東周列國志第百零二回 華陰道で信陵君が蒙驁を破る/胡盧河で龐煖が劇辛を斬る (華陰道信陵敗蒙驁 胡盧河龐煖斬劇辛)
毛公・薛公の説得
- 話は続く。顔恩は信陵君に会うことができず、賓客も取り次いでくれず、まさにどうしようもない状態であった。ちょうど博打打ちの毛公と飲み物売りの薛公が信陵君を訪ねてきたので、顔恩は二人が信陵君の上客であることを知り、事情を泣いて訴えた。二公は「あなたはひとまず車を用意して待っておられよ、私たち二人が力を尽くして勧めてみよう」と言った。顔恩は「すべてお頼み申し上げる、すべてお頼み申し上げる」と言った。
- 二公は信陵君に会いに入って言った、「公子の車駕が間もなく本国へ戻られると聞き、私たち二人は特にお見送りにまいりました」と。信陵君は「そんなことがあろうか」と言った。二公は「秦の兵が魏を囲んで、事態は甚だ切迫しております。公子はお聞きになっていないのですか」と言った。信陵君は「聞いている。ただ無忌は魏を辞して十年になり、今はすでに趙人となっている。魏の事にあずかろうとは思わない」と言った。
- 二公は声を揃えて言った、「公子、それはどういうお言葉ですか。公子が趙で重んじられ、諸侯に名が聞こえるのは、ただ魏があるからにほかなりません。公子が士を養い、天下の賓客を招くことができるのも、また魏の力に頼っているのです。今、秦が魏を攻めることが日ましに急になっているのに、公子はこれを顧みようとなさいません。もし秦が一朝にして大梁を破り、先王の宗廟を平らげたら、公子はたとえ自分の家を思わずとも、まさか祖宗の祭祀を思わないのですか。公子は趙に寄食する顔目もなくなりましょう」と。
- 言い終わらぬうちに、信陵君ははっと立ち上がり、顔に汗を浮かべて謝って言った、「先生方の責めは全く正しい。無忌はもう少しで天下の罪人になるところであった」と。その日のうちに賓客に荷造りを命じ、自ら趙王のもとに参内して暇乞いをした。趙王は信陵君の帰国を惜しみ、その腕を握って泣いて言った、「寡人は平原君を失って以来、公子を頼りにして長城のようにしてきた。ひとたび寡人を捨てて去ってしまわれれば、寡人は誰と社稷を共にすればよいのか」と。信陵君は「無忌は先王の宗廟が秦に平らげられるのを忍びず、帰らざるを得ません。もし大王のご加護によって社稷が滅びなければ、なお相見える日もございましょう」と言った。趙王は「公子は先に魏の軍を率いて趙を存続させてくださった。今、公子が国難に赴かれるのに、寡人があえてすべての兵を分けて従わせないことがあろうか」と言い、上将軍の印を公子に授け、将軍龐煖を副将とし、趙の軍十万を起こしてこれを助けた。
- 信陵君はすでに趙軍を率いていたので、まず顔恩に帰らせて魏に報告させ、それから賓客を分遣して各国に書を送り救援を求めた。燕・韓・楚の三国はもともと信陵君の人品を重んじていたので、彼が将となったと聞いて喜ばぬ者はなく、みな大将を遣わして兵を率いて魏に至らせ、その指揮に従わせた。燕将将渠、韓将公孫嬰、楚将景陽である。ただ斉国だけは兵を発しなかった。
少華山の戦い、王齕を破る
- さて魏王はちょうど危急のさなかにあったが、顔恩が「信陵君が燕・趙・韓・楚の軍を兼ね率いて魏を救援に来る」と報告するのを得て、渇いた時に飲み物を得、火中で水を得たように、喜びを言葉に表せなかった。魏王は衛慶に国中の軍をすべて起こさせて公子に応じさせた。
- このとき蒙驁は郟州を囲み、王齕は華州を囲んでいた。信陵君は言った、「秦は私が将となったと聞けば、必ず急いで攻めてくるだろう。郟と華は東西に五百余里も離れている。私は軍で郟の蒙驁の軍を引きつけておき、奇兵を率いて華に赴く。もし王齕の軍が敗れれば、蒙驁もまた自らを保てなくなるだろう」と。将たちはみな「その通りだ」と言った。
- そこで衛慶に魏の軍と楚の軍を合わせさせ、連なる砦を築いて蒙驁を防がせ、偽って信陵君の旗号を掲げさせて、堅く守り戦わせなかった。そして自らは趙の軍十万と燕・韓の兵を率いて、星を追うように華州へ馳せた。
- 信陵君は諸将を集めて計った、「少華山は東は太華に連なり、西は渭河に臨んでいる。秦は水軍の船団で糧食を運び、船はみな渭水に泊まっている。少華山は木々が多く茨も多いので、伏兵を置くことができる。もし一軍を渭に往かせて糧食を奪えば、王齕は必ず全軍を挙げて救援に来るだろう。私は少華山に伏兵を置き、迎え撃てば、勝たないことはないだろう」と。
- そこで趙将龐煖に命じて一軍を率いて渭河に赴かせ、その糧船を奪わせた。韓将公孫嬰、燕将将渠にそれぞれ一軍を率いさせ、糧食を奪う軍の後詰めとして呼応するのだと公言させながら、実はただ少華山の左右で待ち伏せさせ、共に秦軍を攻めさせた。信陵君自ら精兵三万を率いて少華山の麓に伏せた。
- 龐煖の軍がまず出発すると、早くも道を見張っていた秦の兵がこれを王齕の陣営に報告した、「魏の信陵君が将となり、軍を渭口に直接遣わした」と。王齕は大いに驚いて言った、「信陵は用兵に長けている。今、華を救いに来ながら、正面から戦を交えず、渭口の糧を奪おうとしているのは、我らの根本を絶とうとしているのだ」と。そこで自ら救援に行くことにし、令を伝えた、「兵の半分は城の囲みに残し、残りはすべて私に従って渭を救援せよ」と。
- 少華山に近づくと、山中から一隊の大軍が現れ、「燕相国将渠」の旗を掲げていた。王齕は陣を構えて将渠と交戦した。数度も打ち合わぬうちに、また一隊の大軍が来た、「韓大将公孫嬰」の旗であった。王齕は急いで兵を分けて迎え撃った。兵士が報告した、「渭河の糧船は趙将龐煖に奪われました」と。王齕は言った、「事はここまで来た、ひとまず戦い続けるほかない。もし燕・趙の二軍を撃退できれば、それからまた策を考えよう」と。
