殘唐五代史演義傳第五十五回 史弘肇、孫飛虎を捕らえる (史弘肇擒孫飛虎)
要約
班師の詔に迷う知遠へ史弘肇が、将は外にあれば君命を受けぬこともある、鎮州を平定してから処分を仰げと進言した。弘肇は先に山を登って孫飛虎を生け捕り、郭威は鉄鞭で劉真を打ち殺し、曽杰も斬られた。営を焼き飛虎を斬り大軍は鎮州へ向かった。
安重栄は改めて契丹に援けを求め、出した張仲達は弘肇に両断された。四門を囲まれ董琦は先鋒を申し出、張仲徳は緑荷池に投身した。出城した重栄に知遠は斬りかかり副将周虎を斬り落とし、郭威は董琦を刺し殺した。重栄は籠城し、六月、四十余日の囲みで水が尽きた。牙将の胡衍は書を矢で晋営に射込み、三更に水城門を開いて内応し、民家に隠れた重栄は差し出された。知遠は民を安んじ献城の功で胡衍を免じ、重栄は長安で斬られ首は契丹主へ送られ、知遠は邢州太原府節度使となった。
首を見た契丹主は怒り、甲兵二十余万がある、再び背けば中原に来て他姓を立てるぞと告げさせた。晋王は憂憤から病み、鬼魂が夜ごと命を索めると涙し知遠を還朝させた。天福七年、還った知遠を前に王は斉王重貴・張皇后・馮道・景延広らを召し、太子重睿は年少ゆえ皇姪の重貴を立て、重睿が長じたら位を伝えよと遺命して知遠を証人とした。晋主は正月上旬、寿五十一、在位七年で崩じた。史臣は、晋祖が契丹に兵を請い州邑を賂に国を取り夷狄に屈したと断じ、逸狂も詩で君臣を責めた。卓吾子は、幼子を託された馮道が顧命に背く姿は荀息に及ばぬと評した。
現代語訳全文
班師の詔を退けて進撃する
劉知遠は班師を命じる詔書を受け取って不快になり、進むも退くもならず迷っていた。史弘肇が進言した。将は外にあれば君命を受けないこともある、功がまさに成ろうとする時に班師せよとの詔に従えば、後日の禍はまさに今日から始まる、兵は神速を貴ぶのだから構わず進軍して鎮州を平定し、その上で班師して朝廷の処分を仰げばよい、と。
知遠は進軍を令した。史弘肇は手に円い盾を執って真っ先に山を登り十余人を斬り殺し、郭威が後から一躍して城に上がった。史弘肇は孫飛虎を生け捕り、郭威は刃のない四稜の鉄棒すなわち鉄鞭の一撃で劉真を打ち殺し、逃げようとした曽杰は晋兵に斬られて肉泥となった。陣営に火を放って焼き、知遠は処刑役の兵に命じて孫飛虎を斬らせ、号令して大軍を鎮州へ進めた。
安重栄の防戦と将たちの最期
安重栄は魂も身に付かぬほど怯え、衆と謀って改めて使者を出し契丹主と結んで援けを求める一方、張仲達を出馬させた。張仲達は史弘肇と数合わたり合ったところで一刀のもとに両断された。大軍は四門を囲んで攻め立てる。張仲達が討たれ人馬が城池を囲んだと報じられると、安重栄はしばらく言葉も出なかった。董琦は、明日は主公みずから陣に臨まれよ、自分が先鋒を務めたいと申し出た。張仲徳は府に帰って自尽の場所を思案し、晋人に辱められまいと後園に入り、緑荷池に身を投げて死んだ。
四十余日の包囲
安重栄が兵を率いて出城すると、物見の兵が知遠に報じた。知遠は陣頭に出て、反賊よ馬を下りて死を受けよと罵り、安漢刀を振るって斬りかかった。安重栄の副将である周虎が槍を挙げて急ぎ受け止めたが、知遠に馬から斬り落とされた。安重栄は馬を返して逃げ、知遠はそのまま北の陣へ攻め入った。このとき郭威は董琦に出会い、一矛で刺し殺した。安重栄は城中に逃げ込んで出て来ず、知遠は続けて四十余日囲んだ。時は六月、城中は水が尽き、城を献じようと考える者が多く出た。
胡衍の内応と鎮州陥落
牙将の胡衍は城中が干上がったのを見て衆と謀り、書状を矢の先に結んで晋の営に射込み、内応外合で城を取ろうと通じた。知遠は書を得ると、ただちに全軍へ、内応の動きに合わせて外から攻めかかるよう命じた。
