った。
  • 馮驩は車を駆り、西へ咸陽に入り、昭襄王に面会を求め、説いて言った。「秦へ遊説する士は皆秦を強くし斉を弱めることを望み、斉へ遊説する士は皆斉を強くし秦を弱めることを望みます。秦と斉は勢いとして両雄並び立ちません。雄たる方が天下を得るのです。」
  • 秦王は「先生には秦を雄とし雌とならせぬための何か策があるか」と言った。馮驩は「大王は斉が孟嘗君を罷免したことをご存じですか」と言った。秦王は「寡人はそれを聞いたが、まだ信じてはいない」と言った。
  • 馮驩は言った。「斉が天下に重んじられるのは、孟嘗君の賢明さがあるからです。今、斉王は讒言に惑わされ、ひとたびその宰相の印を取り上げ、功を罪としてしまいました。孟嘗君の斉への恨みは深いに違いありません。彼が怨みを抱いているこの時に乗じて、秦がこれを収めて用いれば、斉国の内情はことごとく秦に流れ込み、これを用いて斉を謀れば、斉を得ることも難しくないでしょう。単に雄となるだけにとどまりません。大王は急ぎ使者を遣わし、多くの贈り物を持たせて、ひそかに薛の孟嘗君を迎えられよ。時を逃してはなりません。万一斉王が悔い改めて再び彼を用いれば、両国の雌雄はまだ定まりますまい。」
  • そのとき樗里疾がちょうど没しており、秦王は急ぎ賢相を得たいと思っていたので、馮驩の言葉を聞いて大いに喜び、良車十乗、黄金百鎰を整え、丞相にふさわしい儀礼をもって使者に孟嘗君を迎えさせるよう命じた。
  • 馮驩は「臣が大王のために先に行って孟嘗君に報告し、支度をさせ、使者を待たせずに済むようにいたしましょう」と言った。
  • 馮驩は疾駆して斉に至ると、孟嘗君に会う暇もなく、まず斉王に会って説いた。「斉と秦とが互いに雌雄を争っていることは、王もご存じの通りです。人を得た方が雄となり、人を失った方が雌となります。今、臣は道すがら耳にしましたが、秦王は孟嘗君が罷免されたのを幸いとし、ひそかに良車十乗、黄金百鎰を遣わして、孟嘗君を相として迎えようとしております。もし孟嘗君が西へ入って秦の相となれば、これまで斉のために謀ってきたことをかえって秦のために謀ることとなり、雄は秦に帰し、臨淄・即墨は危うくなりましょう。」
  • 湣王は顔色を変え、「それではどうすればよいか」と問うた。馮驩は言った。「秦の使者は今にも薛に到着します。大王はその到着前に、まず孟嘗君を宰相の地位に戻し、その封邑を改めて増やせば、孟嘗君は必ず喜んでこれを受けましょう。秦の使者がどれほど強くとも、王に告げずに人の相国を勝手に迎えることなどできましょうか。」
  • 湣王は「よかろう」と言った。しかし口では承知しても、心の中ではまだ深く信じていなかった。人を国境に遣わしてその真偽を探らせると、車馬が次々とやってくるのが見え、尋ねると果たして秦の使者であった。
  • 探りに出た斉の使者は夜を徹して駆け戻り、湣王に急報した。湣王はすぐに馮驩に節を持たせて孟嘗君を迎えさせ、その宰相の地位を回復し、さらに千戸を封邑に加増した。秦の使者は薛に着くと、孟嘗君がすでに斉の相に復帰したと聞き、そこで車の向きを転じて西へ帰った。
  • 孟嘗君はすでに宰相の地位に復すると、以前去っていった賓客たちは再び帰ってきた。孟嘗君は馮驩に「文は客を好み、あえて礼を失することはなかった。しかしひとたび相を罷免されると、客たちは皆文を捨てて去っていった。今、先生のお力で宰相の地位に戻ることができたが、諸客はどのような面目でまた文に会いに来るのだろうか」と言った。
  • 馮驩は答えて言った。「そもそも栄辱盛衰は、物事の常なる道理です。あなた様は大きな都会の市場をご覧になったことがありますか。朝には肩を押し合いへし合いして門から争って入りますが、日が暮れれば人は引いて空き地同然になってしまいます。それは求めるものがそこにないからです。富貴なときには士は多く集まり、貧賤なときには交わりは少なくなる、これも物事の常です。あなた様はどうしてこれを怪しまれましょうか。」孟嘗君は再拝して「謹んで承ります」と言った。以後は以前と変わらず客をもてなした。

秦の帝号と桀宋討伐の決断

  • そのころ魏の昭王と韓の釐王は、周王の命を奉じて「合従」して秦を討った。秦は白起に兵を率いさせて迎え撃たせ、伊闕で大戦し、二十四万の首を斬り、韓の将軍公孫喜を捕虜とし、武遂の地二百里を取った。ついで魏を討ち、河東の地四百里を取った。
  • 昭襄王は大いに喜び、七国がすべて王を称している以上、それでは特に異なるとは言えぬと考え、別に帝号を立てて貴重さを示そうとしたが、独り尊ぶことへのはばかりもあり、そこで斉の湣王に人を遣わして言わせた。「今、天下は互いに王を称し合っており、誰に帰すべきか分かりません。寡人は西帝を称して西方を治め、大王を東帝と尊んで東方を治めていただき、天下を平分したいと存じます。大王のお考えはいかがでしょうか。」
  • 湣王はまだ決めかねて、孟嘗君に問うた。孟嘗君は「秦は強大横暴で諸侯に嫌われております。王はこれに倣われますな」と言った。
  • 一月あまり過ぎて、秦は再び使者を斉に遣わし、共に趙を討つことを約させようとした。ちょうど蘇代が燕から再び斉にやってきたので、湣王はまず帝号をともに称する件について教えを乞うた。蘇代は答えた。「秦が帝号を他国に致さず、独り斉にのみ致すのは、斉を尊ぶためです。これを断れば秦の意に逆らうことになり、そのまま受ければ諸侯から悪く思われることになります。王はこれを受けても称号だけは称えられぬがよろしいでしょう。秦が帝と称し、西方の諸侯がこれを奉じたときに、王が改めて帝を称して東方に君臨されても遅くはございません。もし秦が帝を称しても諸侯がこれを憎むならば、王はこれを秦の罪となさればよいのです。」湣王は「謹んでお教えを承ります」と言った。
  • また「秦が趙討伐を約してきたが、この事はどうすればよいか」と問うた。蘇代は言った。「兵を出すのに名分がなければ、事は成りません。趙に罪がないのにこれを討てば、土地を得たとしても秦の利益となるだけで、斉には何のかかわりもございません。今、宋はまさに無道であり、天下はこれを桀宋と呼んでおります。王は趙を討つよりも、宋を討たれるに越したことはございません。その土地を得て守ることができ、その民を得て臣とすることができ、しかも暴を誅する名を得られます。これぞ湯武の挙にほかなりません。」
  • 湣王は大いに喜び、帝号を受けたが称することはしなかった。秦の使者を厚くもてなし、趙討伐の要請は辞退した。秦の昭襄王は帝を称してわずか二月で、斉が依然として王を称していると聞き、自らも帝号を取りやめ、あえて称さなかった。