- 三国の兵は入り乱れ、午から酉まで戦い続けても、まだ鉦を鳴らして退かなかった。信陵君は秦の兵がすでに疲れたと見計らい、伏兵を一斉に繰り出し、大声で叫んだ、「信陵君自ら兵を率いてここにあり。秦の将は早く降服せよ、刃を汚さずに済むぞ」と。王齕は戦に慣れた将であったが、この場に至っては三頭六臂もかなわず、どう支えることができようか。ましてや秦の兵は普段から信陵君の威名を聞いていたので、この場に至って肝を潰し、人々は命を惜しみ、それぞれが逃げ出した。王齕は大敗し、五万余の兵を失い、糧船もすべて失い、ただ残兵敗将を率いて路の南へ逃げ、臨潼関へと入って行った。信陵君は勝利した軍を率い、三隊に分けて郟州の救援に赴いた。
華陰の戦い、蒙驁を破り函谷関に迫る
- さて蒙驁は物見によって信陵君の軍が華州に向かったと知り、老弱の兵で陣営を作り、偽って「大将蒙」の旗を掲げて魏・楚の二軍と対峙させ、精鋭をすべて率いて、口に枚を含んで急ぎ進み、華州の道を望んで迎え、王齕と合流しようとしていた。ところがすでに信陵君は王齕を破って敗走させており、ちょうど華陰の地で出くわした。信陵君は自ら矢石を冒して先頭に立って敵を突き、左には公孫嬰、右には将渠がおり、双方から大いに一戦を繰り広げた。蒙驁は万余の兵を失い、鉦を鳴らして軍を収めた。
- そのまま本営を構え、軍馬を整頓し、再び死を決して戦おうとした。このとき魏将衛慶、楚将景陽は、蒙驁が軍中にいないと知り、老弱の秦の陣営を攻め破り、郟州の囲みを解いて、これもまた華陰の方角を望んで追撃してきた。ちょうど蒙驁が陣を構えて戦おうとしていたところに、両軍が挟み撃ちにした。蒙驁は勇猛であったが、五路の軍馬に腹背から攻められては、どうにもならず、また大敗を喫し、急いで西へと退いていった。
- 信陵君は諸軍を率いてまっすぐ函谷関の下まで追い、五国は五つの大営を関の前に構え、月余りにわたって関の前で威を耀かせた。秦の兵は関門を固く閉ざし、あえて出て応戦しなかった。信陵君はそれでようやく兵を引き上げた。各国の兵もみな解散して本国に帰った。史臣はこの事を論じ、信陵君の功はすべて毛公・薛公の功だとした。詩がある。(詩:城を囲む秦軍の囲みを解けたのは、合従がひとえに信陵君の帰国に頼ったからである。当時公子に帰国を勧めた功労者は、実は姓名を隠した二人の布衣であったと詠じる)
信陵君、上相として賞せられる
- 魏の安釐王は、信陵君が秦軍を大破して凱旋したと聞き、喜びに堪えず、城を出て三十里の所まで出迎えた。兄弟が別れて十年、今日再会し、悲喜こもごも、並んで車を進めて朝廷に戻った。功に応じて賞し、上相に拝して、さらに五城を加封し、国中の大小の政事はみな信陵君の決定に委ねた。朱亥が晋鄙を勝手に殺した罪を赦し、偏将として用いた。
- このとき信陵君の威名は天下に鳴り響き、各国はみな厚い幣を用意して信陵君に兵法を求めた。信陵君は賓客たちが平生に献じた書を纂め括り、二十一篇と陣図七巻を作り、名づけて『魏公子兵法』とした。
秦、信陵君を誘い出す計をめぐらす 朱亥の死
- さて蒙驁と王齕は敗兵をまとめ合流し、秦の荘襄王に謁見して奏上した、「魏公子無忌が五国を『合従』させ、兵は多く将は強く、それゆえ臣らは勝てませんでした。兵を損ない将を失い、罪は万死に値します」と。秦王は「卿らはしばしば戦功を立て、疆土を開拓してきた。今日の敗北は、衆寡が敵しなかったためであり、卿らの罪ではない」と言った。
- 剛成君蔡沢が進んで言った、「諸国が『合従』しているのは、ひとえに公子無忌がいるためです。今、王が使者を遣わして魏と修好を結び、無忌を秦に来させて面会させ、関に入るのを待って捕らえて殺せば、永く後患を絶つことができます、なんと美事ではないですか」と。
- 秦王はその計を用い、使者を魏に遣わして修好を求め、あわせて信陵君を招いた。馮驩は言った、「孟嘗君・平原君も、みな秦に羈束されたが、幸いにも免れました。公子は同じ轍を再び踏んではなりません」と。信陵君もまた行くことを望まず、魏王に言い、朱亥を使者として玉璧一対を捧げさせ、秦の招きに応じられぬことを詫びさせた。
- 秦王は信陵君が来なかったので、その計が行われないと知り、心中大いに怒った。蒙驁が密かに秦王に奏上した、「魏の使者朱亥は、まさに晋鄙を鎚で打ち殺した人物です。これは魏の勇士ですから、留めて秦のために用いるべきです」と。秦王は朱亥に官職を授けようとしたが、朱亥は固く辞退して受けなかった。秦王はますます怒り、左右に朱亥を虎の檻に入れさせた。檻には斑紋の大虎がいて、人を見ると前に飛びかかろうとした。朱亥は大喝一声、「畜生、何の無礼か」と言い、両の瞳を見開いた。それは血の盃のようで、目尻はことごとく裂け、迸る血が虎に飛び散った。虎は蹲って股を震わせ、しばらく動くことができなかった。左右はそこで朱亥を檻から引き出した。
- 秦王は嘆いて言った、「烏獲・任鄙も、これを超えるものではない。もし魏に帰したら、信陵君に翼を添えるようなものだ」と。ますます降服を迫った。亥は従わなかった。宿駅に拘留させ、飲食を絶たせた。朱亥は「私は信陵君の知遇を受けた、死をもって報いるべきだ」と言い、頭を柱にぶつけたが、柱は折れても頭は割れなかった。そこで自ら手を己の喉に突き入れ、咽喉を引きちぎって死んだ。まことに義士であった。
秦、太子増を使って反間の計を行う