三更のころ、胡衍は衆を率いて水城門を開き、火炬を掲げて晋兵が入城したと大呼した。史弘肇が真っ先に城内へ斬り込んだ。安重栄は驚き慌てて民家に身を隠した。夜が明けて知遠は入城して民を安んじた。胡衍が罪を請うと、知遠は、城を献じた功があるから前の罪は免じると言った。民家から安重栄が差し出され、知遠は囚えて長安へ護送させた。翌日、知遠は将を割いて鎮州を守らせ、班師して長安に帰り、晋主に朝見して鎮州平定を奏した。晋王は大いに喜び、旨を下して安重栄を斬らせ、その首級を函に封じて使者に持たせ契丹主のもとへ送り、知遠を邢州太原府節度使に封じた。知遠はそのまま太原の鎮守へ赴いた。
契丹の恫喝と晋主の発病
契丹主は安重栄の首級が送られて来たのを見て大いに怒り、石郎は天子の位をどこから得たのかと言った。ただちに使者を返して石郎に告げさせた。我には甲を帯びた兵が二十余万ある、再びこのように我が言葉に背くなら兵を統べて中原に来り、他姓の者を君に立てるぞ、と。使者は唯々として長安に帰り、契丹主の言を晋王に奏した。
晋王は聞き終えて不快になり、宮中に退いて憂憤のあまり病となった。大臣の桑維翰らが宮中に入って安否を問うと、晋王は涙を流し、もはや事は成らぬ、朕は坐るも臥すも安からず、夜ごと鬼魂が宮中に来て命を索めるのだと言った。病勢は篤くなって次第に危篤となり、使者に詔を捧げさせて知遠を還朝させた。
晋主の遺命と崩御
天福七年、劉知遠は班師して洛陽に至り、宮に入って晋王に朝見した。王は、朕は死を忍んで卿の帰りを待った、今日その顔を見られたからには遺恨はないと言った。知遠は、臣は建州で手詔を受け、陛下の竜体に障りがあると聞いて、翅を挿して闕下に飛び至り陛下をお見舞いすることができぬのが恨めしかったと応えた。
晋主は斉王重貴および皇后張氏、宰相馮道、景延広らを召し、そろって御榻の前に至らせて言った。朕の太子重睿は年少で社稷の重任には堪えない、今は国家に難が多いから長君を立てて人民を安んずるのがよい、幸い甥である皇姪の重貴がいるので、この者をこの位に居らせたい、汝ら衆卿は伊尹・周公の心を己の心とし、重睿がやや長じたら位を伝えてほしい、それこそ宗廟と生霊の大幸であり、わが家の大幸でもある、と。言い終えると斉王を近くに呼び、さらに劉知遠を指して、汝ら衆臣が証人である、この位は重睿に返すべきものだ、朕の心に背くなと念を押した。知遠は涙を流し、一同みな胸を痛めた。
晋主は口がきけなくなり、ほどなく崩じた。時に天福七年正月上旬、寿五十一歳、在位七年であった。史臣の断はこう言う。晋祖は唐朝の皇室の娘婿という、他人に渡さぬ大切な婿の立場にあって地位も尊く勢いも重かったのに、猜疑を恐れる情に迫られて契丹に兵を請い、州邑を賂として人の国を取った。中国の君でありながら身を夷狄に屈し、玩好や珍異を道すがら絶え間なく送り、少しでも先方の意に適わなければ、契丹からの叱責がそれに続いた。当時の朝野で心を痛めない者はなかったのに、晋祖はこれに仕えて恥じる色もなかった。古人は一つの不義を行い一人の無辜を殺して天下を得ることさえしなかった、まして夷狄に附いて中国を伐ち、そのうえこれを奪う者はどうなのか。『綱目』が、晋王が尊号を契丹に奉り、契丹が晋王に尊号を加えたと書くのは、中国が夷狄に仕えて首足が倒れ懸かった極みを明らかにするためであり、契丹を憎み敬瑭を賤しむことの甚だしさを示している。
後の事がどうなるかは次回に述べる。逸狂は詩を作って晋の君臣を責めている。智短く才疎かな石敬瑭が奥向きすなわち身内の姻戚の不和から禍を招き、その禍は外からではなく垣根の内側から起こったのだ、北虜と結んでなんと面の皮の厚いことか、そむいて三関を攻め下した罪は償いようもなく重く、膝を屈して臣と称し恥辱に甘んじ、封を請い地を割いて綱常を壊した、奸臣として阿り附き従った桑維翰もおり、十二年のうちにことごとく滅び去った、という趣旨である(詩:逸狂)。
評語