桀宋こと宋康王の暴虐

  • 話は二つに分かれる。さて宋の康王は宋の辟公辟兵の子で、剔成の弟であった。その母は徐偃王が転生してきたという夢を見たので、名を偃とつけた。生まれつき異相で、身の丈九尺四寸、顔幅一尺三寸、目は巨星のごとく、顔には神々しい光があり、力は鉄の鉤をも曲げ伸ばすほどであった。
  • 周の顕王四十一年に、その兄剔成を追い出して自ら立った。立って十一年、国人が雀の巣を探ったところ、卵の抜け殻が見つかり、その中に小さな鸇(はやぶさの一種)がいたので、これを異事として君の偃に献上した。
  • 偃は太史を召してこれを占わせた。太史は卦を布いて奏上した。「小さいものが大きいものを生むというのは、弱を反転させて強となす、崛起して覇王となる兆しでございます。」偃は喜んで「宋は弱すぎる。寡人がこれを興さねば、誰にそれを望めよう」と言った。
  • そこで壮丁を広く徴発して自ら訓練し、精兵十万余を得た。東は斉を伐って五城を取り、南は楚を破って三百里余りの地を開拓し、西はさらに魏の軍を破って二城を取り、滕を滅ぼしてその地を有した。そこで秦に使者を遣わして好誼を通じ、秦もまた使者を遣わして応えた。これより宋は強国と称され、斉・楚・三晋と並び立った。偃はついに宋王と称した。
  • 自ら天下の英雄で並ぶ者はないと考え、急いで覇王の業を成し遂げようとした。朝廷に臨むたびに群臣に一斉に万歳を唱えさせた。堂上で一度呼べば堂下がこれに応え、門外の護衛の兵もまたこれに応え、その声は数里先まで聞こえた。
  • また革の袋に牛の血を満たし、高い竿に懸けて弓でこれを射た。弓は強く矢は勁く、革袋を射抜くと血の雨が空から乱れ散った。市に人を遣わして「我が王は天を射て勝った」と言いふらさせ、これによって遠方の人々を脅そうとした。
  • また終夜の酒宴を催し、酒を強いて群臣に飲ませたが、ひそかに側近に命じて酒の代わりに熱湯を用意させ、自分はそれを飲んでいた。群臣のうち酒量の多い者でも皆へべれけに酔いつぶれ、礼を成すことができなかったが、康王ひとりは平然としていた。左右のへつらう者たちは皆「君王の酒量は海のごとく、千石を飲んでも酔われません」と言った。
  • また多くの婦人を集めて淫楽にふけり、一夜に数十人の女を御し、人に「宋王の精力は数百人分に匹敵し、決して疲れを知らない」と言いふらさせ、これで自らを誇った。
  • ある日、封父の墟に出遊し、桑を摘む婦人でたいへん美しい者に出会い、青陵の台を築いてこれを望み見た。その家を訪ねさせると、舎人(君主の側近くに仕える属官)韓憑の妻の息氏であった。王は人を遣わして韓憑にその意を伝え、妻を献上させようとした。憑は妻にこれを話し、承知するかどうかを尋ねた。息氏は詩を作って答えた。
  • (詩:南山に鳥あり、北山に網を張る。鳥は自ら高く飛べば、網はどうすることもできない、という趣旨。)
  • 宋王は息氏を慕ってやまず、人を遣わして家からこれを奪わせた。韓憑は息氏が車に乗せられて去るのを見て、心中忍びず、自殺した。
  • 宋王は息氏を呼び寄せて共に青陵台に登り、彼女に言った。「私は宋王である。人を富貴にすることも、生かすことも殺すこともできる。まして、そなたの夫はすでに死んだ。そなたはどこに帰るところがあろうか。もし寡人に従うなら、王后に立ててやろう。」
  • 息氏は再び詩を作って答えた。
  • (詩:鳥には雌雄があるが、鳳凰を追うことはない。妾は庶人であり、宋王を楽しみとはしない、という趣旨。)
  • 宋王は「卿はもうここまで来てしまった。寡人に従いたくなくとも、それはできぬのだ」と言った。息氏は「どうか妾に沐浴して着替え、亡き夫の魂に拝礼させてください。その後で大王のお側に侍りましょう」と言った。宋王はこれを許した。
  • 息氏は沐浴し着替えると、空に向かって再拝し、そのまま台の上から身を投げて地に落ちた。宋王は急いで人にその衣をつかませようとしたが間に合わず、見ると、すでに息絶えていた。
  • 遺体を検めると、裙帯(腰紐)の中に一枚の書があり、そこにはこう書かれていた。「死後は、遺骨を韓憑と共に一つの塚に合葬してくださいませ。あの世でその御恩に感謝いたします。」
  • 宋王は大いに怒り、ことさら二つの塚を作り、隔てて埋め、東西に相望ませながらも互いに親しませないようにした。埋めてから三日後、宋王は国へ帰った。
  • ところが、ある夜、模様のある梓の木が二つの塚の傍らに生え、十日の間に木は三丈あまりも伸び、その枝は自然と互いに寄り添って連理となった。鴛鴦の一対が飛んで来てその枝にとまり、首を交わして悲しげに鳴いた。里人はこれを哀れんで「これは韓憑夫婦の魂が化したものだ」と言った。そこでこの樹を「相思樹」と名づけた。髯仙が詩を作って嘆いた。
  • (詩:相思樹の上に二羽の鴛鴦、千古の情の魂は哀れを誘う。威力をもって志を奪えると思うなかれ、婦人でさえその節を貫いて君王に抗ったのだから、という趣旨。)
  • 群臣は宋王の暴虐を見て、諫める者が多かった。宋王はその煩わしさに耐えかね、座席の傍らに弓矢を置き、諫める者があればすぐに弓を引いて射た。かつてある一日に景成・戴烏・公子勃ら三人を射殺したこともあった。これより朝廷では誰もあえて口を開かなくなった。諸侯はこれを桀宋と呼んだ。