- 秦王は朱亥を殺した後、また群臣に謀って言った、「朱亥は死んだが、信陵君は依然として権を用いている。寡人はその君臣を離間させたいと思うが、諸卿に何かよい策はないか」と。剛成君蔡沢は進んで言った、「昔、信陵君は符を盗んで趙を救い、魏王に罪を得て、魏王は彼を趙に捨て置き、会見を許しませんでした。その後、秦の兵の包囲が切迫したため、やむを得ず彼を召しました。四国を結び合わせて大功を成しましたが、しかし信陵君には主を脅かす懸念があり、魏王にどうして疑い嫌う気持ちがないでしょうか。信陵君は晋鄙を鎚で殺しました。鄙の死後、その一族・賓客の恨みは必ず深いでしょう。大王がもし黄金万斤を投じ、密かに間者を魏に遣わし、晋鄙の一党を探し出し、多くの金をもって流言を広めさせ、『諸侯は信陵君の威を畏れ、みな彼を魏王に奉ろうとしている。信陵君は遠からず簒奪の事を行うだろう』と言わせれば、そうなれば魏王は必ず無忌を疎んじてその権を奪うでしょう。信陵君が用いられなくなれば、天下の諸侯もみな結束が解けます。私たちはそれによって兵を用いれば、何ら難しいことはございません」と。
- 秦王は言った、「卿の計は甚だ善い。しかし魏はすでに我が軍を敗ったが、その太子増はなお我が国に人質としている。寡人は彼を囚えて殺し、この恨みを晴らそうと思うが、どうだろうか」と。蔡沢は答えて言った、「太子を一人殺せば、また一人立てるだけです。魏に何の損もありません。むしろ太子を利用して魏への反間の役に立てるべきです」と。秦王は大いに悟り、太子増を厚遇した。
- 一面、密かに間者に万金を持たせて魏国に遣わして事を運ばせ、一面、その賓客たちをみな太子増と親しく往来させ、そして密かに太子に告げさせた、「信陵君は外に十年おり、諸侯と交わりを結び、諸侯の将相はみな彼を敬い且つ憚っております。今、魏の大将となり、諸侯の兵はみな彼に属し、天下はただ信陵君がいることを知るのみで、魏王がいることを知りません。たとえ我が秦国でさえ、信陵君の威を畏れ、彼を王に立てて連和しようとしております。もし信陵君が立てば、必ず秦に太子を殺させて民望を絶とうとするでしょう。そうでなくとも、太子はいずれ秦で年老いて亡くなられることになるでしょう。どうしましょうか」と。
- 太子増は涙を流して計を求めた。客は言った、「秦はまさに魏と通好しようとしています。太子はなぜ一書を魏王に送り、太子を帰国させるよう請わせないのですか」と。太子増は「たとえ請うたとしても、秦がどうして私を釈放して帰らせるだろうか」と言った。客は「秦王が信陵君を奉じようとしているのは、その本意ではなく、ただ彼を畏れているだけです。もし太子が国を挙げて秦に事えることを願うなら、まさに秦の願うところです。どうして請うて聞き入れられないことがありましょうか」と言った。
- 太子増はそこで密書をしたため、書中に諸侯が信陵君に心を寄せていること、秦もまた彼を王に立てようとしていることなどを詳しく述べ、後に自らの帰国を求める意を述べ、書を客に付け、密かに魏王に届けるよう託した。そこで秦王は書を二封したためた。一封は魏王に朱亥の亡骸を送り返し、病死したと偽って伝えるもの、もう一封は信陵君を祝賀するもので、他に金幣などの品も添えた。
魏王、信陵君を疑い、信陵君は憂憤す
- さて魏王は晋鄙の賓客が流言を広めたことで、すでに心中疑っていた。秦の使者が国書を捧げて来て、魏と兵を止めて修好しようとし、その来意を尋ねると、みな信陵を敬慕する言葉であり、さらに太子増からの家信を受け取ったので、心中ますます疑惑が深まった。使者はさらに書と幣を信陵君の府に届け、わざとその内容を漏らして魏王に聞かせた。
- さて信陵君は秦の使者が講和を求めていると聞き、賓客に言った、「秦は戦の事もないのに、何を魏に求めているのか。これには必ず策略がある」と。言い終わらぬうちに、門番が秦の使者が門にいると報告した、「秦王もまた祝賀の書がございます」と。信陵君は「人臣の義として私交はない、秦王の書状と贈り物は無忌はあえて受け取らない」と言った。使者は再三秦王の意を伝えたが、信陵君も再三これを断った。
- ちょうど魏王が使者を遣わして来て、秦王の書を見たいと求めた。信陵君は「魏王がすでに書があることを知っている以上、もし私が受け取らないと言えば、必ず信じられまい」と言い、そこで車を命じて秦王の書状と贈り物を、開封せずそのまま魏王に送り、「臣はすでに再三これを辞退しましたが、あえて開封しませんでした。今、王がお取り寄せになってご覧になるとの仰せを蒙りましたので、やむを得ず差し上げます。ただご処置をお委ねするのみです」と言った。魏王は「書中には必ず事情があるだろう、開けねば分からぬ」と言い、書を開いて見た。おおよそこう書かれていた。「公子の威名は天下に広まり、天下の侯王で公子に心を傾けない者はございません。近いうちに正しく君主の位につかれ、諸侯の領袖となられることでしょう。ただ魏王が位をお譲りになるのがいつになるか分かりませんが、首を長くしてそれを望んでおります。粗末な品ではございますが、あらかじめ祝賀の心を示させていただきます。どうか公子には咎めなきよう」と。
- 魏王は読み終わると信陵君に渡して見せた。信陵君は奏上して言った、「秦人は詐りが多く、この書は我が君臣を離間させようとするものです。臣がこれを受け取らないのは、まさに書中に何が書かれているか分からず、その術中に落ちるのを恐れたからです」と。魏王は「公子にそのような心がないのなら、寡人の面前で返書をしたためられよ」と言った。すぐに左右に紙筆を取らせ、信陵君に返書を書かせた。おおよそこう書かれていた。「無忌はわが君の並外れたご恩を受け、身を粉にしても報いがたく、君主の位という言葉は、臣下に告げるべき言葉ではございません。大王よりかたじけなくもお贈り物を賜りましたが、死をも顧みずお断り申し上げます」と。