卓吾子は評する。晋祖は幼子を馮道に託した。道がそれを不可と思うなら、なぜはっきりそう言わなかったのか。曖昧に答えるだけであった。亡骸の肉もまだ冷めぬうちに顧命に背いたその姿は、荀息に比べてどうであろうか。
原文(底本)
知遠接得詔書,心中不悅,進退兩難,正在疑惑不決,史弘肇曰:「將在外君命有所不受,功在垂成,而詔班師,他日之禍,自今日始矣!兵貴神速,只管進兵,平復鎮州,班師而回,隨朝廷發落。」知遠傳令進兵。史弘肇手執團牌,登山先砍死十餘人,郭威從後一躍上城。史弘肇捉了孫飛虎,郭威一鐧打死劉真,曾杰正走,被晉兵砍為肉泥。放火燒了營寨,知遠叫刀斧手斬了孫飛虎,號令大軍來到鎮州。 安重榮唬得魂不附體,與眾商議,再差人結納契丹主來相助,一邊令張仲達出馬。與史弘肇比手數合,被史弘肇一刀揮作兩段。大軍圍了四門攻打。報安重榮:「張仲達被殺死,人馬睏了城池。」安重榮半晌無語。董琦說:「明日主公親臨陣,末將願為先鋒。」張仲德回府尋思個自盡去處,免被晉人所辱,逕入後園,投於綠荷池中而死。 安重榮領兵將出城,哨探報知遠。知遠出陣大罵:「反賊下馬受死!」舉安漢刀就砍。有安重榮副將周虎舉槍急架,被知遠斬於馬下。安重榮勒馬走,知遠直入北陣。此時,郭威遇著董琦,一矛刺死,安重榮走入城中不出。知遠一連睏了四十餘日,時乃六月,城中無水,多有思獻城者。 牙將胡衍見城中乾暴,與眾商議,寫書拴於箭頭上,射入晉營,通信息,裡應外合取城。知遠得書,即傳令眾軍接應。 三更時分,胡衍引眾開了水城門,點起火炬,大叫:「晉兵入城!」史弘肇先殺入城中。安重榮驚惶,匿在民家躲避。天明,知遠入城安民,胡衍請罪,知遠說:「你有獻城之功,免了前罪。」民家獻出安重榮,知遠令囚起,解回長安。次日,知遠撥將守鎮州,傳令班師回長安,朝見晉主,奏知平服鎮州。晉王大悅,旨下斬訖安重榮,將首級函封,差使送去見契丹主,封知遠為邢州太原府節度使,便往鎮守太原去了。 卻說契丹主見送安重榮首級來,大怒曰:「石郎為天子從何得來?」即發使回見石郎說:「吾有帶甲二十餘萬,若再如此違我言語,即統兵來中原,立他姓為君。」使者喏喏回長安,將契丹主之言,奏知晉王。晉王聽罷不悅,退入宮中,憂憤成疾。大臣桑維翰等入宮中問安。晉王流涕曰:「不濟事矣!朕坐臥不安,夜見鬼魂來宮中索命。」病勢沉痾,漸漸危篤。差使捧詔宣知遠還朝。 天福七年,劉知遠班師還到洛陽,入宮朝見晉王。王曰:「朕忍死以待卿回,今日得見面,無遺恨矣!」知遠曰:「臣在建州得手詔,聞陛下龍體有恙,恨不能插翅飛至闕下,省視陛下。」晉主宣齊王重貴並皇后張氏、宰相馮道及景延廣等,齊至御榻之前。晉王曰:「朕太子重睿年幼,不堪掌社稷之重任,今國家多難,宜立長君,以安人民。幸有皇姪重貴,可居此位,願汝眾卿,以伊尹、周公之心為心,俟重睿稍長,傳位與之,誠宗廟生靈之大幸,亦吾家之大幸也!」言訖,喚齊王近前,復指劉知遠曰:「汝眾臣為證,此位當還重睿,勿負朕心!」知遠流涕,眾皆傷感。 晉主口不能言,須臾而崩。時天福七年,正月上旬也。壽五十一歲,在位七年。史臣斷曰: 晉祖以唐朝禁臠之親,地尊勢重,迫於情疑,請兵契丹,賂以州邑,而取人之國。以中國之君,而屈身夷狄,玩好珍異,旁午道途,小不如意,呵責繼之。當時朝野,莫不痛心,而晉祖事之,殊無赧色。夫以古人行一不義、殺一不辜而得天下,猶且不為,況附夷狄,以伐中國,又從而取之者乎?《綱目》書晉王尊號於契丹,契丹加晉王尊號,所以著中國,事夷狄,首足倒懸之極,其惡契丹而賤敬瑭也,甚矣! 欲知後事如何,且聽下回分解。 逸狂有詩責晉之君臣云: 智短才疏石敬瑭,閨閫嫌隙禍蕭牆。 結連北虜顏何厚?反下三關罪莫當。 屈膝稱臣甘恥辱,請封割地壞綱常。 奸臣阿附桑維翰,十二年來盡滅亡。 卓吾子評: 晉祖以幼子委馮道,道不可者,盍明言之?乃含糊不對。死肉未寒,乃背顧命,其視荀息為何如?
訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。