三国合従と宋への出兵

  • そのころ斉の湣王は蘇代の説を用い、楚・魏に使者を遣わし、共に宋を攻めてその地を三分することを約した。兵がすでに発せられると、秦の昭王はこれを聞いて怒り、「宋は新たに秦と好誼を結んだばかりであるのに、斉がこれを討つとは。寡人は必ず宋を救う、再び議論する必要はない」と言った。
  • 斉の湣王は秦の兵が宋を救うことを恐れ、蘇代に相談した。蘇代は「臣が西へ行って秦の兵を止め、王の宋討伐の功を成し遂げさせましょう」と言った。
  • そこで西へ秦王に会って言った。「斉はもはや宋を討ち始めております。臣はあえて大王にお祝いを申し上げます。」秦王は「斉が宋を討つのに、先生はなぜ寡人を祝うのか」と言った。
  • 蘇代は言った。「斉王の強暴さは、宋と何ら変わりません。今、楚・魏を誘って宋を攻めれば、その勢いは必ず楚・魏を欺くことになりましょう。楚・魏は欺かれれば、必ず西を向いて秦に仕えるようになります。これは秦が一つの宋を犠牲にして斉を釣り、座して楚・魏の二国を得ることになるのです。王にとって何の不利がございましょうか。あえてお祝いせずにおられましょうか。」
  • 秦王は「寡人は宋を救いたいと思うが、どうか」と言った。蘇代は答えた。「桀宋は天下の公憤を犯しており、天下は皆その滅亡を喜んでおります。それなのに秦だけがこれを救えば、その怒りはやがて秦に向かうことになりましょう。」秦王はそこで兵を止め、宋を救わなかった。
  • 斉の軍が先に宋の郊外に至ると、楚・魏の兵も次々と合流してきた。斉の将軍韓聶、楚の将軍唐昧、魏の将軍芒卯の三人が集まって協議した。
  • 唐昧は「宋王は志が大きく気位が高い。弱さを見せてこれを誘い出すのがよい」と言った。芒卯は「宋王はみだらで残虐であり、人心はすでに離れて怨んでいる。我ら三国は皆かつて軍を喪い土地を失った恥辱がある。檄文を布告してその罪悪を明らかにし、旧領の民を招けば、必ず矛を返して宋に向かう者が現れよう」と言った。韓聶は「二君の言われることは、どちらも正しい」と言った。
  • そこで桀宋の十大罪を数え上げた檄文を作った。一、兄を追って位を篡奪し、国を得たことが正しくない。二、滕を滅ぼして地を併呑し、桀のごとく強を持って弱をしのいだ。三、攻戦を好んで大国を侵犯した。四、革袋に矢を射て天を射、天帝に罪を得た。五、終夜酒に耽り、国政を顧みなかった。六、人の妻や娘を奪い、淫蕩にして恥を知らぬ。七、諫める臣を射殺し、忠良の口を塞いだ。八、王号を僭称し、みだりに己を尊大とした。九、ひたすら強秦に媚び、近隣諸国の恨みを結んだ。十、神を侮り民を虐げ、まったく君主の道を失った。
  • 檄文が至る所で、人心は驚き恐れ、三国のかつての失地では、その民が宋に付くことを喜ばず、皆その役人を追い出し、城に登って自ら守り、来たる軍を待った。こうして進む先々で勝利を収め、まっすぐ睢陽に迫った。
  • 宋王偃は車と歩兵を大いに閲兵し、自ら中軍を率いて、城から十里の所に陣を構え、攻撃に備えた。韓聶はまず部下の将、閭丘倹に五千の兵で戦いを挑ませたが、宋の兵は出てこなかった。閭丘倹は声の大きい兵士数人に轈車(望楼付きの兵車)に登らせ、桀宋十罪を朗誦させた。
  • 宋王偃は大いに怒り、将軍の盧曼に出撃を命じた。数合戦うと、閭丘倹は敗走した。盧曼はこれを追ったが、閭丘倹は車馬や武器をすべて棄てて狼狽して逃げた。
  • 宋王偃は塁に登り、斉の軍がすでに敗れたのを望み見て、喜んで「斉の一軍を破れば、楚と魏はともに意気消沈しよう」と言った。そこで全軍を挙げて出撃し、まっすぐ斉の陣営に迫った。
  • 韓聶は再び一戦を譲り、二十里退いて陣を敷いた。そして唐昧・芒卯の二軍には左右に道を取らせ、宋王の大陣の後方に回り込ませた。

宋の滅亡と斉の驕慢

  • 翌日、宋王偃は斉の兵はもう戦えないだろうと考え、陣を挙げてすべて進軍し、まっすぐ斉の陣営を攻めた。閭丘倹は韓聶の旗を掲げて陣を布き対峙した。辰の刻から午の刻まで、三十余合も交戦した。
  • 宋王は果たして勇猛で、自ら斉の将二十余人を斬り、斉の兵士の死者も百余人に及んだ。宋側では将の盧曼が陣中で死んだ。閭丘倹は再び大敗して逃げ、車や武器を数え切れないほど棄てた。宋の兵は争ってこれを奪い取った。
  • そのとき、突然斥候が「敵兵が睢陽城を激しく攻めております。楚と魏の軍馬と見受けられます」と報告してきた。宋王は大いに怒り、急ぎ隊を整えて軍を返した。
  • 五里も行かぬうちに、横合いから一軍が突如現れ、「斉国上将韓聶ここにあり。無道の愚かな君主よ、なお降伏せぬか」と大声で叫んだ。宋王の左右の将、戴直と屈志高が二台の車をそろえて出撃したが、韓聶は大いに武勇を発揮し、まず屈志高を車の下に斬り伏せた。戴直はあえて交戦せず、宋王を守りながら戦い、退きながら睢陽城下まで戻った。守将の公孫抜は自軍の兵馬と見分け、門を開いて入れた。
  • 三国連合軍は攻め続け、昼夜休むことがなかった。突然砂塵が舞い上がり、また大軍がやってきた。斉の湣王が韓聶の失敗を恐れ、自ら大将の王蠋・太史敫らを率い、まだ戦っていない新手の軍三万を引き連れてやって来たのであり、軍勢はますます盛んになった。
  • 宋の軍は湣王が自ら兵を率いていると知り、皆胆を潰し、心を萎えさせた。そのうえ宋王は兵士をいたわらず、昼夜男女を問わず守備に駆り立て、まったく恩賞を与えなかったので、怨みの声が満ちていた。
  • 戴直は宋王偃に「敵の勢いは猛り狂い、人心はすでに離反しております。大王は城を棄て、しばらく河南に避け、改めて挽回の策をお図りになるに越したことはございません」と言った。
  • 宋王はこのとき、王として覇者となる大望も、秋の水のように消え去り、しばらく嘆息していたが、戴直と共に真夜中に城を棄てて逃げた。公孫抜はそこで急いで降伏の旗を掲げ、湣王を城内に迎え入れた。
  • 湣王は人々を安撫し、一方で諸軍に宋王の追撃を命じた。宋王は温邑まで逃げたが、追手に追いつかれ、まず戴直が捕らえられて斬られた。宋王は自ら神農澗に身を投げたが死にきれず、兵士に引き出されて斬首され、首は睢陽へ送られた。
  • こうして斉・楚・魏は共に宋国を滅ぼし、その地を三分した。楚魏の兵がすでに散ったあと、湣王は「宋討伐の役では、斉の力が最も多くを担った。楚魏はどうして地を得られよう」と言い、そこで兵を引き連れて枚を銜み、唐昧の後を密かに追い、重丘で楚の軍を襲って破った。勝ちに乗じて逃げる敵を追い、淮北の地をすべて取った。さらに西に三晋を侵し、しばしばその軍を破った。
  • 楚魏は湣王が約を破ったことを恨み、果たして皆使者を遣わして秦に付き従い、秦はかえってこれを蘇代の功だと考えた。
  • 湣王は宋の地をすでに併呑し、いよいよ驕り高ぶり、寵臣の夷維を遣わして衛・魯・鄒の三国の君主を糾合し、彼らに臣と称して入朝させようとした。三国は湣王の侵略を恐れ、あえて従わないわけにはいかなかった。
  • 湣王は「寡人は燕を殺ぎ宋を滅ぼし、千里の地を切り開いた。梁を破り楚を割いて、威は諸侯に加わっている。魯衛はすでに臣と称し、泗上の国々はすべて恐れをなしている。近いうちにわずか一旅(五百人の一部隊)を率いて東西二周を併呑し、九鼎を臨淄に遷し、正しく天子の号を称して天下に号令すれば、誰があえて背こうか」と言った。
  • 孟嘗君田文は諫めて言った。「宋王偃はただ驕り高ぶったがゆえに、斉はその隙に乗じて滅ぼすことができたのです。大王はどうか宋を戒めとなさってください。周は微弱とはいえ、共通の君主と称される存在です。七国が互いに攻戦する中でも、あえて周に手を出さぬのは、その名を畏れているからです。大王は先に帝号を取りやめて称されませんでしたが、天下はこれによって斉の謙譲を称えたのでございます。今にわかに周に代わろうとするお志を抱かれるのは、斉の福ではございますまい。」
  • 湣王は「湯は桀を追放し、武王は紂を討った。桀・紂とてその主ではなかったか。寡人がどうして湯・武に及ばないことがあろうか。惜しむらくは、そなたが伊尹や太公ではないということだ」と言った。そこで再び孟嘗君の宰相の印を取り上げた。