- 書を秦の使者に渡し、あわせて金幣も持ち帰らせた。魏王もまた使者を秦に遣わして礼を述べ、あわせて言った、「わが君は年老いて、太子増の帰国を願っております」と。秦王はこれを許した。太子増はすでに魏に帰り、また信陵は専任すべきでないと言った。信陵君は心に恥じるところはなかったが、王の心中のわだかまりを察し、終始晴れなかったので、そこで病と称して朝に出ず、宰相の印と出兵の割符をすべて魏王に返上し、賓客と長夜の酒宴に興じ、多くの婦女を近づけ、日夜楽しみに耽り、ただ楽しみ尽くせぬことだけを恐れるかのようであった。史臣に詩がある。(詩:俠気は今古に凌ぎ、威名は鬼神を動かし、一身で趙・魏を全うし百戦して秦を退けた。国を支える礎石のような功臣であったのに、犬の吠えるような讒言が浴びせられ、その英雄も用いられる場を失って、今や酒色に耽って残りの春を空しく過ごしていると、その落差を嘆いた内容)
秦荘襄王の死と秦王政の即位
- さて秦の荘襄王は在位三年、病を得た。丞相呂不韋は入って病を見舞った。そこで内侍に密書を持たせ、王后に密かに送り、往日の誓いを追い起こさせた。后はもとの情がまだ絶えていなかったので、不韋を召して密通した。不韋は薬を王に進めたが、王は病んで一月にして薨じた。
- 不韋は太子政を助けて即位させた。このとき年はわずか十三歳であった。荘襄后を太后として尊び、王の同母の弟成嶠を長安君に封じ、国事はすべて不韋の決するところとなり、太公に准じて尚父と号された。不韋の父が死んだ時、四方の諸侯・賓客で弔問する者が市のように群がり、車馬が道を塞ぐほどであり、秦王の喪を見るよりもさらに盛んであった。まさに「権は中外を傾け、威は諸侯を振るう」という状態であった。この件はしばらく置く。
秦の趙・韓攻めと王齕の戦死 廉頗の失脚
- 秦王政元年、呂不韋は信陵君が退けられて実権を失ったと知り、ようやく再び用兵を議した。大将蒙驁を遣わして張唐とともに趙を討たせ、晋陽を攻め下した。三年、再び蒙驁を王齕とともに遣わして韓を攻めさせ、韓は公孫嬰にこれを防がせた。王齕は言った、「私は一度趙に敗れ、再び魏に敗れた。秦王の赦しを蒙って誅されなかった。この度は死をもって報いよう」と。そこで自らの私兵千人を率い、まっすぐ韓の陣営に攻め込み、齕は力戦して死んだ。韓の兵は乱れ、蒙驁はこれに乗じて韓軍を大破し、公孫嬰を殺し、韓の十二城を取って帰った。
- 信陵君が廃されて以来、趙・魏の好誼も絶えた。趙の孝成王は廉頗に魏を討たせ、繁陽を囲んだが落とせぬうちに、孝成王が薨じた。太子偃が跡を継いだ、これが悼襄王である。時に廉頗はすでに繁陽を落としており、勝ちに乗じてさらに進もうとしていた。しかし大夫郭開は、普段から諂い佞じて廉頗に憎まれており、しばしば宴席で面と向かって叱られていた。郭開は恨みを心に含み、悼襄王に讒言して言った、「廉頗はすでに老い、事を任せるに堪えません。魏を討って久しく功がありません」と。そこで武襄君楽乗を遣わして廉頗に代えさせた。
- 廉頗は怒って言った、「私は恵文王に仕えて将となってより、今に至るまで四十余年、一度も挫折したことがない。楽乗は何者か、私に代われるものか」と言い、そのまま兵を率いて楽乗を攻めた。乗は恐れて国に逃げ帰った。廉頗はそのまま魏に逃げ、魏王は客将として尊んだが、疑って用いなかった。廉頗はこうして大梁に居住することとなった。
信陵君の死と秦の東郡設置 燕、劇辛を将として趙を攻める
- 秦王政四年、十月、蝗虫が東方から来て天を蔽い、穀物は収穫できず、疫病が大いに起こった。呂不韋は賓客と議して、民衆で粟千石を納めた者には爵位一級を授けることとした。後世の納粟の慣例は、これより起こった。
- この年、魏の信陵君は酒色に傷つき、病を得て死んだ。馮驩は泣き悲しむことが度を越し、そのまま同じく死に、賓客で自ら首を刎ねて殉じた者は百余人に及んだ。信陵君がいかに士の心を得ていたかがよく分かる。翌年、魏の安釐王もまた薨じ、太子増が跡を継いだ、これが景湣王である。
- 秦は魏が新たに君を喪い、また信陵君もすでに死んだと知り、敗戦の報復を思い、大将蒙驁を遣わして魏を攻め、酸棗など二十城を落とし、東郡を置いた。まもなくまた朝歌を落とし、さらに濮陽を攻め落とした。衛の元君は魏王の婿であったが、東に逃げて野王に至り、山を頼みにして住んだ。
- 景湣王は嘆いて言った、「もし信陵君がなお生きておられれば、秦の兵をこのように縦横させることはなかったろうに」と。そこで使者を趙に遣わして通好した。趙の悼襄王もまた秦の侵伐が止まないのを患い、まさに人を遣わして列国に呼びかけ、信陵君・平原君の二君の「合従」の約を改めて結び直そうとしていた。
- 忽然、辺境の官吏が報告した、「今、燕国が劇辛を大将に拝し、兵十万を率いて北の国境を犯している」と。この劇辛はもとは趙人であり、先に趙にいたとき、もとから龐煖と交わりがあった。その後、龐煖は趙に仕え、劇辛は燕の昭王のもとに走り、昭王に用いられて薊郡守となった。燕王喜が趙将廉頗に都城を包囲された際、将渠の講和によって難を逃れたが、それを深く恥辱と感じていた。将渠が燕相となったのは、もとより趙人の命によるものであって、燕王の意ではなく、信陵君を助けて秦と戦って功があったとはいえ、結局君臣の間で十分な信頼はなかった。将渠は相となって一年余りで、病と称して印綬を返した。燕王はそこで劇辛を薊から召し、相国に用い、共に趙への報復を図ろうとしたが、廉頗を心中憚って、あえて動けなかった。
- 今、廉頗はすでに魏に逃げ、龐煖が将となっているので、劇辛は彼を頗る軽んじ、燕王の意に迎合して奏上した、「龐煖は凡庸な人材で、廉頗の比ではありません。しかも秦の兵はすでに晋陽を落とし、趙人は疲弊しています。この隙に乗じて攻めれば、栗腹の恥を雪ぐことができましょう」と。燕王は大いに喜び、「寡人にもまさにその意があった、相国は寡人のために一度行ってくれるか」と言った。劇辛は「臣は地の利をよく知っております。もしお任せいただければ、必ず龐煖を生け捕りにして大王の御前に献上いたします」と言った。燕王は大いに喜び、劇辛に兵十万を率いさせて趙を討たせた。
- 趙王はこれを聞き、すぐに龐煖を召して計った。煖は言った、「劇辛は自ら老練な将であることに頼み、必ず敵を軽んじる心があるでしょう。今、李牧は代郡を守っておりますが、軍を南下させ、慶都の一路より進ませ、彼の後方を断たせます。臣は一軍で迎え撃ちます。そうすれば彼は腹背から敵を受け、生け捕りにできましょう」と。趙王はこの計に従った。
龐煖、劇辛を破る
- さて劇辛は易水を渡り、中山を経由する道を取って、まっすぐ常山の地界を犯し、兵勢は甚だ鋭かった。龐煖は大軍を東垣に屯し、溝を深くし塁を高くして、劇辛の来るのを待った。劇辛は「我が軍は深く入り込んでいる。もし彼が壁を堅くして戦わなければ、功を成す日はないだろう」と言い、配下の者たちに問うた、「誰か戦を挑む者はいるか」と。驍将の栗元は栗腹の子であり、父の仇を報いたいと欣然として願い出た。劇辛は「もう一人助けがいてこそよかろう」と言った。末将武陽靖が願い出た。劇辛は精鋭の兵一万を与え、趙の軍に攻めかからせた。
- 龐煖は楽乗・楽閒に両翼を張らせて待ち構え、自ら軍を率いて迎え戦った。両軍が交戦して約二十余合、砲声一発とともに両翼が並んで進み、みな強い弓と強力な弩を用いて燕軍に乱射した。武陽靖は矢に当たって死んだ。栗元は支えきれず、車を返して逃げた。龐煖は二将とともに背後から不意に襲いかかって斬り、一万の精鋭は三千余を失った。
- 劇辛は大いに怒り、急いで大軍を催し、自ら後詰めとして呼応し出撃した。しかし龐煖はすでに自ら陣営へ帰っていた。劇辛は塁を攻めても破ることができず、そこで人を遣わして書を下し、翌日陣前で車一台だけで相見えることを約束した。龐煖はこれを承諾し、両軍ともにそれぞれ準備した。
- 翌日、両軍は陣を構え、「不意打ちの矢を射かけてはならない」と命じた。龐煖はまず一台の車に乗って陣前に立ち、劇将軍に面会を請うた。劇辛もまた一台の車に乗って出てきた。龐煖は車中で身をかがめて言った、「歯や髪がまだご無事で何よりです」と。劇辛は言った、「思えば昔、君と別れて趙を去ってから、いつしか四十余年、それがしはすでに老い衰え、君もまた顔に皺が寄っている。人生は白駒が隙間を過ぎるがごとし、まことにその通りだ」と。
- 龐煖は言った、「将軍はかつて昭王の士を礼遇する姿に、趙を捨てて燕に赴かれ、一時は豪傑が集まり、雲が竜に従い風が虎に従うようであった。今、金台は草に埋もれ、無終の墓木もすでに両手で抱えるほどに育ち、蘇代・鄒衍も相次いで世を去り、昌国君もまた我が国に帰った。燕の気運も推し量れよう。老将軍は年すでに六十を過ぎ、衰えた王の朝廷に孤立しながら、なお兵権に恋々とし、危険な武器を持って危うい事を行おうとしているのは、いったい何のためか」と言った。
- 劇辛は「それがしは燕王三代の厚恩を受け、粉骨も報い難い。この余生をもって国家のために栗腹の恥を雪ぎたい」と言った。龐煖は「栗腹が理由なく我が鄗邑を攻めたことで、自ら敗北を招いたのだ。これは燕が趙を犯したのであって、趙が燕を犯したのではない」と言った。両者は陣前で繰り返し応酬したが、龐煖は突然大声で叫んだ、「劇辛の首を取った者には賞三百金を与える」と。劇辛は「貴殿はなぜ私をそこまで軽んじるのか。私が君の首を取れないと思うか」と言った。龐煖は「命を主に受けている以上、それぞれが力を尽くすまでのことだ」と言った。
- 劇辛は大いに怒り、令旗を振ると、栗元が軍を率いて突き出した。こちらでは楽乗・楽閒が、二輌の戦車で迎え撃ち、燕軍は次第に不利になった。劇辛が軍を大いに進めると、龐煖もまた大軍で迎え撃った。両軍は入り乱れて激戦し、燕軍は趙よりも損失がさらに多く、日が暮れてそれぞれ鉦を鳴らして兵を収めた。
- 劇辛は陣営に帰り、機嫌が悪かった。軍を引こうにも、燕王の前で大口を叩いてしまった手前引くに引けず、引かないでいても勝ちを収められない。まさに躊躇していたところ、守営の兵士が報告した、「趙国から書を届ける使者が、陣営の門の外におります、あえて勝手に入れておりません」と。劇辛は書を取り寄せた。その書は幾重にも厳重に封をしてあった。開いて見ると、おおよそこう書かれていた。「代州守李牧が、軍を率いて督亢を襲い、君の退路を断とうとしている。君は速やかに帰られよ、さもなくば手遅れになろう。それがしは昔日の交情ゆえ、あえて告げずにはいられなかった」と。
- 劇辛は言った、「龐煖は我が軍心を揺さぶろうとしているだけだ。たとえ李牧の軍が来ようとも、私は何を恐れることがあろうか」と言い、書を使者に持ち帰らせ、明日改めて死を決して戦うことにした。趙の使者が去った後、栗元が進んで言った、「龐煖の言葉は、信じないわけにはいきません。もし万一李牧が本当に軍を率いて我らの後方を襲い、腹背から敵を受ければ、どう対処されるのですか」と。劇辛は笑って言った、「私もそこまでは考えていた。先ほど言ったのは軍心を落ち着かせるためだ。お前は今、密かに軍令を伝え、陣営を虚しく見せかけたまま、夜のうちに撤退させよ。私自ら殿を務め、追撃を防ごう」と。栗元は計を受けて去った。