孟嘗君の魏亡命と魏の公子無忌 斉に凶兆あい継ぐ

  • 孟嘗君は誅されることを恐れ、その賓客と共に大梁へ逃れ、公子無忌を頼って身を寄せた。この公子無忌は魏の昭王の末子であり、人となりは謙虚で士を好み、人に会うたびに応対が及ばぬことを恐れるほどであった。
  • かつて朝の食事の際、一羽の鳩が鷂(はいたか)に追われ、急いで案の下に逃げ込んだことがあった。無忌はこれを覆い隠してかばい、鷂が去るのを見てから鳩を放してやった。ところが鷂は屋根の棟に隠れていて、鳩が飛び出すのを見るや、これを追って食い殺してしまった。
  • 無忌は自らを咎めて「この鳩は難を避けて私のもとへ逃げ込んだのに、結局は鷂に殺されてしまった。これは私がこの鳩を裏切ったことになる」と言い、その日は食事を口にしなかった。
  • 左右に鷂を捕らえさせ、合わせて百余羽を得ると、それぞれ一つの籠に入れて献上させた。無忌は「鳩を殺したのはただ一羽の鷂だけだ。なぜ他の鳥まで巻き添えにしてよいだろうか」と言い、剣を籠の上にかざして祈った。「鳩を食わなかった鷂は、私に向かって悲しく鳴け。さすればそなたを放してやろう。」
  • すると群れの鷂は皆悲しげに鳴いた。ただ一つの籠だけは、その鷂が頭を垂れて仰ぎ見ようとしなかったので、これを取り出して殺した。そして残りの鷂を籠から放してやった。これを聞いた者は「魏の公子は一羽の鳩をも裏切るに忍びないのに、まして人を裏切ることがあろうか」と嘆じた。これにより、賢愚を問わず士は市のように彼のもとに集まった。食客もまた三千余人に及び、孟嘗君・平原君と肩を並べるほどであった。
  • 魏には隠者がおり、姓は侯、名は嬴といい、年は七十余、家は貧しく、大梁の夷門の門番をしていた。無忌はその日頃の行いが清潔であり、しかも奇計を好むと聞き、里の人々もこれを尊敬して侯生と呼んでいた。
  • そこで無忌は車を駆ってこれを訪ね、黄金二十鎰を贈り物とした。侯生は辞退して「嬴は貧しさに安んじて自らを守り、みだりに人から一銭も受け取ったことはございません。今すでに年老いております。どうして公子のために節を曲げることがございましょうか」と言った。無忌は無理強いすることができなかった。
  • それでも彼を尊び礼を尽くし、賓客に示したいと考え、酒宴を大いに催した。その日、魏の宗室・将相をはじめとする貴客たちが堂に集まったが、ただ左の第一席だけを空けておいた。
  • 無忌は自ら車を駆って夷門へ赴き、侯生を宴席に迎えた。侯生は車に乗り、無忌が会釈して上座に招いても、侯生は少しも遠慮しなかった。無忌は手綱を執って傍らに立ち、たいへん恭しい様子であった。
  • 侯生は無忌に「臣には朱亥という客があり、市場の屠殺場におります。会いに行きたいのですが、公子は道を曲げて共に行っていただけましょうか」と言った。無忌は「先生とご一緒に参りましょう」と言い、車を市場へ回り道させた。
  • 屠殺場の門に着くと、侯生は「公子はしばらく車の中でお待ちください。老いぼれはこれから下りて、私の客を見て参ります」と言った。侯生は車を降り、朱亥の家に入り、肉切り台の前で向かい合って座り、しばらく話し込んだ。
  • 侯生はときどき公子の様子をうかがったが、公子の顔色はますます穏やかになり、少しも倦む様子がなかった。従っていた騎馬の従者数十人は、侯生の長話に飽き、こっそりと悪態をつく者も多かった。侯生もそれを聞いていたが、ひたすら公子の顔色が終始変わらぬのを見た。
  • こうして朱亥に別れを告げ、再び車に乗って上座に着いた。無忌は正午に門を出て、館に戻った時にはすでに申の刻の終わりであった。
  • 貴客たちは公子が自ら客を迎えに行き、左座を空けて待っているのを見て、いったいどのような有名な遊説の士か、あるいは大国の使臣なのだろうかと、皆敬意を払って待っていた。しかし久しく到着しないので、それぞれ心が煩わしくなり、気力も萎えてきた。
  • 突然「公子が迎えた客が到着しました」との報せを聞くと、貴客たちは再び敬意の念を起こし、皆立ち上がって出迎え、目を凝らして見た。客が到着すると、それは白い髭の老人で、着ているものはみすぼらしく、皆驚き呆れた。
  • 無忌は侯生を連れて賓客の皆に紹介した。貴客たちは彼が夷門の門番であると聞き、内心それをよしとしなかった。無忌は侯生に会釈して首席に着かせ、侯生もまた遠慮しなかった。
  • 酒が半ば回ったころ、無忌は自ら金の杯を捧げて侯生の前で寿を祝った。侯生は杯を受け取り、無忌に言った。「臣は夷門の門番にすぎません。公子がわざわざお越しくださり、市場で長いあいだ車を留めてお待ちくださって、少しも嫌な色を見せられませんでした。さらに臣を諸貴客の上座に据えられたのは、臣にとっては過分なことです。しかし臣があのように振る舞いましたのは、公子が士に身を低くされるという名声を成し遂げていただきたかったからにほかなりません。」貴客たちは皆こっそり笑った。
  • 宴が終わると、侯生はそのまま公子の上客となった。侯生は朱亥の賢明さを推薦し、無忌はたびたび彼のもとを訪ねたが、朱亥はまったく答礼しなかった。無忌もそれを怪しまず、その謙って士に接する様は、これほどのものであった。
  • 今日、孟嘗君が魏に至って、独り無忌を頼ったのは、まさに古語の「同声相応じ、同気相求む」という言葉の通りであり、自然と気が合ったのである。孟嘗君はもともと趙の平原君公子勝と厚い交わりがあったので、無忌に趙の勝と交わりを結ばせた。無忌は実の姉を平原君の夫人として嫁がせた。こうして魏と趙は好誼を通じ、孟嘗君はその間にあって重んじられた。
  • 斉の湣王は孟嘗君が去ったのち、いよいよ自ら驕り高ぶり、日夜周に代わって天子となる企てを謀った。そのころ斉の領内には怪異が多かった。天から血が降り、その範囲は数百里に及び、人の衣を濡らし、腥臭に耐えなかった。また地面が数丈にわたって裂け、泉水が湧き出た。また城門の前に立ちはだかって哭く者があり、その声だけが聞こえてその姿は見えなかった。
  • これらの事により人々は皆おそれおののき、明日をも知れぬ思いであった。大夫の狐咺・陳挙は前後して諫言し、さらに孟嘗君を呼び戻すよう請うたが、湣王は怒ってこれを殺し、その屍を大通りに晒して、以後の諫言する者を止めた。
  • これにより王蠋・太史敫らは、皆病と称して官職を辞し、郷里に帰って隠遁した。湣王がどのような結末を迎えるかは分からない。続きは次回で明かされる。
原文(底本)
話說孟嘗君自秦逃歸,道經於趙,平原君趙勝,出迎於三十里外,極其恭敬。趙人素聞人傳說孟嘗之名,未見其貌,至是,爭出觀之。孟嘗君身材短小,不踰中人。觀者或笑曰:「始吾慕孟嘗君,以為天人,必魁然有異。今觀之,但渺小丈夫耳!」和而笑者復數人。是夜,凡笑孟嘗君者皆失頭。平原君心知孟嘗門客所為,不敢問也。