- ところが龐煖は燕の陣営が虚しく設けられているのを探知し、楽乗・楽閒とともに三手に分かれて追撃してきた。劇辛は戦いながら退き、龍泉河まで来たとき、物見が報告した、「前方に旌旗が道を塞いでおり、代郡の軍馬らしいです」と。劇辛は大いに驚いて言った、「龐煖は果たして私を欺いていなかった」と言い、そこで北進をあえてせず、軍を東に向け、阜城を取ろうとして、そのまま遼陽の方へ逃れようとした。
- 龐煖が追いつき、胡盧河で大戦した。劇辛の軍は敗れ、嘆いて言った、「私はどんな面目で趙の捕虜になどなれようか」と言い、自ら首を刎ねて死んだ。これは燕王喜の十三年、秦王政の五年のことである。髯翁に詩がある。(詩:黄金台の招きに応じて意気軒昂と馳せ参じ、ともに昭王を翼けてもとの領土を回復したが、あの昌国君=楽毅の功名も今はどこにあろうか。劇辛はただ白髪の身一つで戦場に果てたと嘆いた内容)
- 栗元は楽閒に捕らえられて斬られた。獲得した首級は二万余、残りはみな潰走し、あるいは降り、趙軍は大勝した。龐煖は李牧と合流し、ともに進撃して武遂・方城の地を取った。燕王は自ら将渠の門を訪れ、使者となってもらい、罪を伏して和を乞うよう求めた。龐煖は将渠の顔を立て、兵を引き上げて凱旋した。李牧はそのまま代郡を守った。
- 趙の悼襄王は郊外まで出て龐煖を出迎え、これを労って言った、「将軍の武勇はかくのごとし、廉頗・藺相如がなお趙にいるかのようだ」と。龐煖は言った、「燕人はすでに服しました。この機に乗じて列国と『合従』し、力を合わせて秦を図るべきです、そうしてこそ憂いのないことを保てましょう」と。「合従」の事がどうなるか、それは次回を見て解かれよう。
原文(底本)
話說顏恩欲見信陵君不得,賓客不肯為通,正無奈何。適博徒毛公和賣漿薛公來訪公子,顏恩知為信陵君上客,泣訴其事。二公曰:「君第戒車,我二人當力勸之。」顏恩曰:「全仗,全仗!」二公入見信陵君曰:「聞公子車駕將返宗邦,吾二人特來奉送。」信陵君曰:「那有此事?」二公曰:「秦兵圍魏甚急,公子不聞乎?」信陵君曰:「聞之。但無忌辭魏十年,今已為趙人,不敢與聞魏事矣。」二公齊聲曰:「公子,是何言也!公子所以重於趙,名聞於諸侯者,徒以有魏也。即公子之能養士,致天下賓客者,亦藉魏力也。今秦攻魏日急,而公子不恤;設使秦一旦破大梁,夷先王之宗廟,公子縱不念其家,獨不念祖宗之血食乎?公子復何面目寄食於趙也?」言未畢,信陵君蹴然起立,面發汗,謝曰:「先生責無忌甚正!無忌幾為天下罪人矣。」即日命賓客束裝,自入朝往辭趙王。趙王不捨信陵君歸去,持其臂而泣曰:「寡人自失平原,倚公子如長城,一朝棄寡人而去,寡人誰與共社稷耶?」信陵君曰:「無忌不忍先王宗廟見夷於秦,不得不歸。倘邀君之福,社稷不泯,尚有相見之日。」趙王曰:「公子向以魏師存趙,今公子歸赴國難,寡人敢不悉賦以從!」乃以上將軍印,授公子,使將軍龐煖為副,起趙軍十萬助之。信陵君既將趙軍,先使顏恩歸魏報信,然後分遣賓客,致書於各國求救。燕、韓、楚三國,俱素重信陵之人品,聞其為將,莫不喜歡,悉遣大將引兵至魏,聽其節制。燕將將渠,韓將公孫嬰,楚將景陽,惟齊國不肯發兵。 卻說魏王正在危急,得顏恩報說:「信陵君兼將燕、趙、韓、楚之師,前來救魏。」魏王如渴時得漿,火中得水,喜不可言。使衛慶悉起國中之師,出應公子。時蒙驁圍郟州,王齕圍華州,信陵君曰:「秦聞吾為將,必急攻。郟華東西相距五百餘里,吾以兵綴蒙驁之兵於郟,而率奇兵赴華。若王齕兵敗,則蒙驁亦不能自固矣。」眾將皆曰:「然。」乃使衛慶以魏師合楚師,築為連壘,以拒蒙驁。虛插信陵君旗號,堅壁勿戰。而身帥趙師十萬,與燕韓之兵,星馳華州。信陵君集諸將計議曰:「少華山東連太華,西臨渭河,秦以舟師運糧,俱泊渭水,而少華木多荊,可以伏兵。若以一軍往渭劫糧,王齕必悉兵來救,吾伏兵於少華,邀而擊之,無不勝矣。」即命趙將龐煖,引一支軍往渭河,劫其糧艘。使韓將公孫嬰,燕將將渠,各引一支軍,聲言接應劫糧之兵,只在少華山左右伺候,共擊秦軍。信陵君親率精兵三萬,伏於少華山下。龐煖引軍先發,早有伏路秦兵,報入王齕營中,言:「魏信陵君為將,遣兵逕往渭口。」王齕大驚曰:「信陵善於用兵,今救華,不接戰,而劫渭口之糧,是欲絕我根本也!吾當親往救之。」遂傳令:「留兵一半圍城,餘者悉隨吾救渭。」將近少華山,山中閃出一隊大軍,打著「燕相國將渠」旗號。王齕傳令列成陣勢,便接住將渠交鋒。戰不數合,又是一隊大軍到來,打著「韓大將公孫嬰」旗號,王齕急分兵迎敵。軍士報道:「渭河糧船,被趙將龐煖所劫。」王齕道:「事已如此,且只顧廝殺,若殺退燕趙二軍,又作計較。」三國之兵,攪做一團,自午至酉,尚未鳴金。信陵君度秦兵已疲,引伏兵一齊殺出,大叫:「信陵君親自領兵在此!秦將早早來降,免污刀斧!」王齕雖是個慣戰之將,到此沒有三頭六臂,如何支持得來?況秦兵素聞信陵君威名,到此心膽俱裂,人人惜命,個個奔逃。王齕大敗,折兵五萬有餘,又盡喪其糧船,只得引殘兵敗將,向路南而遁,進臨潼關去訖。信陵君引得勝之兵,仍分三隊,來救郟州。 卻說蒙驁諜探信陵君兵往華州,乃將老弱立營,虛建「大將蒙」旗幟,與魏楚二軍相持;盡驅精銳,銜枚疾走,望華州一路迎來,指望與王齕合兵。誰知信陵君已破走了王齕,恰好在華陰界上相遇。信陵君親冒矢石,當先衝敵。左有公孫嬰,右有將渠,兩下大殺一陣。蒙驁折兵萬餘,鳴金收軍。當下札住大寨,整頓軍馬,打點再決死敵。這邊魏將衛慶,楚將景陽,探知蒙驁不在軍中,攻破秦營老弱,解了郟州之圍,也望華陰一路追襲而來。正遇蒙驁列陣將戰,兩下夾攻,蒙驁雖勇,怎當得五路軍馬,腹背受敵,又大折一陣,急急望西退走。信陵君率諸軍,直追至函谷關下,五國札下五個大營,在關前揚威耀武。如此月餘,秦兵緊閉關門,不敢出應。信陵君方纔班師。各國之兵,亦皆散回本國。史臣論此事,以為信陵君之功,皆毛公薛公之功也!有詩云: 兵馬臨城孰解圍?合從全仗信陵歸。當時勸駕誰人力?卻是埋名兩布衣。 魏安釐王聞信陵君大破秦軍,奏凱而回,不勝之喜,出城三十里迎接。兄弟別了十年,今日相逢,悲喜交集,乃並駕回朝。論功行賞,拜為上相,益封五城,國中大小政事,皆決於信陵君。赦朱亥擅殺晉鄙之罪,用為偏將。此時信陵君之威名,震動天下,各國皆具厚幣,求信陵君兵法。信陵君將賓客平日所進之書,纂括為二十一篇,陣圖七卷,名曰《魏公子兵法》。 卻說蒙驁與王齕領著敗兵,合做一處,來見秦莊襄王,奏曰:「魏公子無忌,『合從』五國,兵多將廣,所以臣等不能取勝。損兵折將,罪該萬死!」秦王曰:「卿等屢立戰功,開疆拓土,今日之敗,乃是眾寡不敵,非卿等之罪也。」剛成君蔡澤進曰:「諸國所以『合從』者,徒以公子無忌之故。今王遣一使修好於魏,且請無忌至秦面會,俟其入關,即執而殺之,永絕後患,豈不美哉!」秦王用其謀,遣使至魏修好,并請信陵君。馮驩曰:「孟嘗平原,皆為秦所羈,幸而得免,公子不可復蹈其轍。」信陵君亦不願行,言於魏王,使朱亥為使,奉璧一雙以謝秦。秦王見信陵君不至,其計不行,心中大怒。蒙驁密奏秦王曰:「魏使者朱亥,即鎚擊晉鄙之人也。此魏之勇士,宜留為秦用。」秦王欲封朱亥官職,朱亥堅辭不受。秦王益怒。令左右引朱亥置虎圈中。圈有斑斕大虎,見人來即欲前攫。朱亥大喝一聲:「畜生何敢無禮!」迸開雙睛,如兩個血盞,目眥盡裂,迸血濺虎。虎蹲伏股慄,良久不敢動。左右乃復引出。秦王嘆曰:「烏獲任鄙,不是過矣!若放之歸魏,是與信陵君添翼也。」愈欲迫降之。亥不從。命拘於驛舍,絕其飲食。朱亥曰:「吾受信陵君知遇,當以死報之!」乃以頭觸屋柱,柱折而頭不破。於是以手自探其喉,絕咽而死,真義士哉! 秦王既殺朱亥,復謀於群臣曰:「朱亥雖死,信陵君用事如故,寡人意欲離間其君臣,諸卿有何良策?」剛成君蔡澤進曰:「昔信陵君竊符救趙,得罪魏王,魏王棄之於趙,不許相見。後因秦兵圍急,不得已而召之。雖然糾連四國,得成大功,然信陵君有震主之嫌,魏王豈無疑忌之意?信陵君鎚殺晉鄙,鄙死,宗族賓客,懷恨必深。大王若捐金萬斤,密遣細作至魏,訪求晉鄙之黨,奉以多金,使之布散流言,言:『諸侯畏信陵君之威,皆欲奉之為魏王,信陵君不日將行篡奪之事。』如此,則魏王必疏無忌而奪其權。信陵君不用事,天下諸侯,亦皆解體。吾因而用兵,無足為吾難矣。」秦王曰:「卿計甚善!然魏既敗吾軍,其太子增猶質吾國,寡人欲囚而殺之,以洩吾恨,何如?」蔡澤對曰:「殺一太子,彼復立一太子,何損於魏?不若借太子使為反間於魏。」秦王大悟,待太子增加厚。一面遣細作持萬金往魏國行事;一面使其賓客皆與太子增往來相善,因而密告太子曰:「信陵君在外十年,交結諸侯,諸侯之將相,莫不敬且憚之,今為魏大將,諸侯兵皆屬焉,天下但知有信陵君,不知有魏王也。雖吾秦國,亦畏信陵君之威,欲立為王,與之連和。信陵君若立,必使秦殺太子,以絕民望。即不然,太子亦將終老於秦矣。奈何!」太子增涕泣求計。客曰:「秦方欲與魏通和,太子何不致一書於魏王,使其請太子歸國?」太子增曰:「雖請之,秦安肯釋我而歸耶?」客曰:「秦王之欲奉信陵,非其本意,特畏之耳。若太子願以國事秦,固秦之願也,何患請而不從哉?」太子增乃為密書,書中備言諸侯歸心信陵,秦亦欲擁立為王等語,後乃敘己求歸之意,將書付客,託以密致魏王。於是秦王乃修書二封,一封致魏王歸朱亥之喪,託言病死;一封奉賀信陵君,另有金幣等物。 卻說魏王因晉鄙賓客布散流言,固已心疑。及秦使捧國書來,欲與魏息兵修好,叩其來意,都是敬慕信陵之語,又接得太子增家信,心中愈加疑惑。使者再將書幣,送信陵府中,故意洩漏其語,使魏王聞之。卻說信陵君聞秦使講和,謂賓客曰:「秦非有兵戎之事,何求於魏?此必有計!」言未畢,閽人報秦使者在門,言:「秦王亦有書奉賀。」信陵君曰:「人臣義無私交,秦王之書幣,無忌不敢受。」使者再三致秦王之意,信陵君亦再三卻之。恰好魏王遣使來到,要取秦王書來看。信陵君曰:「魏王既知有書,若說吾不受,必不肯信。」遂命駕車將秦王書幣,原封不動,送上魏王,言:「臣已再三辭之,不敢啟封。今蒙王取覽,只得呈上,但憑裁處!」魏王曰:「書中必有情節,不啟不明。」乃發書觀之,略曰: 公子威名,播於天下,天下侯王,莫不傾心於公子者。指日當正位南面,為諸侯領袖;但不知魏王讓位當在何日?引領望之!不腆之賦,預布賀忱,惟公子勿罪! 魏王覽畢,付與信陵君觀看。信陵君奏曰:「秦人多詐,此書乃離間我君臣,臣所以不受者,正慮書中不知何語,恐墮其術中耳。」魏王曰:「公子既無此心,便可於寡人面前,作書復之。」即命左右取紙筆,付信陵君作回書。略云: 無忌受寡君不世之恩,糜首莫酬,南面之語,非所以訓人臣也。蒙君辱貺,昧死以辭! 書付秦使,并金幣帶回。魏王亦遣使謝秦,并言:「寡君年老,欲請太子增回國。」秦王許之。太子增既回魏,復言信陵不可專任。信陵君雖則於心無愧,度王心中芥蔕,終未釋然,遂託病不朝,將相印兵符,俱繳還魏王,與賓客為長夜之飲,多近婦女,日夜為樂,惟恐不及。史臣有詩云: 俠氣凌今古,威名動鬼神;一身全趙魏,百戰卻嬴秦。鎮國同堅礎,危詞似吠狺;英雄無用處,酒色了殘春。 再說秦莊襄王在位三年,得疾,丞相呂不韋入問疾。因使內侍以緘書密致王后,追述往日之誓。后舊情未斷,遂召不韋與之私通。不韋以醫藥進王,王病一月而薨。不韋扶太子政即位,此時年僅一十三歲。尊莊襄后為太后,封其母弟成嶠為長安君,國事皆決於不韋,比於太公,號為尚父。不韋父死,四方諸侯賓客,弔者如市,車馬填塞道路,視秦王之喪,愈加眾盛。正是「權傾中外,威振諸侯」。不在話下。 秦王政元年,呂不韋知信陵君退廢,始復議用兵。使大將蒙驁,同張唐伐趙,攻下晉陽。三年,再遣蒙驁同王齕攻韓,韓使公孫嬰拒之。王齕曰:「吾一敗於趙,再拜於魏,蒙秦王赦而不誅,此行當以死報!」