  再說齊湣王既遣孟嘗君往秦,如失左右手,恐其遂為秦用,深以為憂。乃聞其逃歸,大喜,仍用為相國,賓各歸者益眾。乃置為客舍三等:上等曰「代舍」,中等曰「幸舍」,下等曰「傳舍」。代舍者,言其人可以自代也﹔上客居之,食肉乘輿。幸舍者,言其人可任用也﹔中客居之,但食肉不乘輿。傳舍者,脫粟之飯,免其飢餒﹔出入聽其自便,下客居之。前番雞鳴狗盜及偽券有功之人,皆列於代舍。所收薛邑俸人,不足以給賓客,乃出錢行債於薛,歲收利息,以助日用。一日,有一漢子,狀貌修偉,衣敝褐,躡草屨,自言姓馮,名驩,齊人,求見孟嘗君。孟嘗君揖之與坐,問曰:「先生下辱,有以教文乎?」驩曰:「無也。竊聞君好士,不擇貴賤,故不揣以貧身自歸耳。」孟嘗君命置傳舍。十餘日,孟嘗君問於傳舍長曰:「新來客何所事?」傳舍長答曰:「馮先生貧甚,身無別物,止存一劍﹔又無劍囊,以蒯緱繫之於腰間,食畢,輙彈其劍而歌曰:『長鋏歸來兮,食無魚!』」孟嘗君笑曰:「是嫌吾食儉也。」乃遷之於幸舍,食魚肉。仍使幸舍長候其舉動:「五日後,來告我。」居五日,幸舍長報曰:「馮先生彈劍而歌如故,但其辭不同矣。曰:『長鋏歸來兮,出無車!』」孟嘗君驚曰:「彼欲為我上客乎?其人必有異也。」又遷之代舍。復使代舍長伺其歌否。驩乘車日出夜歸,又歌曰:「長鋏歸來兮,無以為家!」代舍長詣孟嘗君言之。孟嘗君蹙額曰:「客何無饜之甚乎?」更使伺之,驩不復歌矣。居一年有餘,主家者來告孟嘗君:「錢穀只勾一月之需。」孟嘗君查貸券,民間所負甚多,乃問左右曰:「客中誰能為我收債於薛者?」代舍長進曰:「馮先生不聞他長,然其人似忠實可任。向者自請為上客,君其試之。」孟嘗君請馮驩與言收債之事。馮驩一諾無辭,遂乘車至薛,坐於公府。薛民萬戶,多有貸者,聞薛公使上客來徵息,時輸納甚眾,計之得息錢十萬。馮驩將錢多市牛酒,預出示:「凡負孟嘗君息錢者,勿論能償不能償,來日悉會府中驗券。」百姓聞有牛酒之犒,皆如期而來。馮驩一一勞以酒食,勸使酣飽。因而旁觀,審其中貧富之狀,盡得其實。食畢,乃出券與合之,度其力饒,雖一時不能,後可相償者,與為要約,載於券上﹔其貧不能償者,皆羅拜哀乞寬期。馮驩命左右取火,將貧券一笥,悉投火中燒之,謂眾人曰:「孟嘗君所以貸錢於民者,恐爾民無錢以為生計,非為利也。然君之食客數千,俸食不足,故不得已而徵息以奉賓客。今有力者更為期約,無力者焚券蠲免。君之施德於爾薛人,可謂厚矣。」百姓皆叩頭歡呼曰:「孟嘗君真吾父母也!」早有人將焚券事報知孟嘗君。孟嘗君大怒,使人催召驩,驩空手來見,孟嘗君假意問曰:「客勞苦,收債畢乎?」驩曰:「不但為君收債,且為君收德!」孟嘗君色變,讓之曰:「文食客三千人,俸食不足,故貸錢於薛,冀收餘息,以助公費。聞客得息錢,多具牛酒,與眾樂飲,復焚券之半,猶曰『收德』,不知所收何德也?」驩對曰:「君請息怒,容備陳之。負債者多,不具牛酒為歡,眾疑,不肯齊赴,無以驗其力之饒乏。力饒者與為期約。其乏者雖嚴責之,亦不能償﹔久而息多,則逃亡耳。區區之薛,君之世封,其民乃君所與共安危者也。今焚無用之券,以明君之輕財而愛民。仁義之名,流於無窮,此臣所謂為君收德者矣。」孟嘗君迫於客費,心中殊不以為然,然已焚券,無可奈何,勉為放顏,揖而謝之。史臣有詩云:

    逢迎言利號佳賓,焚券先虞觸主嗔﹔空手但收仁義返,方知彈鋏有高人。

  卻說秦昭襄王悔失孟嘗君,又見其作用可駭,想道:「此人用於齊國,終為秦害!」乃廣布謠言,流於齊國,言:「孟嘗君名高天下,天下知有孟嘗君,不知有齊王,不日孟嘗君且代齊矣!」又使人說楚頃襄王曰:「向者六國伐秦,齊兵獨後,因楚王自為從約長,孟嘗君不服,故不肯同兵。及懷王在秦,寡君欲歸之,孟嘗君使人勸寡君勿歸懷王﹔以太子見質於齊,欲秦殺懷王,彼得留太子以要地於齊﹔故太子幾不得歸,而懷王竟死於秦。寡君之得罪於楚,皆孟嘗君之故也。寡君以楚之故,欲得孟嘗君而殺之,會逃歸不獲。今復為齊相專權,旦暮篡齊,秦楚自此多事矣。寡君願悔前之禍,與楚結好,以女為楚王婦,共備孟嘗君之變。幸大王裁聽!」楚王惑其言,竟通和於秦,迎秦王之女為夫人,亦使人布流言於齊。齊湣王疑之,遂收孟嘗君相印,黜歸於薛。賓客聞孟嘗君罷相,紛紛散去﹔惟馮驩在側,為孟嘗君御車。未至薛,薛百姓扶老攜幼相迎,爭獻酒食,問起居。孟嘗君謂驩曰:「此先生所謂為文收德者也!」馮驩曰:「臣意不止於此。倘借臣以一乘之車,必令君益重於國,而俸邑益廣。」孟嘗君曰:「惟先生命!」

  過數日,孟嘗君具車馬及金幣,謂馮驩曰:「聽先生所往。」馮驩駕車,西入咸陽,求見昭襄王,說曰:「士之游秦者,皆欲強秦而弱齊﹔其游齊者,皆欲強齊而弱秦。秦與齊勢不兩雄,其雄者,乃得天下。」秦王曰:「先生何策可使秦為雄而不為雌乎?」馮驩曰:「大王知齊之廢孟嘗君否?」秦王曰:「寡人曾聞之,而未信也。」馮驩曰:「齊之所以重於天下者,以有孟嘗君之賢也。今齊王惑於讒毀,一旦收其相印,以功為罪,孟嘗君怨齊必深,乘其懷怨之時,而秦收之以為用,則齊國之陰事,以將盡輸於秦,用以謀齊,齊可得也,豈特為雄而已哉?大王急遣使,載重幣,陰迎孟嘗君於薛,時不可失!萬一齊王悔悟而復用之,則兩國之雌雄未可定矣。」時樗里疾方卒,秦王急欲得賢相,聞驩言大喜,乃飾良車十乘,黃金百鎰,命使者以丞相之儀從,迎孟嘗君。馮驩曰:「臣請為大王先行報孟嘗君,使之束裝,毋淹來使。」馮驩疾驅至齊,未暇見孟嘗君,先見齊王,說曰:「齊秦之互為雌雄,王所知也。得人者為雄,失人者為雌。今臣聞道路之言,秦王幸孟嘗君之廢,陰遣良車十乘,黃金百鎰,迎孟嘗君為相。倘孟嘗君西入相秦,反其為齊謀者以為秦謀,則雄在秦,而臨淄即墨危矣!」湣王色動,問曰:「然則如何?」馮驩曰:「秦使旦暮且至薛,大王乘其未至,先復孟嘗君相位,更其邑封,孟嘗君必喜而受之。秦使者雖強,豈能不告於王,而擅迎人之相國哉?」湣王曰:「善。」然口雖答應,意未深信。使人至境上,探其虛實,只見車騎紛紛而至,詢之,果秦使也。使者連夜奔告湣王,湣王即命馮驩,持節迎孟嘗君,復其相位,益封孟嘗君千戶。秦使者至薛,聞孟嘗君已復相齊,乃轉轅而西。孟嘗君既復相位,前賓客去者復歸。孟嘗君謂馮驩曰:「文好客無敢失禮,一日罷相,客皆棄文而去﹔今賴先生之力,得復其位,諸客有何面目復見文乎?」馮驩答曰:「夫榮辱盛衰,物之常理。君不見大都之市乎?旦則側肩爭門而入,日暮為墟矣,為所求不在焉。夫富貴多士,貧賤寡交,事之常也。君又何怪乎?」孟嘗君再拜曰:「敬聞命矣。」乃待客如初。

  是時,魏昭王與韓釐王奉周王之命,「合從」伐秦。秦使白起將兵迎之,大戰於伊闕,斬首二十四萬,虜韓將公孫喜,取武遂地二百里﹔遂伐魏,取河東地四百里。昭襄王大喜﹔以七國皆稱王,不足為異,欲別立帝號,以示貴重,而嫌於獨尊,乃使人言於齊湣王曰:「今天下相王,莫知所歸。寡人意欲稱西帝,以主西方﹔尊齊為東帝,以主東方﹔平分天下,大王以為何如?」湣王意未決,問於孟嘗君。孟嘗君曰:「秦以強橫見惡於諸侯,王勿效之。」踰一月,秦復遣使至齊,約共伐趙。適蘇代自燕復至,湣王先以並帝之事,請教於代。代對曰:「秦不致帝於他國,而獨致於齊,所以尊齊也。卻之,則拂秦之意,直受之,則取惡於諸侯。願王受之而勿稱。使秦稱之,而西方之諸侯奉之,王乃稱帝,以王東方,未晚也﹔使秦稱之,而諸侯惡之,王因以為秦罪。」湣王曰:「敬受教。」又問:「秦約伐趙,其事何如?」蘇代曰:「兵出無名,事故不成。趙無罪而伐之,得地則為秦利,齊無與焉。今宋方無道,天下號為桀宋。王與其伐趙,不如伐宋,得其地可守,得其民可臣,而又有誅暴之名,此湯武之舉也。」湣王大悅,乃受帝號而不稱。厚待秦使,而辭其伐趙之請。秦昭襄王稱帝纔二月,聞齊仍稱王,亦去帝號,不敢稱。