遂帥其私屬千人,直犯韓營,齕力戰而死。韓兵亂,蒙驁乘之,大敗韓師,殺公孫嬰,取韓十二城以歸。自信陵君廢,而趙魏之好亦絕。趙孝成王使廉頗伐魏,圍繁陽,未克,而孝成王薨。太子偃嗣立,是為悼襄王。時廉頗已克繁陽,乘勝進取。而大夫郭開,素以諂佞為廉頗所嫉,常因侍宴面叱之。郭開銜怨在心,譖於悼襄王,言:「廉頗已老,不任事,伐魏久而無功。」乃使武襄君樂乘,往代廉頗。廉頗怒曰:「吾自事惠文王為將,於今四十餘年,未有挫失,樂乘何人,而能代我?」遂勒兵攻乘,乘懼走歸國。廉頗遂奔魏,魏王雖尊為客將,疑而不用。廉頗由是遂居大梁。 秦王政四年,十月,蝗蟲從東方來,蔽天,禾嫁不收,疫病大作。呂不韋與賓客議令百姓納粟千石,拜爵一級。後世納粟之例,自此而起。是年,魏信陵君傷於酒色,得疾而亡。馮驩哭泣過哀,亦死,賓客自剄從死者百餘人。足見信陵君之能得士矣!明年,魏安釐王亦薨,太子增嗣立,是為景湣王。秦知魏新喪君,又信陵君已死,思報敗績之讎,遣大將蒙驁攻魏,拔酸棗等二十城,置東郡。未幾,又拔朝歌,又攻下濮陽。衛元君乃魏王之婿,東走野王,阻山而居。景湣王嘆曰:「使信陵君尚在,當不令秦兵縱橫至此也!」於是遣使與趙通好。趙悼襄王亦患秦侵伐無已,方欲使人往糾列國,重尋信陵平原二君「合從」之約。忽邊吏報道:「今有燕國,拜劇辛為大將,領兵十萬,來犯北界。」那劇辛原是趙人,先在趙時,原與龐煖有交。後來龐煖仕趙,劇辛投奔燕昭王,昭王用為薊郡守。及燕王喜被趙將廉頗圍困都城,賴將渠講和而罷,深以為恥。將渠相燕,原出於趙人所命,非燕王之意,雖則助信陵君戰秦有功,到底君臣之間,未能十分相信。將渠為相歲餘,即託病歸其印綬。燕王乃召劇辛於薊,用為相國,共圖報趙之事,奈心憚廉頗,不敢動撣。今日廉頗奔魏,龐煖為將,劇辛意頗輕之,乃迎合燕王之意,奏曰:「龐煖庸才,非廉頗之比。況秦兵已拔晉陽,趙人疲敝,乘釁攻之,栗腹之恥可雪也。」燕王大悅曰:「寡人正有此意,相國能為寡人一行乎?」劇辛曰:「臣熟知地利,若蒙見委,定當生擒龐煖,獻於大王之前。」燕王大悅,遂使劇辛將兵十萬伐趙。趙王聞報,即召龐煖計議。煖曰:「劇辛自恃宿將,必有輕敵之心。今李牧見守代郡,使引軍南行,從慶都一路來,以斷其後,臣以一軍迎戰,彼腹背受敵,可成擒矣。」趙王從計而行。 卻說劇辛渡易水,取路中山,直犯常山地界,兵勢甚銳。龐煖帥大軍屯於東垣,深溝高壘,以待其來。劇辛曰:「我軍深入,若彼堅壁不戰,成功無日矣。」問帳下:「誰敢挑戰?」驍將栗元,乃栗腹之子,欲報父讎,欣然願往。劇辛曰:「更得一人幫助方可。」末將武陽靖請行。劇辛給銳卒萬人,使犯趙師。龐煖使樂乘樂閒,張兩翼以待,而親率軍迎戰。兩下交鋒,約二十餘合,一聲砲響,兩翼並進,俱用強弓勁弩,亂射燕軍。武陽靖中箭而亡。栗元不能抵當,回車便走。龐煖同二將從後掩殺,一萬銳卒,折去三千有餘。劇辛大怒,急催大軍親自接應。龐煖已自還營去了。劇辛攻壘不能入,乃使人下書,約明日於陣前,單車相見。龐煖允之,兩下各自准備。至次日,彼此列成陣勢,吩咐:「不許施放冷箭。」龐煖先乘單車立於陣前,請劇將軍會面。劇辛亦乘單車而出。龐煖在車中欠身曰:「且喜將軍齒髮無恙。」劇辛曰:「憶昔別君去趙,不覺距今已四十餘年,某已衰老,君亦蒼顏。人生如白駒過隙,信然也。」龐煖曰:「將軍向以昭王禮士,棄趙奔燕,一時豪傑景附,如雲之從龍,風之從虎。今金臺草沒,無終墓木已拱,蘇代鄒衍,相繼去世,昌國君亦歸吾國,燕之氣運,亦可知矣!老將軍年踰六十,孤立於衰王之庭,猶貪戀兵權,持凶器而行危事,欲何為乎?」劇辛曰:「某受燕王三世厚恩,粉骨難報,趁吾餘年,欲為國家雪栗腹之恥!」龐煖曰:「栗腹無故攻吾鄗邑,自取喪敗,此乃燕之犯趙,非趙之犯燕也。」兩下在軍前反覆酬答,龐煖忽大呼曰:「有人得劇辛之首者,賞三百金!」劇辛曰:「足下何輕吾太甚?吾豈不能取君之首耶?」龐煖曰:「君命在身,各盡其力可耳!」劇辛大怒,把令旗一麾,栗元便引軍殺出。這裏樂乘樂閒,雙車接戰,燕軍漸失便宜。劇辛驅軍大進,龐煖亦以大軍迎之。兩下混殺一場,燕軍比趙損折更多,天晚各鳴金收兵。劇辛回營,悶悶不悅。欲待回軍,又在燕王面前誇了大口;欲待不回,又難取勝,正自躊躇。忽有守營軍士報道:「趙國遣人下書,見在轅門之外,未敢擅投。」劇辛命取書到,其書再三緘封甚固。發而觀之,略曰: 代州守李牧,引軍襲督亢,截君之後。君宜速歸,不然無及。某以昔日交情,不敢不告! 劇辛曰:「龐煖欲搖動我軍心耳!縱使李牧兵至,吾何懼哉!」命以書還其使人,來日再決死敵。趙使者已去,栗元進曰:「龐煖之言,不可不信。萬一李牧果引軍襲吾之後,腹背受敵,何以處之?」劇辛笑曰:「吾亦慮及於此。適纔所言,穩住軍心;汝今密傳軍令,虛札營寨,連夜撤回,吾親自斷後,以拒追兵。」栗元領計去了。誰知龐煖探聽燕營虛設,同樂乘樂閒,分三路追來。劇辛且戰且走,行至龍泉河,探子報道:「前面旌旗塞路,聞說是代郡軍馬。」劇辛大驚曰:「龐煖果不欺我!」遂不敢北進,引兵東行,欲取阜城,一路奔往遼陽。龐煖追及,大戰於胡盧河。劇辛兵敗,嘆曰:「吾何面目為趙囚乎?」自刎而亡。此燕王喜十三年,秦王政之五年也。髯翁有詩嘆云: 金臺應聘氣昂昂,共翼昭王復舊疆;昌國功名今在否?獨將白首送沙場! 栗元被樂閒擒而斬之。獲首二萬餘,餘俱奔潰,或降,趙兵大勝。龐煖約會李牧,一齊征進,取武遂方城之地。燕王親詣將渠之門,求其為使,伏罪乞和。龐煖看將渠面情,班師奏凱而回。李牧仍守代郡去訖。趙悼襄王郊迎龐煖,勞之曰:「將軍武勇若此,廉藺猶在趙也!」龐煖曰:「燕人已服,宜及此時『合從』列國,并力圖秦,方保無虞。」不知「合從」事如何,且看下回分解。
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