  話分兩頭。卻說宋康王乃宋辟公辟兵之子,剔成之弟,其母夢徐偃王來託生,因名曰偃。生有異相,身長九尺四寸,面闊一尺三寸,目如巨星,面有神光,力能屈伸鐵鉤。於周顯王四十一年,逐其兄剔成而自立。立十一年,國人探雀巢,得蛻卵,中有小鸇,以為異事,獻於君偃。偃召太史占之。太史布卦奏曰:「小而生大,此反弱為強,崛起霸王之象。」偃喜曰:「宋弱甚矣,寡人不興之,更望何人。」乃多檢壯丁,親自訓練,得勁兵十萬餘。東伐齊,取五城﹔南敗楚,拓地三百餘里﹔西又敗魏軍,取二城﹔滅滕,有其地。因遣使通好於秦,秦亦遣使報之。自是宋號強國,與齊、楚、三晉相並。偃遂稱為宋王。自謂天下英雄,無與為比,欲速就霸王之業。每臨朝,輙令群臣齊呼萬歲。堂上一呼,堂下應之,門外侍衛亦俱應之,聲聞數里。又以革囊盛牛血,懸於高竿,挽弓射之。弓強矢勁,射透革囊,血雨從空亂灑,使人傳言於市曰:「我王射天得勝。」欲以恐嚇遠人。又為長夜之飲,以酒強灌群臣,而陰使左右以熱水代酒自飲。群臣量素洪者,皆潦倒大醉,不能成禮﹔惟康王惺然。左右獻諛者,皆曰:「君王酒量如海,飲千石不醉也。」又多取婦人為淫樂,一夜御數十女,使人傳言:「宋王精神兼數百人,從不倦怠。」以此自炫。一日,游封父之墟,遇見採桑婦甚美,築青陵之臺以望之。訪其家,乃舍人韓憑之妻息氏也。王使人喻憑以意,使獻其妻。憑與妻言之,問其願否。息氏作詩以對曰:

    南山有鳥,北山張羅﹔鳥自高飛,羅當奈何?

宋王慕息氏不已,使人即其家奪之。韓憑見息氏升車而去,心中不忍,遂自殺。宋王召息氏共登青陵臺,謂之曰:「我宋王也,能富貴人,亦能生殺人。況汝夫已死,汝何所歸?若從寡人,當立為王后。」息氏復作詩以對曰:

    鳥有雌雄,不逐鳳凰﹔妾是庶人,不樂宋王。

宋王曰:「卿今已至此,雖欲不從寡人,不可得也!」息氏曰:「容妾沐浴更衣,拜辭故夫之魂,然後侍大王巾櫛耳。」宋王許之。息氏沐浴更衣訖,望空再拜,遂從臺上自投於地。宋王急使人攬其衣,不及,視之,氣已絕矣。簡其身畔,於裙帶得書一幅,書云:「死後,乞賜遺骨與韓憑合葬於一塚,黃泉感德!」宋王大怒,故為二塚,隔絕埋之,使其東西相望,而不相親。埋後三日,宋王還國。忽一夜,有文梓木生於二塚之傍,旬日間,木長三丈許,其枝自相附結成連理。有鴛鴦一對,飛集於枝上,交頸悲鳴。里人哀之曰:「此韓憑夫婦之魂所化也!」遂名其樹曰「相思樹」。髯仙有詩嘆云:

    相思樹上兩鴛鴦,千古情魂事可傷!莫道威強能奪志,婦人執性抗君王。

群臣見宋王暴虐,多有諫者。宋王不勝其瀆,乃置弓矢於座側,凡進諫者,輒引弓射之。嘗一日間射殺景成、戴烏、公子勃等三人。自是舉朝莫敢開口。諸侯號曰桀宋。

  時齊湣王用蘇代之說,遣使於楚魏,約共攻宋,三分其地。兵既發,秦昭王聞之,怒曰:「宋新與秦懽,而齊伐之,寡人必救宋,無再計。」齊湣王恐秦兵救宋,求於蘇代。代曰:「臣請西止秦兵,以遂王伐宋之功。」乃西見秦王曰:「齊今伐宋矣,臣敢為大王賀。」秦王曰:「齊伐宋,先生何以賀寡人乎?」蘇代曰:「齊王之強暴,無異於宋。今約楚魏而攻宋,其勢必欺楚魏。楚魏受其欺,必向西而事秦。是秦損一宋以餌齊,而坐收楚魏之二國也,王何不利焉?敢不賀乎?」秦王曰:「寡人欲救宋何如?」代答曰:「桀宋犯天下之公怒,天下皆幸其亡,而秦獨救之,眾怒且移於秦矣。」秦王乃罷兵不救宋。齊師先至宋郊,楚魏之兵亦陸續來會。齊將韓聶,楚將唐昧,魏將芒卯,三人做一處商議。唐昧曰:「宋王志大氣驕,宜示弱以誘之。」芒卯曰:「宋王淫虐,人心離怨,我三國皆有喪師失地之恥,宣傳檄文,布其罪惡,以招故地之民,必有反戈而向宋者。」韓聶曰:「二君之言皆是也。」乃為檄數桀宋十大罪。一、逐兄篡位,得國不正﹔二、滅滕兼地,桀強凌弱﹔三、好攻樂戰,侵犯大國﹔四、革囊射天,得罪上帝﹔五、長夜酣飲,不恤國政﹔六、奪人妻女,淫蕩無恥﹔七、射殺諫臣,忠良結舌﹔八、僭擬王號,妄自尊大﹔九、獨媚強秦,結怨鄰國﹔十、慢神虐民,全無君道。檄文到處,人心聳懼,三國所失之地,其民不樂附宋,皆逐其官吏,登城自守,以待來兵。於是所向皆捷,直逼睢陽。宋王偃大閱車徒,親領中軍,離城十里結營,以防攻突。韓聶先遣部下將閭丘儉,以五千人挑戰。宋兵不出。閭丘儉使軍士聲洪者數人,登轈車朗誦桀宋十罪。宋王偃大怒,命將軍盧曼出敵。略戰數合,閭丘儉敗走,盧曼追之,儉盡棄其車馬器械,狼狽而奔。宋王偃登壘,望見齊師已敗,喜曰:「敗齊一軍,則楚魏俱喪氣矣!」乃悉師出戰,直逼齊營。韓聶又讓一陣,退二十里下寨,卻教唐昧芒卯二軍,左右取路,抄出宋王大營之後。

  次日,宋王偃只道齊兵已不能戰,拔寨都進,直攻齊營。閭丘儉打著韓聶旗號,列陣相持。自辰至午,合戰三十餘次。宋王果然英勇,手斬齊將二十餘員,兵士死者百餘人。宋將盧曼亦死於陣。閭丘儉復大敗而奔,委棄車仗器械無數。宋兵爭先掠取。忽有探子報道:「敵兵襲攻睢陽城甚急!探是楚魏二國軍馬。」宋王大怒,忙教整隊回軍。行不上五里,刺斜裏一軍突出,大叫:「齊國上將韓聶在此!無道昏君,還不速降!」宋王左右將戴直屈志高,雙車齊出。韓聶大展神威,先將屈志高斬於車下。戴直不敢交鋒,保護宋王,且戰且走。回至睢陽城下,守將公孫拔認得自家軍馬,開門放入。三國合兵攻打,晝夜不息。忽見塵頭起處,又有大軍到來,乃是齊湣王恐韓聶不能成功,親帥大將王蠋太史敫等,引生軍三萬前來,軍勢益壯。宋軍知齊王親自領兵,人人喪膽,個個灰心。又兼宋王不恤士卒,晝夜驅率男女守瞭,絕無恩賞,怨聲籍籍。戴直言於王偃曰:「敵勢猖狂,人心已變,大王不如棄城,權避河南,更圖恢復。」宋王此時,一片圖王定霸之心,化為秋水,嘆息了一回,與戴直半夜棄城而遁。公孫拔遂喼起降旗,迎湣王入城。湣王安撫百姓,一面令諸軍追逐宋王。宋王走至溫邑,為追兵所及,先擒戴直斬之。宋王自投於神農澗中,不死,被軍士牽出,斬首,傳送睢陽。齊、楚、魏遂共滅宋國,三分其地。楚魏之兵既散,湣王曰:「伐宋之役,齊力為多﹔楚魏安得受地?」遂引兵銜枚尾唐昧之後,襲敗楚師於重丘。乘勝逐北,盡收取淮北之地。又西侵三晉,屢敗其軍。楚魏恨湣王之負約,果皆遣使附秦,秦反以為蘇代之功矣。湣王既兼有宋地,氣益驕恣,使嬖臣夷維,往合衛、魯、鄒三國之君,要他稱臣入朝。三國懼其侵伐,不敢不從。湣王曰:「寡人殘燕滅宋,闢地千里﹔敗梁割楚,威加諸侯。魯衛盡已稱臣,泗上無不恐懼。旦晚提一旅兼并二周,遷九鼎於臨淄,正號天子,以令天下,誰敢違者!」孟嘗君田文諫曰:「宋王偃惟驕,故齊得而乘之,願大王以宋為戒!夫周雖微弱,然號為共主。七國攻戰,不敢及周,畏其名也。大王前去帝號不稱,天下以此多齊之讓。今忽萌代周之志,恐非齊福!」湣王曰:「湯放桀,武王伐紂,桀紂非其主乎?寡人何不如湯武?惜子非伊尹太公耳!」於是復收孟嘗君相印。

  孟嘗君懼誅,乃與其賓客走大梁,依公子無忌以居。那公子無忌,乃是魏昭王之少子,為人謙恭好士,接人惟恐不及。嘗朝膳,有一鳩為鷂所逐,急投案下,無忌蔽之,視鷂去,乃縱鳩。誰知鷂隱於屋脊,見鳩飛出,逐而食之。無忌自咎曰:「此鳩避患而投我,乃竟為鷂所殺,是我負此鳩也!」竟日不進膳。令左右捕鷂,共得百餘頭,各置一籠以獻。無忌曰:「殺鳩者止一鷂,吾何可累及他禽!」乃按劍於籠上,祝曰:「不食鳩者,向我悲鳴,我則放汝。」群鷂皆悲鳴。獨至一籠,其鷂低頭不敢仰視,乃取而殺之。遂開籠放其餘鷂。聞者嘆曰:「魏公子不忍負一鳩,忍負人乎?」由是士無賢愚,歸之如市。食客亦三千餘人,與孟嘗君平原君相亞。

  魏有隱士,姓侯名嬴,年七十餘,家貧,為大梁夷門監者。無忌聞其素行修潔,且好奇計,里中尊敬之,號為侯生。於是駕車往拜,以黃金二十鎰為贄。侯生謝曰:「嬴安貧自守,不妄受人一錢,今且老矣,寧為公子而改節乎?」無忌不能強。欲尊禮之,以示賓客,乃置酒大會。是日,魏宗室將相諸貴客畢集堂中,坐定,獨虛左第一席。無忌命駕親往夷門,迎侯生赴會。侯生登車,無忌揖之上坐,生略不謙遜。無忌執轡在傍,意甚恭敬。侯生又謂無忌曰:「臣有客朱亥,在市屠中,欲往看之,公子能枉駕同一往否?」無忌曰:「願與先生偕往。」即命引車枉道入市。及屠門,侯生曰:「公子暫止車中,老漢將下看吾客。」侯生下車,入亥家,與亥對坐肉案前,絮語移時。侯生時時睨視公子,公子顏色愈和,略無倦怠。時從騎數十餘,見侯生絮語不休,厭之,多有竊罵者。侯生亦聞之,獨視公子色終不變。乃與朱亥別,復登車,上坐如故。無忌以午牌出門,比回府,已申末矣。諸貴客見公子親往迎客,虛左以待,正不知甚處有名的遊士,何方大國的使臣,俱辦下一片敬心伺候。及久不見到,各各心煩意懶。忽聞報說:「公子迎客已至。」眾貴客敬心復萌,俱起坐出迎,睜眼相看。及客到,乃一白鬚老者,衣冠敝陋,無不駭然。無忌引侯生遍告賓客。諸貴客聞是夷門監者,意殊不以為然。無忌揖侯生就首席,侯生亦不謙讓。酒至半酣,無忌手捧金巵為壽於侯生之前。侯生接巵在手,謂無忌曰:「臣乃夷門抱關吏也。公子枉駕下辱,久立市中,毫無怠色。又尊臣於諸貴之上,於臣似為過分。然所以為此,欲成公子下士之名耳!」諸貴客皆竊笑。席散,侯生遂為公子上客。侯生因薦朱亥之賢,無忌數往候見,朱亥絕不答拜。無忌亦不以為怪,其折節下士如此。今日孟嘗君至魏,獨依無忌,正合著古語:「同聲相應,同氣相求」八個字,自然情投意合。孟嘗君原與趙平原君公子勝交厚,因使無忌結交於趙勝。無忌將親姊嫁於平原君為夫人。於是魏趙通好,而孟嘗君居間為重。齊湣王自孟嘗君去後,益自驕矜,日夜謀代周為天子。時齊境多怪異:天雨血,方數百里,沾人衣,腥臭難當﹔又地坼數丈,泉水湧出﹔又有人當關而哭,但聞其聲,不見其形。由是百姓惶惶,朝不保夕。大夫狐咺陳舉先後進諫,且請召還孟嘗君。湣王怒而殺之,陳屍於通衢,以杜諫者。於是王蠋太史敫等,皆謝病棄職,歸隱鄉里。不知湣王如何結果,且看下回分解。

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